学院3年ソアラ編 第八十六章 ミリィの入学⑧ ミリィの宣戦布告
昔の話とこれからの話がひと通り落ち着くと、食卓の上には心地よい間が生まれていた。料理もだいぶ減っていて、最初の勢いよく湯気を立てていた皿は、今ではすっかり三人の食事の跡を見せている。店の中には相変わらず穏やかなざわめきがあって、遠くの席から時々笑い声が聞こえてきた。窓の外は少しずつ夕方らしい色へ変わり始めていて、ガラス越しの光も、最初に店へ入った時よりやわらかくなっている。
俺は水をひと口飲みながら、なんとなく、いい時間だなと思っていた。
再会できて、話もできて、ミリィも楽しそうで、エアリスも機嫌がいい。
こうして三人で同じテーブルを囲んでいるだけなのに、それが妙に満たされた気持ちをくれる。たぶん、離れていた時間があったからこそ、今こうして戻ってきた時間の重みを感じるのだろう。
ミリィも、さっきまでの勢いのまま色々話していたけれど、ここへきて少しだけ落ち着いた顔をしていた。食事にも満足しているのだろうし、俺達とこうして過ごせていること自体に安心しているのかもしれない。大きな瞳が、時々俺とエアリスの間を行き来しているのが見えた。
その視線に、なんとなく意味がある気がした。
けれど、その時の俺は、まさか次にそんな言葉が飛んでくるとは思っていなかった。
「ところで」
ミリィが、ふいにそんなふうに口を開いた。
声の調子は自然だった。自然だったのに、なぜかその一言だけで、俺は少しだけ身構えてしまった。
「ルーメンとエアリスは、お付き合いしてるんですか?」
その瞬間、時間が少し止まった気がした。
たぶん、本当に一瞬のことだったのだと思う。けれど俺の感覚では、その一瞬が妙に長く感じられた。ミリィの言葉が耳へ入って、意味を理解して、そこからようやく反応が身体へ届くまでに、変に間が空いたのだ。
「……えっ」
声になったのは、たぶんそんな情けない音だった。
向かいのエアリスも、同じように固まっていた。手にしていたカトラリーが一瞬ぴたりと止まり、顔だけが少しこちらへ向く。その頬が、分かりやすいくらいに赤くなり始めている。
「えっ、って何ですか?」
ミリィはきょとんとした顔でそう言った。
でも、その目はきょとんとしているわりに、しっかり俺達を見ている。なんとなく気になって聞いた、というより、ずっとどこかで聞こうと思っていたことを今ここで出した、そんな感じがした。
俺はとっさに何か言おうとした。けれど、言葉がうまく出てこない。
付き合っているのか。
そう聞かれて、すぐに「違う」とも言えないし、「そうだ」とも言えない。
そもそも、そういうことを正面から言葉にするのに慣れていない。ミリィがあまりにもまっすぐに聞いてきたせいで、余計に逃げ道がなくなっていた。
隣で、エアリスが小さく咳払いをした。
たぶん、俺より先に何とかしようとしてくれたのだろう。
けれど、その咳払い自体が少し不自然で、落ち着こうとして落ち着けていないのが分かってしまう。
「え、えーと……」
エアリスはそう言って、一度視線をテーブルへ落とした。
普段のエアリスなら、こういう時でももう少しうまく取り繕いそうな気がする。けれど今は、そういう余裕があまりなさそうだった。頬の赤みはまだ引かないし、声にも少しだけ戸惑いが混じっている。
俺も似たようなものだった。
さっきまで普通に昔話や寮の話をしていたところへ、いきなりそこを突かれるとは思っていなかったのだ。しかも聞いてきたのがミリィだから、変に濁すのも難しい。ミリィはこういう時、曖昧にごまかしても、そのまま引いてくれる感じがしない。むしろ、ちゃんと分かるまで見てくるタイプだ。
「ミリィ、いきなりだな……」
ようやくそれだけ言うと、ミリィは少し首を傾げた。
「いきなりですか?」
「いきなりだよ」
「でも、気になったので」
その返しに、俺はさらに言葉に詰まった。
気になったから聞く。
それ自体は、いかにもミリィらしい。
変に空気を読んで飲み込むより、自分が知りたいことはちゃんと口にする。そういうところがあるのは分かっていた。分かっていたけれど、それが今ここで来ると、こっちは全然準備ができていない。
エアリスはそこで、もう一度だけ呼吸を整えるように息をついてから、なんとか顔を上げた。
「お、お付き合いは……」
そこまで言って、少しだけ言葉が止まる。
俺は思わずエアリスの横顔を見た。
エアリスも、たぶん俺と同じように、この質問をどう受け止めて、どう返せばいいのかを一瞬で決めきれずにいるのだろう。
けれど、ミリィは待っている。
しかも真剣な顔で。
「……まだかな」
エアリスは、少しだけ照れたみたいに、それでもなんとかそう答えた。
その言い方が、妙に正直で、俺は余計に胸の奥が熱くなるのを感じた。
“違う”ときっぱり切るでもなく、強く肯定するでもなく、“まだかな”と置く。
その曖昧さが、今の俺達には一番近いのかもしれないと思ったし、同時に、その言葉をミリィの前で口にされることそのものが、なんだか落ち着かなかった。
ミリィはその返事を聞いて、すぐには何も言わなかった。
少しだけ目を細めて、俺とエアリスを見比べている。
その視線の鋭さが、年下だということを忘れそうになるくらいだった。
店の中の空気は変わっていない。
周りでは相変わらず食事の音や声がしている。
なのに、俺達のテーブルだけ、一気に別の空気へ入ってしまった感じがあった。
さっきまでの“再会してまた三人で話せる嬉しさ”に満ちた空気はそのまま残っている。けれど、そこへ急に別の熱が混ざったのだ。少し甘くて、少し気まずくて、でも確かに無視できない熱。そういうものが、テーブルの真ん中へぽんと置かれたような感覚だった。
俺はコップへ手を伸ばした。喉が渇いたわけではない。
ただ、何かしていないと落ち着かなかったのだと思う。
エアリスもまだ少し赤い顔のまま、視線をまっすぐには上げられずにいた。
そしてミリィは、その反応をちゃんと見逃していなかった。
たぶんこの瞬間、食卓の空気は完全に変わった。
ただの入学祝いの食事ではなく、そこへ“恋愛の話”がはっきり入り込んできたのだ。
そして、その扉を何のためらいもなく開けたのがミリィだった。
そのことを、俺は半分困りながら、半分ではっきり意識していた。
エアリスの「まだかな」という返事を聞いたあと、ミリィはほんの少しの間だけ黙っていた。
その沈黙は長くはなかった。けれど、妙に意味ありげで、俺はその間に何を言われるのか分からず、変に身構えてしまっていた。
そして次の瞬間、ミリィの顔がぱっと明るくなった。
「よかったー」
心の底から安心したみたいな声だった。
さっきまで真剣に俺達を見ていたのに、その表情は一気にゆるんで、今度は隠しきれない嬉しさがそのまま出ている。
「よかったって……」
思わずそう返すと、ミリィは当然みたいに続けた。
「だって、まだなんですよね?」
その言い方が、妙に確認めいていて、俺はまた少し言葉に詰まった。
エアリスも同じだったらしく、顔はまだ少し赤いままなのに、今度は別の意味で困ったような顔をしている。
ミリィはそんな俺達の反応を気にする様子もなく、はっきり言った。
「それなら、ミリィが入る隙はまだありますね」
その一言が、思っていた以上にまっすぐで、俺は完全に固まってしまった。
入る隙。つまり、そういうことだ。ミリィは今、何も遠回しに言っていない。俺とエアリスの間にまだ決まった形がないなら、自分もそこへ入る、と堂々と言っているのだ。
目の前で、こんなにまっすぐ恋愛の話をされると、本当に困る。
しかも言っているのがミリィだから、冗談として流していいのか、本気として受け取るべきなのか、その境目も曖昧にならない。たぶん、あの子は本気だ。少なくとも、今この場では本気でそう言っている。
エアリスが少しだけ身を乗り出した。
「え、えーと……いや……」
その言いよどみ方に、エアリスの動揺がそのまま出ていた。
普段ならもう少し余裕のある返しをしそうなのに、今はそういう余裕がないらしい。
「そうでもないんじゃないかなー、たぶん……」
牽制しようとしているのは分かる。
けれど、その牽制が少し弱いのも分かってしまう。
“まだかな”と自分で言った直後だから、強く否定しきれないのだろう。
ミリィはそんなエアリスの様子を見ても、少しも引かなかった。
むしろ、その曖昧さをちゃんと自分に有利な形で受け取ったみたいに、目をきらりとさせる。
「大丈夫です」
その返事がやけにきっぱりしていて、俺はまた嫌な予感がした。
「ミリィは自信があります」
胸を張る、というほど大げさではない。けれど、その言葉にはちゃんとそういう気配があった。
少し自己主張が強くて、でもその自己主張を引っ込めない。
まさにミリィらしい言い方だった。
「負けませんよ」
その一言で、テーブルの上の空気がまた少し変わった。
今までは“恋愛の話題が出てきた”くらいだったのに、ここで一気に“競争の気配”が入ってきたのだ。
険悪になったわけでもない。けれど、ミリィのその宣言は、はっきりとした参戦表明だった。
しかも、年下だからとか、まだ一年生だからとか、そういう遠慮がまったくない。ルーメンとエアリスは友達で、自分も同じ場所へ立つ。そういう感覚が自然にあるのだろう。
「ミリィ……」
エアリスが少し困ったように名前を呼ぶ。
その声音には、怒った感じはなかった。むしろ、面食らっているという方が近い。
たぶん、エアリスにとっても、ここまで真正面から来られるのは予想外だったのだ。
「なんですか?」
ミリィは本当にきょとんとした顔で返した。
でも、そのきょとんとした顔の奥に、“ミリィは変なこと言ってませんけど?”という気配がある。そういうところがまた強い。
「いや、その……」
エアリスはそこから先を少し迷っていた。
ミリィを強く突っぱねるのも違う。でも、何も言わないのも違う。
たぶん、その間で言葉を探しているのだろう。
俺はその二人を見ながら、どうしたものかと本気で困っていた。
ただ、変に止めに入ると余計に話がややこしくなりそうな気もする。
それに、ミリィが本気で言っている以上、軽く流しすぎるのも違う気がした。
「だって」
ミリィが続ける。
「ルーメンとエアリスがまだそういう感じじゃないなら、ミリィにもちゃんと可能性ありますよね?」
理屈は通っている。通っているだけに、返しづらい。
しかも、言い方が妙に堂々としているから、余計に勢いで押されそうになる。
エアリスはそこで、少しだけ肩の力を抜くみたいに息を吐いた。
完全に言い負かされた、というより、“このまっすぐさには正面から受けるしかないか”と腹をくくった感じにも見えた。
「ミリィ、そういうの、ほんとに遠慮ないね」
「ありますよ、ちゃんと」
ミリィは即答した。
「でも、言わないと伝わらないじゃないですか」
その返しには、妙な説得力があった。
たしかにミリィは、言いたいことをちゃんと言う。
それはときどき強すぎるくらいだけれど、少なくとも嘘はない。
今ここで“負けませんよ”と言ったのも、照れ隠しでも冗談でもなく、ちゃんと自分の気持ちとして出しているのだろう。
エアリスはそんなミリィを見て、困ったように、でも少しだけ笑った。
「……そっか」
それは完全に納得した返事ではなかった。
けれど、少なくともミリィの本気は受け取った、そんな感じの響きだった。
そして俺は、ようやくはっきり理解していた。
ミリィはもう、ただ再会を喜んでいる幼馴染じゃない。ちゃんと、自分の立ち位置を取りに来ている。
この学院へ入ってきたことと一緒に、恋愛の方へも、あの子はもう一歩踏み込んできたのだ。
そのことが、妙に現実味を持って胸へ落ちてきていた。




