学院3年ソアラ編 第八十六章 ミリィの入学⑨ テーブル下の攻防
ミリィの「負けませんよ」という宣言が落ちたあと、テーブルの上には妙に濃い空気が残っていた。
重いわけじゃない。険悪でもない。
けれど、さっきまでの“入学祝いの楽しい食事”だけでは済まない熱が、確かにそこに混ざっていた。
エアリスはまだ少し困ったような顔をしているし、ミリィはまっすぐな目でこちらを見ている。俺だけが変に落ち着かない。こういう時、どうやって場を戻せばいいのかが、正直よく分からなかった。
ただ、このまま恋愛の話だけで食事を終えるのも違う気がした。
今日は何より、ミリィが学院へ来た日だ。再会できたことをちゃんと喜ぶ時間にしたかった。
「ミリィ」
俺はできるだけやわらかい声で言った。
「とりあえず、今日は三人の再会を楽しもう、ね」
その言い方が少しだけなだめるみたいになったのは、自分でも分かった。けれど、今はそれくらいがちょうどいい気がした。ミリィは勢いのある子だから、真正面から受けると、そのままどこまでも行ってしまいそうだったし、エアリスも今は少し押され気味に見える。
ミリィはそんな俺の言葉を聞いて、一瞬だけきょとんとしたあと、すぐに小さく笑った。
「それもそうですね」
意外なくらい素直な返事だったので、俺は少しだけほっとした。
「分かりました。今日は大人しくお祝いされておきます」
その“お祝いされておきます”が、妙にミリィらしかった。
受け身みたいに言っているくせに、どこかちゃんと自分の意思が入っている。
そこで場の空気が少しだけゆるんで、俺もエアリスも、ようやく肩の力を抜きかけた。
けれど、ミリィはそこで終わらなかった。
「でも」
その一言で、俺はまた少し身構えた。
エアリスもたぶん同じだったのだろう。視線がすっとミリィへ戻る。
ミリィは、まるで思いついたことをそのまま口にしたみたいな顔で言った。
「ルーメンとデートがしたいなぁ」
その言葉は、妙に軽く、妙にまっすぐだった。
変に照れたり、含みを持たせたりするんじゃない。
本当にそのまま、思ったことを口にしただけみたいに出てくる。
だからこそ、余計に困る。
「デート……」
思わずそのまま繰り返してしまった。
ミリィはこくりと頷く。
「はい。せっかく同じ学院になれたんですし。街もまだ全然知らないですし。ルーメンに案内してもらいたいです」
理屈としては、たしかに自然だった。
街を案内する。二人で歩く。そこだけ聞けば何もおかしくない。
でも、自分で“デート”と言ってしまうところが、完全にミリィだった。
「ミリィ、それは……」
エアリスが何か言いかける。
けれどミリィは俺から目を逸らさない。
「だめですか?」
その聞き方が、また妙にずるかった。
強気に押してきたかと思えば、今度は少しだけ期待を込めた顔で見る。
たぶん無意識なんだろうけど、そういうところも含めて真っ直ぐすぎる。
俺は少しだけ息をついた。
ここで強く断るのも違う。かといって、軽々しく乗るのもまずい気がする。
何より、今この場でエアリスがどう思うかくらいは、さすがに分かる。
だから、できるだけ角の立たない答えを選んだ。
「落ち着いたらね」
我ながら、かなり曖昧な返事だったと思う。
でも、そのくらいにしておくのが一番安全だと思ったのだ。
ミリィはその返事を聞いて、ぱっと顔を明るくした。
「ほんとですか?」
「いや、ほんとというか……その、学院生活が落ち着いてから」
慌てて少しだけ条件を足したけれど、時すでに遅しだったらしい。
ミリィの中では、たぶんもう“約束した”に近い形で入ったのだろう。嬉しそうに頷いている。
「分かりました。じゃあ、落ち着いたらです」
その言い方が妙に楽しそうで、俺は少しだけまずい気がした。
そして、その直後だった。
ごつっ。
テーブルの下で、俺の足へ何かが当たった。
いや、“何か”じゃない。
間違いなく、蹴られた。
「っ……!」
声を出しかけて、ぎりぎりでこらえた。痛い。
そこまで本気ではないけれど、でも十分に“抗議です”と伝わる強さだった。
俺は表情だけは崩さないようにしながら、そっと向かいを見た。
エアリスはにこやかな顔をしている。とても穏やかに、普通に、何もしていませんという顔で座っている。けれど、その目だけが少し細くなっていた。
ああ、怒ってるなと思った。
「ルーメン?」
ミリィが不思議そうに首を傾げる。
「どうしたんですか?」
「いや、なんでもないよ」
できるだけ自然に返したつもりだけれど、声が少しだけ硬くなった気がする。
エアリスはそんな俺を見ながら、にこりと笑った。
「どうしたの?ルーメン」
その声はやさしい。やさしいのに、なぜか少し怖い。
たぶん気のせいじゃない。
「別に……」
「ほんとに?」
「ほんとに」
そう答えながら、俺はテーブルの下の自分の足を少しだけ引いた。
これ以上の追撃は避けたい。
ミリィはそんなやり取りを見て、少しだけ目を細めたあと、くすっと笑った。
「なんだか、今ちょっと変でした」
「変じゃないよ」
エアリスがすぐに言う。
でも、その返しが少し早すぎて、余計に怪しい気もした。
「そうですか?」
ミリィはそう言いながらも、どこか納得していない顔だった。
けれど、それ以上は追及せず、また料理の方へ意識を戻していく。
その様子を見て、俺は内心で少しだけ助かったと思っていた。
ミリィは鋭いところもあるけれど、こういう時に全部を掘り下げるとは限らない。たぶん今は、デートの約束めいたものを取りつけた満足感の方が勝っているのだろう。
エアリスはそんなミリィを見ながら、表向きは穏やかな顔のままだった。
けれど、俺には分かる。
あれは完全に“後で覚えててね”のやつだ。
俺は水をひと口飲んで、なるべく普通の顔を作った。
食卓の空気は、気まずいというより、妙に甘くて騒がしい感じになっている。ミリィのまっすぐな発言と、エアリスの分かりやすい反応と、その間でうまく立ち回れない俺。
なんというか、いかにもこの三人らしい空気だった。
「でも」
ミリィが上機嫌そうに言う。
「ちゃんと覚えておいてくださいね」
その“ちゃんと覚えておいてくださいね”に、俺は苦笑するしかなかった。
「……善処するよ」
そう返すと、エアリスの笑顔がまた少しだけ深くなった気がした。
たぶん、また蹴られる。
そう思って、俺はそっと足をさらに引っ込めた。
その小さな攻防まで含めて、食卓の空気は最後までにぎやかだった。
入学祝いの食事は、どうやらただ穏やかに終わるつもりは最初からなかったらしい。
にぎやかだった食事の時間も、気づけばゆっくり終わりへ近づいていた。皿の上の料理はきれいになくなっていて、最後に残っていた飲み物もそれぞれ少しずつ減っている。さっきまでの“デート”発言やテーブルの下の攻防の余韻は、完全には消えていないものの、食卓の空気はまた少し落ち着きを取り戻していた。
ミリィは最後まで満足そうだった。
美味しかった、楽しかった、嬉しかった。たぶん、そういう気持ちがそのまま顔へ出ている。
学院へ入学した日の食事としては、悪くないどころか、かなり良い時間になった気がした。
「ごちそうさまでした」
ミリィがそう言って、小さく手を合わせる。
その素直な仕草を見て、俺もなんだかほっとした。
今日はきっと、ミリィにとって“いい始まりの日”として残るだろう。そう思えるくらいには、ちゃんと笑ってくれていた。
店を出ると、外はもうすっかり夕方の色になっていた。
春の空気はまだやわらかいけれど、昼間より少しだけ涼しい。通りには帰りを急ぐ人達や、これから夜の時間を楽しみに出てきたらしい人達が混ざり始めていて、昼とはまた違う賑わいができていた。
三人で並んで歩きながら、俺は自然と食後の余韻に浸っていた。ミリィも上機嫌そうに店先や通りの灯りを見ているし、エアリスもどこか満足げだ。ひとまず、入学祝いとしてはうまくいったのだと思う。
「それじゃあ、寮に戻ろうか」
エアリスがそう言ったのは、学院へ戻る道へ足を向けた時だった。
「ミリィ、色んな場所を教えてあげるから。食堂の場所とか、寮の中のこととか、今日のうちに分かった方が安心でしょ?」
その言い方が、すっかり先輩らしかった。
さっきまで食卓で少しむきになっていたのが嘘みたいに、今はちゃんと“迎える側”の顔をしている。そういう切り替えのうまさは、やっぱりエアリスらしいと思う。
ミリィはすぐに嬉しそうに頷いた。
「そうですね。お願いします」
そして、そのままごく自然に言った。
「ルーメンは男子寮ですもんね」
その瞬間だった。
空気が、止まった。
本当に風が止んだわけでも、人の流れが途切れたわけでもない。周りでは相変わらず街の音がしているし、通りの向こうから笑い声も聞こえる。なのに、俺達三人の間だけ、一瞬だけ時間が固まったみたいになった。
俺は思わず足を止めていた。
隣のエアリスも、ぴたりと動きを止めている。
たぶん、表情も少し変わったのだと思う。
自分では分からないけれど、少なくともミリィには、その不自然さがはっきり見えたらしい。
「……あれ?」
ミリィが少しだけ首を傾げた。
今の一言に、何か変なものが混ざっていたことに気づいたのだろう。
その目が、まず俺へ向いて、それからエアリスへ移る。
「どうしたんですか?」
その聞き方は軽かったけれど、ちゃんと違和感を拾っている声だった。
俺はすぐに返事ができなかった。
男子寮。本来なら、ここで何の問題もないはずの言葉だ。学院に通う男子生徒なら、普通は男子寮に住んでいる。ミリィがそう思うのは当然だったし、少し前の俺なら、何の迷いもなくそう返していたと思う。
でも、今は違う。だからこそ、言葉が一瞬止まった。
どう言えば自然か。どこから話せばいいか。
それを一瞬で考えようとして、逆に固まってしまったのだと思う。
エアリスがちらりと俺の方を見た。その視線の意味は分かった。“どうするの?”たぶん、そういうことだ。
俺だって同じことを思っていた。どうする?今ここで話すのか。変にごまかすのか。でも、ごまかしたところで、どうせそのうち分かる。
そして、ミリィはこういう違和感を見逃さない。
「ルーメン?」
ミリィがもう一度呼ぶ。
今度はさっきより少しだけ真面目な声だった。
「なんで二人とも、そんな顔してるんですか?」
そんな顔。
たしかに、今の俺達はきっと分かりやすかったのだろう。
さっきまで普通に歩いていたのに、その一言で急に止まったのだから。
ミリィは完全に不思議そうだった。
いや、不思議そうというより、“何かあるんですね”と気づき始めている顔だった。
それがいかにもミリィらしくて、俺は内心で少しだけ観念しかけていた。
食堂での恋愛の話題でも思ったけれど、ミリィはこういう小さな綻びを放っておかない。年下だからといって受け身になることもないし、変だと思ったらちゃんと口にする。その自己主張の強さが今、まっすぐこちらへ向いている。
「えっと……」
エアリスが何か言いかける。
でも、その言葉は最後まで形にならなかった。たぶん、エアリスも変に取り繕うのは無理だと思ったのだろう。
ミリィは俺達を交互に見ていた。
その視線が、少しずつ鋭くなっていく。
「もしかして」
小さく呟くようにそう言ってから、ミリィはさらに首を傾げた。
「ルーメン、男子寮じゃないんですか?」
その聞き方は、さっきより一歩踏み込んでいた。
もうただの確認ではない。違和感をそのまま言葉に変えた感じだ。
俺はそこで、とうとうちゃんと答えなければならないことを悟っていた。
ここまで来たら、もう流せない。
たぶん次の一言で、この空気はまた別の意味で大きく動く。そう分かっているのに、まだ喉の奥には少しだけ躊躇いが残っていた。
それでも、ミリィの視線は待ってくれない。
エアリスも、今度は完全に俺へ任せる顔になっている。つまり、ここは俺が言うしかないのだ。そう思いながら、俺は小さく息を吸った。




