学院3年ソアラ編 第八十六章 ミリィの入学① 待ちわびる
学院3年ソアラ編
第八十六章 ミリィの入学
春の風が、イーストレイク学院の広い中庭をゆっくりと吹き抜けていた。冬の冷たさはもうほとんど残っておらず、空気の中にはやわらかな温かさが混じっている。見上げれば、空は高く、雲は薄く流れ、陽の光は石造りの学院の校舎を穏やかに照らしていた。まだ朝の名残を少しだけ留めた、澄んだ明るさが、今日という日を祝うように学院全体へ降り注いでいる。
入学式を終えたばかりの学院は、いつもよりずっと賑やかだった。大講堂から流れ出てくる新入生達、その家族、案内役の上級生達、教師達の声。あちこちで呼び止める声が上がり、笑い声が混じり、緊張した顔と嬉しそうな顔が入り乱れている。真新しい制服に身を包んだ一年生達は、まだ自分の服に着られているような危うさを残しながら、それでもこれから始まる学院生活への期待を隠しきれない様子だった。
そんな人の流れを少し離れた場所から眺めながら、俺はふと、自分の胸の奥に妙な感覚があることに気づいていた。
俺も、もう三年生なんだな。その実感は、遅れて胸へ落ちてくるようなものだった。昨日まで二年生だったのに、今日から急に何かが大きく変わるわけではない。けれど、学院という場所では、学年が一つ上がるだけで見える景色が少し変わる。去年までは、まだ先輩達の背中を見上げる側だったのに、今日からは俺達が一番上になる。そう考えると、不思議な気持ちになった。
イーストレイクへ来たばかりの頃のことを思い出す。学院の広さにも、人の多さにも圧倒されて、どこを向いても知らないものばかりで、ただ必死に前だけを見て歩いていた。魔術のことも、授業のことも、学院の規則も、何もかも覚えることで精一杯だった気がする。けれど、その頃の俺と今の俺とでは、見えているものがまるで違っていた。
背も伸びた。考えることも増えた。魔術も、昔の自分よりずっと深く扱えるようになっている。もちろん、まだまだ足りないことだらけだ。けれど、それでも、あの頃より前に進めているという実感だけはあった。学院で過ごした二年間は、決して軽いものではなかったのだと思う。
「いよいよだね、ルーメン」
隣から声がして、俺はそちらを向いた。そこには、春の陽射しの中で赤紫の髪をやわらかく揺らすエアリスが立っていた。俺と同じ三年生の制服を着たその姿は、以前よりずっと大人びて見える。けれど、こうして並んでいると、ルゼリアで一緒に魔術の練習をしていた頃から続く空気は変わっていないようにも感じられた。
「何が?」
そう返すと、エアリスは少し笑ってから、大講堂の前の人混みへ視線を向けた。
「私達が、迎える側になったってこと。去年まではまだ“上に先輩がいる”って感じが強かったけど、今日はもう違うでしょ?」
言われて、俺も同じ方向へ視線を向ける。新入生達は皆、どこか落ち着かず、でも希望に満ちた顔をしていた。その様子を見ていると、自分達がここへ来たばかりの頃のことが自然と思い出される。たしかに、今日は今までとは少し違う日だった。ただ学年が上がっただけではなく、俺達の立ち位置そのものが変わる日なのだと分かる。
「そうだね」
俺がそう言うと、エアリスも小さく頷いた。
「なんだか変な感じ。ついこの前まで、私達もこういう顔してた気がするのに」
「実際、してたんじゃないかな」
「してたと思う。特にルーメンは、最初の頃ずっと真面目な顔してたよ」
「エアリスも人のこと言えないだろ」
「私はもっと余裕あったよ?」
「なかったと思う」
そんなやり取りをしながら、俺達は自然と笑っていた。こうして軽口を叩けるくらいには、俺達もこの学院での時間を積み重ねてきたのだと思う。最初の頃は、ただついていくのに必死だったのに、今ではこうして少しだけ余裕を持って人の流れを眺めることができる。それだけでも、自分達がここでちゃんと生きてきた証のように思えた。
エアリスは、風に揺れた髪を手で軽く押さえながら言った。
「でも、三年生ってだけで急に偉くなった気はしないね」
「それは分かる」
「分かるでしょ? 急に何か完成した気分になるわけじゃないし。むしろ、まだまだ足りないって思うことの方が多いかな」
その言葉に、俺は少しだけ真面目な気持ちで頷いた。
本当にその通りだった。
三年生になったからといって、すべてが分かるわけではない。むしろ、自分の知らないものや、届いていないものの方がよく見えるようになった気さえする。けれど、それでも今日という日が特別に思えるのは、俺達が“下から見上げる側”ではなく、“迎える側”へ立ったからだった。
迎える側。その言葉を心の中でなぞると、自然と一人の顔が浮かんだ。
ミリィ。今日、このイーストレイクの学院へ入学してくる大切な幼馴染。ルゼリアで俺達より少し後ろを追いかけながら、一生懸命魔術の練習をしていたあのミリィが、とうとうこの学院へ来る。俺達にとって、今日がただの新学年の始まりではない理由は、そこにあった。
「……ほんとに来るんだよな、ミリィ」
思わずそう呟くと、エアリスはやわらかく笑った。
「来るに決まってるでしょ。入学式だってちゃんと出てるはずなんだから」
「それはそうなんだけど」
「でも、ちょっと分かる。なんだか実感ないよね。ルゼリアで一緒だったミリィが、今日から本当にこの学院の生徒になるなんて」
そう言ったエアリスの横顔にも、俺と同じような嬉しさが浮かんでいた。俺達にとってミリィは、ただの同郷の知り合いではない。大切な幼馴染で、一緒に魔術の練習をしてきた仲間で、そして少し目を離すと心配になる相手でもある。そんなミリィを、今日は俺達が迎えるのだ。
人のざわめきは相変わらず中庭を満たしていた。春の風が制服の裾を揺らし、鐘楼の上を鳥が横切っていく。その光景の中に立ちながら、俺は改めて思っていた。
俺達はもう三年生で、今日は誰かを待つ側に立っている。
そして、その待っている相手がミリィであることが、何より嬉しかった
三年生になったという実感を胸のどこかで噛みしめながらも、今日の俺達にはのんびり感慨に浸っている余裕はなかった。ここにこうして立っているのは、新しい学年の始まりを眺めるためではない。俺とエアリスには、どうしても一番に見つけたい相手がいたからだ。
入学式を終えたばかりの大講堂前は、人の流れが途切れる気配を見せなかった。式の最中に保たれていた静けさは、扉が開いた途端に一気にほどけ、広場全体が春らしいざわめきに満ちている。真新しい制服に身を包んだ一年生達は、家族の姿を探して視線をさまよわせたり、友達になったばかりらしい相手と緊張混じりに言葉を交わしたりしていた。保護者達の声、教師達の誘導、石畳を踏む足音。その全部が混ざり合って、学院中が大きく息づいているようだった。
その中から、たった一人を探さなければならない。
「すごい人だね」
エアリスが少し目を細めながら呟いた。春の陽射しを受けて、赤紫の髪がやわらかく光っている。俺も人波を見渡しながら、小さく息を吐いた。
「うん。これだと、見つけるのも一苦労かもしれない」
言ってから、自然と視線に力が入った。見逃したくなかった。絶対に、向こうより先にこちらから見つけてやりたかった。
ミリィは、今日一人でルゼリアからここまで来ている。もちろん、学院へ入学する手続きそのものは大人達の手も借りて済ませているはずだし、式の案内もきちんと受けているはずだ。けれど、それとこれとは別だった。ルゼリアの村とは比べものにならないほど広い学院。人の多さも、建物の大きさも、飛び交う声の量も、今日のミリィにはきっと全部が一度に押し寄せている。
だからこそ、少しでも早く見つけてやりたかった。
大丈夫だよ、と。
俺達がいるから、と。
そう伝える前に、あの子が一人で心細い思いをしないようにしたかった。
「ルーメン、あっちの方も見てみて。あの列の後ろ、まだ出てきてない子達が結構いそう」
エアリスに言われて、俺は視線を講堂脇の通路へ向けた。たしかに、正面の大階段だけでなく、横の出入り口からも少しずつ人が流れ出てきている。俺達は自然と立ち位置を少し変え、より広く見渡せる場所へ移動した。
「ミリィ、こういう人の多いところ苦手そうだからな」
思わずそう呟くと、エアリスが苦笑した。
「分かる。表面上は元気にしてても、内心ではすごく気を張ってそう」
「しかも、今日は入学式だからな。普段よりずっと人が多いし」
「うん。だから早く見つけてあげたい」
その言葉に、俺は頷いた。
考えていることは、たぶん同じだった。
ルゼリアにいた頃のミリィを思い出す。自分ではしっかりしているつもりでも、慣れないことになるとすぐ顔へ出る。知らないことにわくわくする気持ちは人一倍強いくせに、同時に少し不安そうな目もする。俺やエアリスが先に前を歩いていると、何も言わずにぴったり後ろをついてきて、でも置いていかれそうになると慌てて声を上げる。そんなところがあった。
もちろん、今のミリィがその頃のままだとは思っていない。手紙のやり取りをしている中でも、あの子が少しずつ成長していることは伝わってきていた。魔術の練習のこと、自分の進路のこと、ルゼリアでの生活のこと。書かれている言葉の端々に、前よりも意志の強さが出てきていたし、自分なりに考えて前へ進もうとしているのも分かっていた。
それでも、やっぱり心配になる。大切な幼馴染だからだろう。成長したと分かっていても、見つけるまでは落ち着かない。
人の波は次から次へと形を変えながら広場へ広がっていく。似たような制服、似たような背丈、似たような髪色の生徒が次々に目の前を通り過ぎる。その一人一人に目を配っていると、少し目が疲れてくるほどだった。
「あの子じゃない?」
エアリスが小さく声を上げたので、俺は反射的にそちらを見た。けれど、視線の先にいたのは、雰囲気の少し似た別の一年生だった。エアリスもすぐに「あ、ごめん、違った」と言って肩をすくめる。
「いや、俺も一瞬そうかと思った」
「なんだろう、ミリィが来るって分かってるから、似たような子全部そう見えちゃうね」
「分かる」
そんな短いやり取りをしながらも、気持ちはずっと前のめりだった。
まだか。どこだ。早く見つけたい。
そんな思いが、視線をせわしなく動かしていく。
春の風が一度、少し強めに吹き抜けた。中庭の端に植えられた木々の葉が揺れ、講堂の前に集まる人達の髪や制服の裾も一斉に揺れる。ざわめきがわずかに膨らみ、その中で俺は無意識に背筋を伸ばしていた。
「ルーメン」
「ん?」
「ちょっと嬉しそう」
エアリスがそんなことを言って、横目でこちらを見た。俺は思わず苦笑する。
「そりゃ嬉しいよ。ミリィが来るんだから」
「うん、私も」
その返事は短かったけれど、そこに込められている気持ちは十分に分かった。
俺達はただ新入生を待っているわけじゃない。
ルゼリアで一緒にいた、あのミリィを待っているのだ。
二年ぶりに直接会う。手紙では伝わらないものが、きっとたくさんある。
どんな顔で現れるんだろう。どれくらい背が伸びているんだろう。
ちゃんと学院の制服は似合っているだろうか。
そんなことまで考えてしまって、自分でも少しおかしくなった。
でも、それくらい楽しみだった。
「見つけたら、まず何て言う?」
ふいにエアリスが聞いてきた。俺は人の流れから目を離さないまま、少しだけ考える。
「普通に、“久しぶり”かな」
「それだけ?」
「それだけ、って言っても、それが一番じゃないか?」
「まあ、たしかに」
エアリスはくすっと笑った。
「私はたぶん、“よく来たね”って言っちゃうかも」
「なんだよ、それ」
「だって、そんな気分なんだもん」
その言葉を聞いて、俺も少し笑った。
たしかに、そういう気分だった。
ただ会うだけじゃない。ここまでちゃんと来たことを、よく頑張ったなって思う気持ちがある。俺達より後からルゼリアを出て、この広いイーストレイクの学院へ一人で入ってくる。そのこと自体が、もう十分すごいことだった。
だから、余計に。早く見つけたかった。
人波の向こうに、まだ見えていないだけで、きっともうこのどこかにミリィはいる。そう思うと、胸の奥が少しずつ熱くなっていく。焦りと期待が混ざり合って、落ち着かない。でも、その落ち着かなさすら心地よかった。
俺は目を凝らしながら、もう一度だけ心の中で呟いた。
早く会いたいな、ミリィ。




