学院3年ソアラ編 第八十六章 ミリィの入学⑩ 発覚と結託
小さく息を吸ってから、俺はミリィを見た。
ごまかすのは、やっぱり違うと思った。今は少し気まずくても、ちゃんと話した方がいい。ミリィはそういう相手だし、俺達もこれから同じ学院で過ごしていくのだから、変に隠してあとでややこしくなるよりは、その方がいい気がした。
「実はさ」
そう口を開いた瞬間、ミリィの目が少しだけ大きくなった。たぶん、何かが出てくると分かって身構えたのだろう。
「僕は、男子寮じゃないんだよ」
そこで一度だけ言葉を切る。ミリィは黙って続きを待っていた。エアリスも横で何も言わない。妙に静かな時間だった。
「リリィ先生の研究室に、住まわせてもらってるんだ。色々あってね」
その言葉を言い終えた瞬間、ミリィの動きが止まった。
本当に、ぴたりと止まった。歩いていた足も、揺れていた髪も、さっきまでの上機嫌そうな空気も、一瞬できれいに凍りついたみたいだった。
その顔に最初に浮かんだのは、理解できなかった時の、きれいな空白だった。
「……はい?」
少し遅れて出た声は、完全に固まったままのものだった。
聞こえなかったわけではなく、意味がそのまま入ってこなかったのだろう。
俺も、まあそうなるよなと思った。初めて聞けば、普通に驚く話だ。
「だから、その……リリィ先生の研究室に住んでるんだ」
もう一度言うと、今度はちゃんと意味が届いたらしい。
届いた瞬間、ミリィの表情が一気に変わった。まず驚き。次に混乱。そのあとで、信じられないものを見るような目。
「リリィ先生、って」
ミリィの声が少しだけ上ずる。
「ルゼリアの先生ですよね?」
「うん」
「リリィ先生、の、研究室に?」
「そう」
そこまで確認してから、ミリィは完全に固まった。
視線が俺に貼りついたまま、頭の中で必死に何かを整理しているのが分かる。
そして数秒遅れて、その混乱が一気に言葉になった。
「ルーメン、が、リリィ先生と、一緒に、暮らしてる?」
妙に区切りながらそう言うのが、混乱の深さをそのまま表していた。
「えっ? どういうことなんですか? 全然分かりません」
そこから先は、もう止まらなかった。
「部屋を間借りしてるってことですか?それとも、同棲してるってことですか?詳しく、説明をお願いします」
“同棲”という単語が出た瞬間、俺は少しだけ言葉に詰まった。
やっぱりそこへ行くんだな、と思う。いや、ミリィなら行く。むしろ行かないはずがない。
変な遠慮をしないし、気になったところはそのまま聞く。しかも、さっき食堂で恋愛の話題を投げたばかりなのだから、なおさらだ。
「同棲っていうのは違うよ」
俺はできるだけ落ち着いた声でそう言った。
「これは、リリィ先生から言われたことなんだ。将来、リリィ先生の研究室で働くことになってるから、今のうちからやれることを進めておこうってことで、研究室に住むように言われたんだよ」
言いながら、自分でも少し説明っぽいなと思う。
けれど、こういう話は順番に言わないと余計に誤解される。
「将来の仕事のため?」
ミリィが眉を寄せる。
「うん。僕、もう魔術の研究も手伝ってるし」
そこまで言うと、ミリィの顔にまた別の驚きが乗った。
今度は“住んでる”だけじゃなく、“もう働く準備まで始まってる”ことへの驚きだろう。
「そんなに進んでるんですか?」
「そうだね。少しずつだけど」
「少しずつっていう話じゃない気がします」
その返しが妙に真顔で、俺は少し困った。
でも、ミリィの感覚としてはそうなのだろう。
学院生のうちから先生の研究室に住み込みで手伝っている、というのは、たしかに普通ではない。
「でも、本当に仕事のためなんだよ」
俺は念押しするようにそう言った。
ここはちゃんと言っておかないと、話がどこへ転がるか分からない。
ミリィは腕を組んで、じっと俺を見た。
その顔は、完全に納得した顔ではなかった。
むしろ、“今説明は聞いているけど、それで全部信じるかは別です”という顔だ。
「リリィ先生が連れ込んだんですか?」
「連れ込んだって……」
言い方がすごいなと思いながらも、俺は首を横に振った。
「そういうんじゃないって」
「じゃあ、あくまで仕事としてですか?」
その聞き方は鋭かった。
たぶんミリィの中では、そこがかなり大事なのだろう。
仕事として住んでいるのか、それともそれ以外の何かが混ざっているのか。
そして正直に言えば、リリィ先生の振る舞いを全部思い出すと、こちらも“完全に誤解の余地がない”と言い切る時に少し気を使う。
それでも、答えるしかない。
「将来の仕事のためだよ」
俺はそう言い切った。
「それが一番大きい」
“それが一番大きい”という言い方になったのは、自分でも少し引っかかった。
でも、完全に嘘ではない。少なくとも、俺がそこで生活している理由の中心は本当にそこにある。
ミリィはその言葉を聞いても、まだすぐには頷かなかった。むしろ、少しだけ目を細めて俺を見ている。
その視線には、疑いと心配と、あと少しだけ“本当に大丈夫なんですか”という気持ちが混ざっているように見えた。
「……怪しいです」
ぽつりと、ミリィがそう言った。
その率直さに、俺は思わず苦笑するしかなかった。
やっぱりそう見えるのか、と思う。見えるだろうなとも思う。
「でも」
ミリィはそこで少しだけ息をついた。
「今のところは、説明としては分かりました」
“今のところは”。
その留保がしっかりついているのが、なんともミリィらしかった。
完全に信じ切るわけじゃない。
でも、今はちゃんと聞いた上で受け止めようとしている。そういう感じだ。
ただ、その表情を見る限り、まだ終わっていないのも分かった。たぶんミリィの中では、この話は俺だけで完結していない。
俺がどう説明するかだけじゃなくて、それをエアリスがどう思っているのかまで含めて、ようやく全体像になるのだろう。
そして案の定、次にミリィの視線は、ゆっくりとエアリスへ向いた。
ミリィの視線がエアリスへ向いた瞬間、俺は心の中で、やっぱりそっちへ行くよなと思っていた。
そうだろうと思っていたし、たぶんそこを通らないと、この話はミリィの中で終わらない。
「それについて、エアリスはどう思ってるんですか?」
ミリィの聞き方は、今までより少し落ち着いていた。けれど、その分だけ真面目だった。俺へ向けていた時みたいな混乱や勢いだけじゃなく、“ここが大事です”という意識がはっきり入っている声だった。
エアリスは、その問いを受けてすぐには答えなかった。
少しだけ視線を落として、春の夕方の光の中で、小さく息をつく。
その横顔を見ていると、たぶんエアリスは今、言葉を選んでいるのだろうと思った。
そして、ゆっくりと顔を上げる。
「最初から分かってたことだからね」
その言い方は、とても静かだった。静かだったけれど、逃げている感じはしなかった。
むしろ、ちゃんと自分の中で何度も考えてきたことを、そのまま言葉にしているような響きがあった。
「正直、モヤモヤするところもあるよ」
その一言に、ミリィが少しだけ目を大きくした。
たぶん、そこははっきり聞きたかったのだろう。エアリスが本当に何も思っていないわけじゃない、ということを。
「でも」
エアリスは続けた。
「納得してる」
その言葉は短かったけれど、思っていたよりずっと重かった。
モヤモヤする。それでも納得している。その両方をちゃんと並べて言うあたりが、いかにもエアリスらしいと思った。無理に綺麗にまとめないで、自分の揺れも認めた上で、それでも自分がどう受け止めているかをはっきり言う。
ミリィは黙ってエアリスを見ていた。その目は、今度は疑うというより、ちゃんと聞こうとしている目だった。
「最初から分かってたっていうのは……?」
ミリィがそう聞くと、エアリスは少しだけ笑った。
「ルーメンが、リリィ先生にすごく期待されてるってこと。将来、研究室で働くことになるかもしれないってことも、前から聞いてたし」
そう言ってから、少しだけ肩をすくめる。
「もちろん、実際に研究室で住むってなった時は、びっくりしたよ」
たしかに、あの時のエアリスは驚いていた。いや、驚いていたどころではなかった気もする。けれど、今はそれを少しやわらかく言い直してくれているのだろう。
「でも、ルーメンがそこでやってることも、ちゃんと分かってるから」
エアリスはそう続けた。
「研究を手伝ってるのも本当だし、将来の仕事に繋がるのも本当。だから、気持ちの上で引っかかるところはあっても、納得はしてるんだ」
その言葉を聞いて、ミリィはしばらく黙っていた。
たぶん、今の説明を自分の中へ落とし込んでいるのだろう。
勢いだけで返さないところに、ミリィなりの真面目さも出ていた。
少ししてから、ミリィはようやく小さく息をついた。
「エアリスが納得してるなら、ミリィも納得します」
その言い方は、どこか区切りをつけるみたいだった。
完全にすっきりした、という感じではない。でも、“ここは受け入れる”という意思はちゃんと入っている。
「そっか」
エアリスがやわらかく笑う。
その表情を見て、俺も少しだけ肩の力が抜けた。ひとまず、変な方向へこじれずに済みそうだと思ったからだ。
けれど、ミリィはそこで終わらなかった。
「でも」
またその一言だ。俺は思わず身構えた。
エアリスも、たぶん少しだけ同じだったと思う。
ミリィは、今度は少しだけ目を細めて言った。
「あながち油断できませんね」
「油断って……」
思わずそう返すと、ミリィはきっぱり言った。
「だって、リリィ先生ですし」
その言い方が、妙に納得できてしまうのが困る。
たしかに“だって、リリィ先生ですし”で通じる何かがあるのだ。
自由だし、距離感は近いし、何を言い出すか分からないところもある。
ミリィだって、ルゼリアにいた頃のリリィ先生を知っているのだから、そこに警戒心を持つのは自然なのかもしれない。
エアリスは少しだけ苦笑していた。でも、その苦笑の中に“分からなくもない”が混じっているのも分かった。
「それも含めて、寮の説明とかと一緒にするから」
エアリスがそう言うと、ミリィはすぐに顔を上げた。
「えっ」
「どういうことですか?」
「どういうことも何も、そのままだよ」
エアリスは少し楽しそうに笑った。
「寮のこと、学院のこと、あと……その辺のことも含めて、色々話すってこと」
その“その辺のこと”に、ミリィはすぐ意味を取ったらしい。
一瞬だけきょとんとしたあとで、すぐに表情が変わる。
納得と、ちょっとしたやる気と、あと妙な連帯感みたいなものが一気に浮かんだ。
「なるほど」
ミリィは、妙に真面目な顔で頷いた。
「分かりました」
そして、その次に言った。
「ここは女同士の結託と行きましょう」
その言葉に、俺は思わず目を瞬かせた。
エアリスも一瞬だけ意外そうな顔をしたけれど、すぐに小さく笑った。
「結託って」
「必要です」
ミリィはきっぱり言った。
「エアリスが納得してるなら、ミリィもそこは信じます。でも、だからって何も考えないわけにはいきません」
言っていることはわりと物騒なのに、言い方が妙に真剣で、しかもミリィらしかった。
たぶん今のあの子の中では、本当に“仲間になった方がいい”くらいの感覚なのだろう。
「ミリィ、結構本気だね」
エアリスが少し面白そうに言うと、ミリィはすぐに頷いた。
「はい、本気です」
その即答に、エアリスもとうとう吹き出すみたいに笑った。
「そっか。じゃあ、まずは寮で色々話そうか」
「はい!」
ミリィは満足そうに頷いた。
どうやら、本当にこれで一区切りついたらしい。
俺としては少し複雑だったけれど、少なくとも二人の間に変な空気が流れていないのはありがたかった。
学院の門が見えてきたところで、自然と進む方向が分かれ始める。女子寮へ向かうなら、ここから先はエアリスとミリィが一緒だ。俺はそこからさらに別の道へ進まなければならない。
「じゃあ、ミリィ、行こうか」
エアリスがそう言うと、ミリィはすぐに頷いた。
「はい。よろしくお願いします」
それから、ちらりと俺を見る。
「ルーメンも、気をつけて帰ってくださいね」
その言い方は普通だった。
でも、どこか“ミリィはまだ見てますからね”みたいな気配が少しだけ混ざっている気もした。
たぶん気のせいではない。
「うん、二人もね」
そう返すと、エアリスがやわらかく笑った。
「また明日」
「また明日」
ミリィも続ける。その声は、今日何度も聞いた中でも、どこか落ち着いた響きになっていた。
そして二人は並んで女子寮の方へ歩き出す。さっきまで少し火花も散らしていたのに、今は妙に自然な並びに見えた。
競争相手でもあって、でも同じ側にも立てる。そういう、少し不思議な関係が、もうでき始めているのかもしれない。
俺はその背中を少しの間見送ってから、研究室のある方へ足を向けた。
今日一日だけでも、色んなことがあった。
ミリィと再会して、入学を祝って、職業判定の話をして、恋愛の話になって、研究室に住んでいることまで知られて、その上で最後は“女同士の結託”までできあがった。
本当に、賑やかな日だった。けれど、不思議と悪い気分じゃなかった。
むしろ、ようやく学院三年の時間がちゃんと動き始めた気がする。
ミリィがこの学院へ入ってきたことで、止まっていたわけじゃないけれど、どこか足りていなかった何かが埋まった感じがあった。
これからまた、三人の時間が積み重なっていく。その中で、きっと面倒なことも増えるだろうし、今日みたいに簡単には済まない話も出てくるのだと思う。
でも、それでも。こうしてまた並べることが、やっぱり嬉しかった。
春の夕方の風が、制服の裾を軽く揺らしていく。
俺は小さく息をついてから、リリィ先生の研究室へ向かう道を歩き始めた。




