学院3年ソアラ編 第八十六章 ミリィの入学⑥ 初めて見るイーストレイク
食堂でお茶を飲みながら待っている時間は、思っていたよりあっという間に過ぎていった。ミリィのことを話していると、話題は自然に尽きなかったし、さっき会ったばかりだというのに、もう次に何を話そうか考えている自分がいた。
頃合いを見て食堂を出た俺達は、約束通り校門前へ向かった。入学式直後の混雑はさすがに少し落ち着いていたけれど、それでも学院の正門付近はまだ賑わっていた。新入生らしい制服姿が行き交い、保護者らしき人達の姿もちらほら見える。春の陽は少しずつ傾き始めていて、石畳の上に落ちる光も、昼間よりやわらかい色になっていた。
「そろそろかな」
俺がそう呟くと、エアリスも校舎の方を見ながら頷いた。
「説明、思ったより長引いてないといいけど」
「ミリィのことだから、ちゃんと最後まで聞いてそうだよな」
「うん。でも、終わったらすぐ来そう」
その会話をしたすぐあとだった。
「ルーメン! エアリス!」
聞き慣れた声が飛んできて、俺とエアリスは同時にそちらを見た。案の定、校舎の方からミリィがこちらへ向かって走ってきていた。さっきと同じように、見つけた瞬間から嬉しそうな顔をして、けれど今度は式直後の人波ほどではないからか、少し余裕を持って駆けてきている。
「お待たせしました!」
目の前まで来ると、ミリィは弾んだ声でそう言った。
表情は明るいし、どこかやりきった感じもある。説明会をちゃんと終えてきたのだろう。
「おかえり」
エアリスが笑ってそう言うと、ミリィもぱっと笑った。
「ただいま、です」
その返しに、俺は少しだけ笑ってしまう。学院の校門前で言う言葉じゃない気もしたけれど、でも妙にしっくりきた。たぶん、もうミリィの中でも、この場所が“これから自分のいる場所”として動き始めているのだろう。
「説明、どうだった?」
そう聞くと、ミリィはすぐに答えた。
「思ったよりいっぱいありました。規則も多いですし、寮のことも細かかったです。でも、ちゃんと聞いてきました」
「偉い偉い」
エアリスが少しからかうように言うと、ミリィはむっとしたように見せながらも、どこか嬉しそうだった。
「ちゃんと聞かないと後で困るじゃないですか」
「うん、そうだね」
俺は頷きながら、その真面目さにちょっと安心もしていた。
新しい場所へ来ると、ミリィははしゃぐところとはしゃがないところの差がはっきりしている。嬉しい時はすぐ前へ出るくせに、やるべきことはちゃんとやろうとする。そういうところが昔からあるから、心配しすぎる必要はないのかもしれないとも思う。
「じゃあ、行こうか」
俺がそう言うと、ミリィの顔がまた明るくなった。
「はい!」
三人で並んで、校門を抜けて街の方へ歩き出す。
学院の敷地の中と外では、空気が少し違っていた。中はどこか整った学びの場の空気で、外へ出ると街の匂いと音が一気に近くなる。荷馬車の軋む音、店先から聞こえる呼び込み、どこかで笑う人達の声。イーストレイクの街は、今日もちゃんと賑やかだった。
そして、ミリィは校門を出た途端に、さっそく目を輝かせ始めた。
「わあ……」
小さく漏れたその声が、もう完全に“楽しいものを見つけた時のミリィ”の響きだった。
「すごいですね……」
言いながら、視線があちこちへ忙しく動いている。石造りの建物、通り沿いに並ぶ店の看板、行き交う人達の服装、荷物を運ぶ人、窓辺に置かれた花。何もかもが目新しいのだろう。ルゼリアの村の落ち着いた景色とは、たしかにずいぶん違う。
「あれは何ですか?」
さっそくミリィが指をさしたのは、通りの角に立つ大きな看板のある店だった。入口の横には色鮮やかな布がいくつも吊られていて、風に揺れている。
「服屋さんだよ」
エアリスが答える。
「学院の制服とは別に、普段着とか外出着を売ってるの」
「へえ……」
ミリィは感心したように見上げたあと、すぐまた別の方へ目を向ける。
「あっ、じゃああのお店は? なんだかすごく甘い匂いがします」
今度は少し離れた場所にある菓子屋だった。焼き菓子の匂いが通りまで流れてきている。
「お菓子屋さんだな。あそこ結構人気なんだよ」
俺がそう言うと、ミリィは目をさらに丸くした。
「人気なんですか」
「うん。時間によっては並ぶこともあるよ」
「すごい……」
その反応がいちいち新鮮で、見ていて飽きなかった。
俺達にとっては見慣れた街並みでも、ミリィにとっては全部が初めての景色なのだ。そう思うと、普段何気なく歩いているこの街も、少し違って見えてくる。
「あのお店はなんのお店ですか?」
「こっちは魔石を扱ってる店だね」
「あっちは?」
「食器とか日用品かな」
「へえ……」
質問が止まらない。
けれど、うるさいという感じはまったくしなかった。むしろ、ミリィがいちいち本気で興味を持っているのが伝わってくるから、答える方も自然と楽しくなる。
「ミリィ、ほんとに目が忙しいね」
エアリスが笑いながら言うと、ミリィは少しも悪びれずに頷いた。
「だって、全部珍しいんです」
その言い方があまりにも真っ直ぐで、俺とエアリスはまた笑ってしまう。
「ルゼリアとは全然違います」
ミリィはそう言いながら、行き交う人達の方にも視線を向けていた。
「人も多いですし、お店もいっぱいありますし、歩いてるだけで全然飽きないですね」
「最初はそう思うよね」
エアリスが頷く。
「私も最初の頃は、街に出るたびにきょろきょろしてた」
「エアリスもですか?」
「してたしてた。ルーメンもね」
いきなり話を振られて、俺は少しだけ肩をすくめた。
「否定はできない」
「やっぱり」
ミリィは嬉しそうに笑った。
なんだか、自分だけじゃないと分かるのが嬉しいのかもしれない。
三人で並んで歩いていると、街の景色そのものも楽しかったけれど、それ以上に“また三人で歩いている”ことの方が俺には大きく感じられた。ルゼリアの村では当たり前だった並びが、場所を変えてまた戻ってきた。それだけで、ただ街を歩くだけの時間が少し特別に思えた。
「ミリィ、食堂に着くまでに疲れないでよ」
エアリスが少しからかうように言うと、ミリィはすぐに言い返した。
「ミリィ、そんなにやわじゃないです」
「でも、気持ちは前に行ってるのに足が止まってる時あるよ」
「それは、だって気になるものが多いからです」
その返しもいかにもミリィらしかった。
気になるものが多いから、仕方ない。
理屈としては全然まとまっていないのに、ミリィが言うと妙にそのまま通ってしまう感じがある。
そんな会話をしながら歩いているうちに、街中の食堂が見えてきた。
けれど、その入口へ着くまでの短い道のりだけでも、ミリィにとっては十分楽しい時間だったのだろう。
顔を見ればすぐ分かる。
学院へ来たことも嬉しい。俺達と会えたことも嬉しい。けれど今は、その全部に加えて、この街そのものがミリィをわくわくさせている。
その様子を見ながら、俺は少しだけ思っていた。
たぶん、今日のこの時間は、ミリィにとってかなり大事な最初の記憶になる。
イーストレイクへ来て、学院へ入って、俺達と再会して、三人で街を歩いた。
その最初の一日が、楽しいものであってほしいと思った。
そして、今のところはちゃんとそうなっている気がした。
俺達が入ったのは、中央通りにある食堂だった。通い慣れているというほどではないけれど、何度か来たことのある店で、味も雰囲気も落ち着いている。賑やかな大通りから少しだけ入った場所にあるせいか、街のざわめきは感じられても、店の中は少しだけやわらいだ空気に包まれていた。
扉を開けると、温かい料理の匂いがふわっと流れてきた。焼いた肉の香ばしい匂いと、スープみたいなやさしい匂いが混ざっていて、それだけで少しお腹が空いてくる。店の中では何組かの客が食事をしていて、皿やカトラリーの小さな音と、控えめな話し声が心地よく響いていた。
「わあ……」
ミリィが小さく声を漏らす。
その反応が、さっきからいちいち新鮮で面白い。
きっと、ここへ入った瞬間の匂いも空気も、ミリィにとっては全部“街の食堂”として特別に感じられるのだろう。
店員に案内されて、俺達は三人掛けにちょうどいいテーブル席へ座った。木のテーブルはよく磨かれていて、窓から差し込む夕方のやわらかい光がその表面にうっすら映っている。こうして三人で向かい合って座ると、ようやく“入学祝いの食事”が始まるんだという実感が出てきた。
「ミリィ、食べたいものある?」
俺がそう言ってメニューを渡すと、ミリィは「はい」と素直に受け取った。
けれど、ページを開いてすぐ、その表情が少しずつ変わっていく。
最初は真面目な顔で読もうとしていた。
けれど一段目を見て、二段目を見て、そのあと少し眉が寄る。
さらに次のページをめくったところで、完全に“困っています”という顔になった。
俺は思わず笑いそうになるのをこらえた。
たぶん、知らない料理名が多すぎるのだ。
「どうした?」
そう聞くと、ミリィは少しだけ申し訳なさそうな顔をしながら、でも変に隠さずに言った。
「何の料理ですか?」
「うん?」
「ルゼリアでは聞いた事のないものばかりです」
そう言って、ミリィはメニューを少し持ち上げて見せた。
「名前を見ても、ミリィ、どういう料理なのかよく分かりません」
その言い方が、なんだかすごくミリィらしかった。分からないのに分かったふりをするんじゃなくて、分からないから分からないと言う。しかも、その言い方に変な遠慮がない。ちゃんと対等な友達として聞いてくる感じがある。
エアリスもくすっと笑った。
「たしかに、最初はそうかもね」
「ルゼリアだと、もっとそのままの名前ですし」
ミリィは本気で悩んでいる顔でそう言った。
「何のお肉なのかとか、焼くのか煮るのかとか、そういうのが分かりやすいじゃないですか。こっちはおしゃれすぎます」
その“おしゃれすぎます”に、俺とエアリスはとうとう笑ってしまった。
たしかに、言われてみればそうかもしれない。
街の食堂の料理名は、村の食事に比べれば、少しだけ体裁が整いすぎているところがある。
「じゃあ、どうしようか」
俺が聞くと、ミリィは少し考える顔をしてから、すぐに答えを出した。
「エアリスのおすすめの女の子向けの料理をお願いします」
その言い方があまりにも自然で、俺はまた少し笑ってしまう。
迷って、遠慮して、結局何でもいいです、となるんじゃない。
ちゃんと“エアリスのおすすめ”と指定してくるあたりが、やっぱりミリィだと思う。
「女の子向けって、またずいぶん細かいな」
そう言うと、ミリィはすぐにこっちを見た。
「だって、ルーメンに選んでもらうと、量が多そうです」
「そんなことないだろ」
「あります」
きっぱり言い切られて、俺は少しだけ言葉に詰まった。
エアリスが横で楽しそうに笑っている。
「ミリィ、それどういう意味?」
「ルーメンは自分が食べたいもの寄りで考えそうです。でも今日は、ミリィはちょっとお祝いっぽくて、女の子向けの感じがいいです」
その自己主張の強さが、妙に可笑しかった。
でも、嫌な感じはまったくない。
ミリィは昔からこんなふうに、自分の希望をちゃんと口にする。年下だけど引っ込み思案ではないし、俺達相手ならなおさら遠慮しない。そういうところが、今もちゃんと残っているのが嬉しかった。
「じゃあ、任せて」
エアリスが少し得意そうにメニューを覗き込む。
「ミリィ、苦手なものはない?」
「今のところは特にないです。でも、せっかくだからルゼリアっぽくないものがいいです」
「注文多いな」
俺がそう言うと、ミリィは当然みたいな顔で頷いた。
「今日は入学祝いですから」
その返しに、俺とエアリスはまた顔を見合わせて笑った。
そうだ。今日は入学祝いなのだ。
少しくらい注文が多い方が、むしろそれっぽい。
エアリスはメニューを見ながら、何品か候補を口にしていった。スープ系がいいか、少し軽めの肉料理がいいか、野菜が多い方がいいか。そういうのをちゃんと考えてくれているのが分かる。ミリィもそれを真剣な顔で聞いていて、途中で「それは可愛い感じですか?」なんて聞くから、また少し笑ってしまった。
「可愛い感じって何だよ」
「見た目です」
「そこ大事なんだ」
「大事です」
ミリィはきっぱり言い切った。
その横でエアリスが、もう完全に面白がりながらも、ちゃんと真面目に選んでいる。
「じゃあ、これとこれかな」
最終的にエアリスがいくつか決めて、俺もそれに合わせて三人分の注文をまとめた。店員を呼んで料理名を伝えると、ミリィはそのやり取りをじっと見ていた。たぶん、今はまだ料理そのものより、“街の食堂で注文している”こと自体が新鮮なのだろう。
注文が終わると、ミリィは少しほっとしたみたいに息をついた。
「助かりました」
「そんなに大変だった?」
俺が聞くと、ミリィは素直に頷いた。
「はい。ミリィ、一人だったら絶対よく分からないまま変なの頼んでました」
「変なのって」
「名前で決めて、思ってたのと全然違うのが来るやつです」
その想像が簡単についてしまって、俺は思わず笑った。
たしかにミリィならやりそうだった。
でも、その失敗を避けるためにちゃんとエアリスへ任せるあたり、適当に見えて、案外しっかりしている。
「でも、こういうのも含めて面白いです」
ミリィが嬉しそうにそう言った。
「分からないことが多いのも、ちょっと楽しいですね」
その言葉を聞いて、俺は少しだけ安心した。
ミリィは今、知らないことの多さを不安より楽しさで受け取れている。
それなら、この学院生活もきっと大丈夫だろうと思えた。
料理が来るまでの少しの時間、三人でまた他愛のない話をしながら待つ。その空気はとても自然で、ミリィがこの場にいることが、もう当たり前みたいに思えた。
同じ学院に来て、こうして同じテーブルで食事をしようとしている。
そんな何気ないことが、ひどく嬉しかった。




