第32話
第三障壁の通路は、息を潜めた巨獣の喉元のように、重く淀んだ静寂に包まれていた。
崩れ落ちた天井のひび割れから、パラパラと細かな瓦礫が落ちてきた。
埃っぽい空気に混じって微かな土の匂いが広がった。
薄い光が隙間から差し込み、埃の粒子を舞わせていた。
だが、その美しさは戦いの残骸をただ強調するだけだった。
ヒサヒは壁に背を預け、両手をだらんと下げて息を荒げていた。
金髪が汗と埃で乱れ、頰の傷口から滴る血が着物の襟を赤く染めていった。
掌は震え、指先が微かに痙攣した。
技の反動が胆力を食い荒らし、血管を焼きつくすような痛みが腕全体を蝕んでいた。
「あぁもうイライラする……。くそっ……まだ、上手く制御ができねぇ……やりすぎちまった。彼が死ぬ前に、治療しないとな……」
ヒサヒはゆっくりと立ち上がり、なんとか動く右手で懐を探った。
革袋から小さな丸薬を取り出した。
一歩、近づく――キラリの倒れた姿へ。
少年の体は胴にぽっかりと開いた穴から鮮血を吐き出し、地面に赤い花を咲かせていた。
息は浅く、顔は蒼白で、命の灯が今にも消え入りそうな儚さだった。
マシロとレヴナはその傍らで気絶し、倒れていた。
ヒサヒの瞳にわずかな嘲りが浮かんだ。
「ふっ……本気を出すまでも無かったな。柄にもなく熱くなってしまった」
だが、その一歩を踏み出した刹那、ヒサヒの右手に異様な違和感が走った。
指先に絡みつくような、しかしそれ以上に重く確かな感触。
なにかが右手首を掴んだ。
鋼の枷のような、しかし柔らかく生命の温もりを帯びたなにか。
「なんだ……?」
ヒサヒは慌てて手元を見下ろした。
そこにぼんやりとした青白い輪郭が浮かび上がっていた。
青白い輝きが渦を巻き、形を成した。
それは手だった。
無数の指が絡みつく、光の幻の手。
ヒサヒの指を優しくしかし容赦なく解きほぐし、丸薬を奪い取った。
薬の欠片が光の掌に包まれ、キラリの体へと滑るように飛んでいった。
「は? なんだ今のは……忍術か? 侍刀技か?」
キラリの胴の穴に丸薬が埋め込まれた。
魂の欠片が宿るように。
次の瞬間、無数の輝く手がキラリの体から溢れ出した。
大小さまざまな形のそれらは柔らかく、しかし鋼のように固く、少年の傷口を覆い押さえ修復を始めた。
血の流れが止まり、裂けた肉がゆっくりと寄り合い、骨の軋みが微かな音を立てて癒えていった。
粒子の輝きがキラリの肌に染み込み、青白い輝きが体全体を包んだ。
それはただの治療ではない――隕石の残魂が宿主を守るための永遠の守護だった。
ヒサヒの瞳が見開いた。
「覚醒……したのか……!」
ヒサヒの心に初めての恐怖が芽生えた。
光の手は意志を持った生き物のように蠢き、キラリの体を優しく抱え上げた。
少年の息が徐々に深くなり、蒼白だった頰にわずかな血色が戻った。
キラリは夢を見ていた。
それは遠い記憶の残響。
銀河の果てしない闇を漂う魂の孤独。
そして最近の約束。
仲間たちの笑顔、絆、守るべきものの温かさ。
夢は現実の延長のようにぼんやりと広がり、しかし冷めた歴史の一ページのように胸を締めつけた。
夢の中でキラリは果てしない虚空に佇んでいた。
星屑がゆっくりと回転する銀河の渦巻きが周囲を照らした。
そこに一人の男が現れた。
黒髪をきっちりと束ね、文人肌の優雅な着物に身を包んだ姿の吉良上野介。
男の顔は怒りに満ちたような、呆れたような、それでいて父のような優しい目をしていた。
雪原の血塗れの記憶が男の瞳に宿り、今は静かな諦念がそれを包んでいた。
「また死にかけ……、死んでいるじゃないか」
吉良の声は低く響き、虚空に溶け込むように優しかった。
だが、その言葉の端に拭いきれぬ悔恨の棘が刺さった。
キラリは夢の中で体を起こし、男を見つめた。
「ごめんなさい……また、みんなを巻き込んで……それにキラさんも……」
吉良はゆっくりと近づき、キラリの肩に手を置いた。
その感触は冷たくしかし温かく、永遠の旅路を思わせた。
「謝るな。お前の体は、私の宿り場だ。死ねば、私もまた虚空に還るだけ……。ここで終わってもそういうものだったと私は受け入れる。だが、まだ戦うというのなら少なからず助力しよう」
キラリは夢の中でさえ仲間たちの顔が浮かんだ。
「戦えます。絶対に、生きて帰ります」
「そうか……無茶はするなよ、キラリ。今一度力を貸そう」
虚空がゆっくりと溶けていった。
吉良の姿が星屑に変わり、キラリの胸に溶け込んだ。
キラリは目を覚ました。
無数の光の手が巨大な一つの掌となり、キラリの体を優しくしかし力強く起こした。
肩の傷口がゆっくりと塞がり、胴の穴が肉芽を形成して閉じていった。
痛みは残ったが、それはもはや死の予感ではなく生きるための鼓動だった。
キラリの瞳がゆっくりと開いた。
そこに宿るのは少年の純粋さと吉良の悔恨が融合した、果てしない深淵だった。
ヒサヒの顔が青ざめた。
「これが……隕石の力か……化け物め!」
金髪の彼の声に初めての動揺が混じった。
背筋に冷たいものを感じた。
これはただの力ではない。
魂の守護、秩序を崩す八人目の残響だった。
「やられる前に、やってやる!」
ヒサヒは咄嗟に懐から棒手裏剣を取り出し、キラリの喉元へ投げつけた。
鋼の冷たい閃光が空気を切り裂き、死の矢のように飛んだ。
だが、光の手がそれを掴んだ。
無数の指が絡みつき、手裏剣を優しく包み込み粉々に砕いた。
金属の欠片が散らばる音が静寂を破った。
「効かないよ……もう、なにも。彼が助けてくれるから」
キラリはゆっくりと立ち上がった。
体から溢れる光の手が無数に蠢き、周囲を覆った。
声は低くしかし通路全体に響いた。
「だからごめん……手加減できない」
ヒサヒが短刀を抜こうと手を伸ばした。
だが、光の腕が彼の右腕を押さえつけた。
鋼のように固くしかし柔らかく、彼の動きを封じた。
「さよなら」
次の瞬間、キラリの体が押し出されるように前進し、力の奔流が体現された蹴りがヒサヒの顔面に叩き込まれた。
ゴキン!
鈍い衝撃音が響き、金髪の彼の体が壁に激突した。
「かっ……」
石材がひび割れ、粉塵が舞い上がり、ヒサヒの体が糸の切れた人形のように崩れ落ちた。
たった一撃だった。
ヒサヒの意識が闇に沈んだ。
頰の傷口から血が滴り落ちた。
天才のプライドが粉々に砕け散った瞬間。
キラリは勝利した。
だが、無情にも追撃を仕掛けた。
光の手を束ねた質量の塊。
それは巨大な拳となり、ヒサヒの体を葬るには十二分に過ぎる攻撃を振りかぶった。
空気が震え、地面が軋んだ。
一撃で少年の命を絶つだろう。
刹那、キン、という澄んだ音が通路に響いた。
キラリの体が硬直した。
光の手が揺らぎ、奔流が一瞬で収まった。
少年の瞳がぼんやりと曇り、意識が闇に落ちた。
吉良の声が胸の奥でかすかに囁いた。
「よくやった……休め」
通路に再び静寂が訪れた。
瓦礫の落ちる音だけが、ゆっくりと響いていた。




