第30話
第三障壁の内壁が、巨獣の咆哮を吐き出すように、ドゴン! ドゴン! と地響きを立てて崩れ落ちていた。
石塊が雨のように降り注いだ。
埃が視界を覆った。
そこに二つの影が激しくぶつかり合っていた。
トモエとチバナ――霧の国の忍者同士の、荒々しくも洗練された殴り合いだった。
壁は次々と粉砕され、要塞の骨組みを露わにしていた。
トモエの息が荒かった。
「なんて馬鹿力だ……これでまだ技を使ってないとか嘘だろ」
彼女の拳は鋼のように硬く、しなやかだった。
チバナの守りを何度も抉っていた。
忍法『身気功』で全身の筋肉を鋼化させた一撃が、相手の肩を掠めた。
衝撃で空気がビリビリと震えた。
だが、チバナも負けていなかった。
おさげの髪が乱れ、眼鏡のレンズに埃が付着しても、彼女の動きは精密機械のように正確だった。
「ここまで苦戦するのは久しぶりです。あなたも大概化物ですよ」
掌底がトモエの脇腹を捉えた。
骨が軋むような鈍い音が響いた。
ドン!
「痛ってぇなぁ!」
トモエは歯を食いしばり、痛みを堪えながら後退した。
打撃の応酬は、二つの嵐が激突するようだった。
避け、交差し、壁に叩きつけては破壊を繰り返した。
石壁が砕け散るたび、破片が二人の周囲に雪崩れ落ちた。
足元が不安定になった。
胆力を練り上げ、体を極限まで強化したシンプルな殴り合いだった。
互いの限界を試すように。
「おらあっ!」
トモエの肘がチバナの顎を掠めた。
少女の眼鏡がわずかにずれ、血の味が口に広がった。
「ふんっ!」
チバナの膝蹴りがトモエの太腿を捉えた。
筋肉が引き裂かれるような痛みが走った。
チバナは眼鏡を押し上げ、息を整えながら、冷ややかに笑った。
彼女の瞳は、知的な輝きを失わず、むしろ戦いの興奮で鋭さを増していた。
細い腕が再び構えを取った。
その動きは、計算された機械の歯車のように、無駄がなかった。
「あなた、忍者ですよね? なんで他の忍法を使わないのですか? このままでは、ただの喧嘩ですよ。効率が悪いと思いません?」
チバナの言葉は、挑発ではなく、純粋な疑問のように聞こえた。
それが余計にトモエの闘志を煽った。
「今更言うか!」
二人は再び距離を詰め、拳の嵐を交わした。
トモエの肘打ちがチバナの肩を砕きかけた。
だが、少女はそれを掌で受け止め、反撃の掌底をトモエの胸に叩き込んだ。
「ゴフッ!」
衝撃が肺を震わせ、トモエの体が壁に激突した。
石材が蜘蛛の巣のようにひび割れた。
チバナの息も乱れ始め、眼鏡のレンズに細かな亀裂が入っていた。
互いの強化された肉体は、限界に近づきつつあった。
このままでは、どちらかが折れるまで続く、消耗の戦いだった。
しかし、その瞬間――二人の視界を横切る、黒い影が閃いた。
それは、風を裂くような速さで現れ、トモエとチバナの間を一瞬で通り抜けた。
影の主は、黒髪をきっちりと束ねた青年だった。
腰に佩いた刀の柄が、わずかに光を反射した。
「通路で暴れるんじゃない」
次の刹那、青年の両拳が、雷鳴のごとく同時に放たれた。
トモエの鳩尾へ、チバナの鳩尾へ――精密で、容赦ない一撃。
ドスッ! ドスッ!
拳が肉にめり込み、二人は同時に膝をついた。
息が詰まり、視界が白く閃いた。
「ぐっ……」
トモエの喉から、くぐもった呻きが漏れた。
内臓がねじれるような痛みが、全身を駆け巡った。
強化された筋肉さえも一瞬、力を失った。
「がはっ……」
チバナの眼鏡がずれ、彼女の細い体が前屈みになった。
地に手をついて咳き込んだ。
トモエは、痛みを堪えながら顔を上げ、青年を睨んだ。
「くっ……強化してるってのに……まだこんな敵が残っていたのか……!」
汗が目に入り、視界がぼやける中、青年の姿がぼんやりと浮かび上がった。
黒髪の侍装束、冷静沈着な眼差し――その瞳に、底知れぬ重みが宿っていた。
青年は、倒れた二人を交互に見下ろし、息を吐いた。
拳を緩め、わずかに眉を寄せた。
「君は……すまない。味方だったか。――キラリはどこにいる?」
トモエの瞳が見開いた。
痛みが引かぬまま、彼女は体を起こし、青年の顔を凝視した。
霧の国の忍者として、数多の敵と対峙してきたが、この男の気配は違った。
圧倒的な、しかし守るべきもののための力――それは、キラリを守るためのものか?
「キラリは……渡さない」
トモエの声は決意を込めて響いた。
青年の瞳が、わずかに柔らかくなった。
それは、理解の光だった。
青年は懐から小さな丸薬を取り出し、トモエの掌にそっと置いた。
薬の表面は滑らかで、かすかな薬草の香りが漂った。
それは、痛みを和らげ、胆力を回復させる秘薬だった。
「これを飲め。楽になる」
トモエは一瞬、躊躇した。
敵か味方か――だが、青年の眼差しに、偽りはなかった。
「ありがとう……ございます」
彼女は丸薬を口に含み、苦い味が舌に広がるのを堪えた。
痛みが徐々に引いていくのを感じ、息を整えた。
青年は、続けた。
声は低く重みがあった。
「俺はなかごノカミ。キラリを救出しに来た――頼む、教えてくれ」
「なかご……って、クラノの……?」
その瞬間――チバナが跳ね起きた。
おさげの髪が乱れ、眼鏡のレンズに殺意が宿った。
「――行かせない!」
チバナの声が、鋭く響いた。
だが、次の刹那――ノカミの腰の刀が、キンと高く澄んだ音を立てた。
鯉口を切る、わずかな動き――抜刀すら見せぬ、超高速の居合術。
空気が裂けた。
チバナの瞳が見開き、体が糸の切れた人形のように崩れ落ちた。
喉元に、刀の気配が触れただけで、彼女の意識が闇に沈んだ。
それは、十侍の名を冠する男の力の一端だった。
トモエは、それを見て息を飲んだ。
「……キラリは、試験会場だ。俺達が戦ってできた穴を通っていけば、辿り着く。あと……クラノが攫われた。すまない」
ノカミは頷いた。
刀を鞘に収め、チバナの体を一瞥した。
「分かった。後は大人の仕事だ」
そう言い残し、ノカミは一瞬で姿を消した。
残されたトモエは、丸薬の余韻に体を震わせ、ゆっくりと立ち上がった。
戦いの残響が、胸に熱く灯った。
修練場の喧騒は、まだ続いていた。
裏切りの渦が、新たな剣戟の幕を開けようとしていた。




