エアリス編 第十一章 梅の花の能力~開花~① エアリスのノート
第十一章 梅の花の能力~開花~
ルゼリアの朝は、相変わらず穏やかで、世界の歪みなどどこにも存在しないかのような静謐さに満ちていた。けれど、僕の心は昨夜の家族の団欒を経てもなお、冷たい澱が沈んだままだった。聖都で学んだ「聖位」の癒やし、そしてカーディナルの禁書に記された不吉な予言。それらすべてを携えて、僕は彼女の家へと向かった。
翌日、エアリスの家に行った、
家の前に立つと、かつての賑やかさは影を潜め、どこか痛々しいほどにひっそりとしていた。扉を叩くと、出てきたのはエアリスのお母さんだった。彼女の顔色は、聖水の恩恵を受けて劇的に改善されていた。かつての死相は消え、頬には健康的な赤みが差している。
エアリスのお母さんは「ルーメン君、聖水ありがとうね、病気もほぼ完治したわ。
彼女は深々と僕に頭を下げた。僕の小さな手が、一人の命を救った事実は揺るぎない。けれど、彼女の瞳の奥には、新たな、そしてより深い「混迷」の影が差していた。
「でもエアリスの姿が時々しか見えないの」
その言葉に、僕は心臓を鷲掴みにされたような衝撃を覚えた。
「ちゃんとエアリスのご飯を用意してるの、朝起きたら、エアリスが食べたみたいなんだけど、あの子の病気治るのかしら、心配だわ、とても」
そこにあるのに、見えない。触れようとしても、すり抜ける。それはどれほど残酷な「断絶」だろうか。エアリスは、母を救うために必死で耐えてきた。その母が回復した今、彼女自身の存在が、世界の境界線からこぼれ落ちようとしているのだ。
「エアリスの部屋見ていく?」
震える声で提案するお母さんの後を追い、僕は彼女の「不在の空間」へと足を踏み入れた。
エアリスの部屋に案内された、ベッドに机、衣装箱、質素だが整理された部屋。
窓から差し込む陽光が、宙を舞う埃を照らしている。主を失ったかのような静寂。けれど、そこには確かにエアリスが生きてきた温度が残っていた。机の上に置かれた、小さな傷がついたペン。畳まれたままの着替え。五歳の少女が、この部屋で一人、自分が消えていく恐怖とどれほど向き合ってきたのかを思うと、胸が締め付けられる。
机の上には数冊のノートが置いてある。主に学校で習ったことが書いてあるノートだった。
たどたどしい筆致で記された魔法の基礎、数式の練習。僕と一緒に過ごした、あの平和な教室の風景がそこには封じ込められていた。
その中の1冊に、日記のようなものがあった。
それは、使い古された安価なノートだった。表紙には小さな花のシールが貼られている。
他人の日記を見るのは失礼だとは思ったが、エアリスの手がかりがあるかもしれないと思い、見ずにはいられなかった。
僕は震える指で、その頁をめくった。
そこには、五歳の少女が抱えるにはあまりにも重すぎる「世界」が綴られていた。
「学校の男子からいじめられている、何もしていないのに何で?とても辛い。でもルーメンが救ってくれた、ルーメンには感謝してもしきれない、友達になれたら、恩返ししていこう」
最初の一頁に記されていたのは、僕との出会いだった。僕が何気なく行った救いの手が、彼女にとってどれほどの光であったか。
けれど、次の頁からは急速に暗雲が立ち込める。
「お母さんが重い病気になったみたい、お母習う度に疲れた顔でよく座り込んでいた、お母さんを助けるために手伝いもしたけど、ダメだった。お父さんがルーメンのお母さんに癒し魔術を何度もお願いして癒し魔術をしてもらったけど治らない。」
文字が、涙で滲んでいる。
「お父さんが、街の教会に行ったけど、大神官様の癒し魔術か聖水でしか治らないだろうと言われた。うちはそんなに裕福ではないので、聖水は買えない。お父さんも怪我の後遺症があるし、どうなるのかな、お母さん、死んじゃうのかな」
そこには、無力な子供が直面する、最も根源的な絶望が記されていた。大神官の言っていた「心と体の不調和」。彼女の身体を壊し始めたのは、魔石の暴走だけではない。この日記に刻まれた「絶望」そのものが、彼女の存在という楔を内側から引き抜いてしまったのだ。
そこで日記は終わっていた。
あの日、彼女が僕の前で泣き崩れた時、日記を綴る力さえも失ってしまったのだろうか。
僕は祈るような気持ちで、残りの白い頁をめくっていった。何も書かれていない、空白の時間が続く。
だが、ぱらぱらとめくるとノートの最後の1ページに、殴り書きのような、けれど魂を削り出したかのような言葉が刻まれていた。
「ルーメン、助けて、私のことを思い出して、イメージして具現化して」
それは、日記ではない。
この世界のどこかに漂流してしまった彼女が、唯一の希望である僕へと宛てた、時空を超えた「SOS」だった。
日記を綴った文字とは違う、魔力が混じったかのような歪な筆致。
彼女は今、この部屋の、すぐ近くにいる。
僕はノートを強く抱きしめた。
「具現化する……。イメージする……。そうだ、僕が彼女を『ここ』に引き留めなきゃいけないんだ!」
僕の周囲で、空気が微かに震え始める。
聖都で習得した膨大な知識と、五歳の少年の純粋な願いが、僕の体内で火花を散らした。
ついに、開花の時が迫っていた。
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