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エアリス編 第十一章 梅の花の能力~開花~① エアリスのノート

第十一章 梅の花の能力~開花~


 ルゼリアの朝は、相変わらず穏やかで、世界の歪みなどどこにも存在しないかのような静謐さに満ちていた。けれど、俺の心は昨夜の家族の団欒を経てもなお、冷たいおりが沈んだままだった。イーストレイクのイレンティア大聖堂で学んだ、聖位の癒し魔術リジェレネイトヒーリング、そしてカーディナルの禁書に記された不吉な予言。それらすべてを体と心に宿して、俺はエアリスの家へと向かった。


 エアリスの家の前に立つと、かつての賑やかさは影を潜め、どこか痛々しいほどにひっそりとしていた。扉を叩くと、出てきたのはエアリスのお母さんだった。エアリスのお母さんの顔色は、聞いていた重い病は聖水の恩恵を受けて劇的に改善されていた、病気を患った苦しい表情ではなく、健康的な赤みを帯びた顔色だった。

 エアリスのお母さんは「ルーメン君、聖水本当にありがとうね、この通り病気もほぼ完治したわ」

 彼女は深々と俺に頭を下げた。俺の小さな手が、一人の命を救った事実は揺るぎない。けれど、彼女の瞳の奥には、そしてより深い混迷と焦燥の影が差していた。

 「ルーメン君、エアリスのことなんだけど、私にもエアリスの姿がほとんど見えないのよ。どこにいるのかと、いつも名前を呼んだり、家の中をくまなく探して、近所中探し回ってるんだけど。たまに私の傍でエアリスの姿を見られるの。抱きしめようとしても、エアリスが消えちゃって、エアリスに触れることもできないし。そのあとに何故か風が渦巻いているのよ。私もどうしていいのかわからなくて」

 その言葉に、俺は心臓を鷲掴みにされたような衝撃を覚えた。

 「時々エアリスの姿が見えるからね、家にはいるんだろうと思って、ちゃんとエアリスのご飯を用意してるの。でも、呼んでも来ないし、部屋を見てもいないのよ。心配だけど、私が朝起きたら、ご飯をちゃんと食べてて。あの子の病気治るのかしら、とても心配だわ。リリィ先生に相談もしたんだけど、リリィ先生も治し方がわからないみたいで」

 エアリスはちゃんとご飯を食べている、食べているのに、見えない。たまに姿が見えても触れようとしても、触れる前に消えてしまう。それはどれほど残酷な世界との断絶という状況だろうか。エアリスは、母を救うために必死で耐えてきた。その母が回復した今、エアリス自身の存在が、世界の境界線からこぼれ落ちようとしているのだ。

 「ルーメン君、エアリスの部屋見ていく?ルーメン君ならエアリスと仲がいいし、姿を現してくれるかもしれないし」

 震える声で提案するお母さんの後を追い、俺はエアリスの「不在の部屋」へと足を踏み入れた。



 エアリスの部屋に案内された、ベッドに机、衣装箱、質素だが整理された部屋。

 窓から差し込む陽光が、宙を舞う埃を照らしている。だが、主を失ったかのような静寂。けれど、そこには確かにエアリスが生きてきた温度が残っていた。机の上に置かれた、小さな傷がついたペン。畳まれたままの着替え。五歳の少女が、この部屋で一人、自分が消えていく恐怖とどれほど向き合ってきたのかを思うと、胸が締め付けられる。

 机の上には数冊のノートが置いてある。主に学校で習ったことが書いてあるノートだった。

 たどたどしい筆致で記された魔術の基礎、算術の練習。俺と一緒に過ごした、あの平和な教室の風景がそこには封じ込められていた。

 その中の1冊に、日記のようなものがあった。

 それは、使い古されたノートだった。表紙には小さな花の絵が描いてある。

 他人の日記を見るのは失礼だとは思ったが、エアリスの手がかりがあるかもしれないと思い、見ずにはいられなかった。

 僕は震える指で、その頁をめくった。そこには、五歳の少女が抱えるにはあまりにも重すぎる「世界」が綴られていた。



 「学校の男子からいじめられている、何もしていないのに何で?とても辛い。なんでいじめるの?なんで誰も助けてくれないの?」

 「今日も学校の男子からいじめられた。でもルーメン君が助けて救ってくれた、ルーメン君には感謝してもしきれない、友達になれたら、恩返ししていこう」

 「今日も学校の男子が石を持って近づいてきた。けど、今日もルーメン君が間に入って助けてくれた。ルーメン君はすごい魔術を使っている。友達になれたら、私も守れるようにルーメン君に魔術を教えてもらいたいな」

 最初の方に記されていたのは、俺との出会いの頃の話だった。俺がいじめから守ると行った救いの手が、エアリスにとってどれほどの光であったか記されていた。

そのあとは、俺とエアリスが友達になって、家で俺やセリナ姉やエレナと遊んだ楽しい思い出が書かれていた。

 けれど、次の頁めくるとは急速に暗雲が立ち込める。

 「お母さんが病気になったみたい、お母さんが家事の合間に疲れた顔でよく座り込んでいた、お母さんを助けるために手伝いもしたけど、お母さんの病気は悪くなっているみたい、お母さんの顔がどんどん辛い表情になって座り込むことが多くなった」

「お母さんの病気が悪くなっている。重い病気になったみたい。お父さんが慌てている、私も必死にお母さんを手伝った。お父さんがルーメンのお母さんに癒し魔術を何度もお願いして癒し魔術をしてもらったけど治らない。お母さんの病気は治らないのかな」

 文字が、涙で滲んでいる。

 「お父さんが、街の教会に行ったけど、大神官様の癒し魔術か聖水でしか治らないだろうと言われたみたい。うちはそんなに裕福じゃないので、聖水は買えない。お父さんも怪我の後遺症があるし、どうなるのかな、お母さん、死んじゃうのかな、誰かお母さんを助けてよ」

 そこには、無力な子供が直面する、最も根源的な絶望が記されていた。大神官の言っていた、心と体の不調和。エアリスの身体を壊し始めたのは、魔石魔力の暴走ではない。この日記に刻まれた、不安と恐怖と絶望そのものが、エアリスの存在という楔を内側から引き抜いてしまったのだ。

 

 そこで日記は終わっていた。

 あの日、彼女が僕の前で泣き崩れた時、日記を綴る力さえも失ってしまったのだろうか。

 俺は祈るような気持ちで、残りの白い頁をめくっていった。何も書かれていない、空白の時間が続く。

 だが、ぱらぱらとめくるとノートの最後の1ページに、殴り書きのような、けれど魂を削り出したかのような言葉が刻まれていた。

 「私、おかしくなってる。私の体が風に流されるように消えて、私の体の中を風が通り抜けていってる。誰か助けてよ。私怖いよ。お願い、ルーメン、助けて。私のことを思い出して、異変に巻き込まれた私の体を元に戻して」

 それは、日記ではない。この世界のどこかに漂流してしまった彼女が、唯一の希望である俺へと宛てた、救いを求める悲痛な声だった。

 そして、日記を綴った文字とは違う、魔力が混じったかのような歪な筆致、これはエアリスがペンで書いた文字じゃない。エアリスの悲痛な声が魔力となって、救いを求める声を作り出したのだ。

 直感で感じた。彼女は今、この部屋の、すぐ近くにいる。俺はノートを強く抱きしめた。

 「エアリスを風の中から呼び戻す、エアリスの心の傷から起きた体の異変を元に戻さないと、エアリスを救い出さないと」

 俺の周囲で、空気が微かに震え始める。イレンティア大聖堂で習得した膨大な知識と、五歳の少年の純粋な願いが、俺の体内で蕾を咲かせ始めた。ついに、開花の時が迫っていた。


最後まで読んで頂きありがとうございます


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