学院2年サラサ編 第八十五章 ルーメンの誕生日③ リリィと食卓で
エアリスを寮まで送り届けたその足で、俺はリリィの待つ研究室へと急いだ。
昼の熱っぽさがまだ肌に残っているような気がして、夜風が少し心地よい。
扉の前に立ち、深呼吸を一つ。昼は「幼馴染の恋人」としての顔だったが、ここからは「弟子の男」としての顔に切り替えなければならない。
「ただいま、リリィ」
鍵を開け、そう声をかけて中に入ると、普段は本と実験器具で埋め尽くされている研究室の光景が一変していた。
「おかえりなさい、ルーメン」
出迎えてくれたリリィ先生の声は、いつもの冷静なトーンではなく、どこか弾んでいた。
そして、目に飛び込んできたのは、テーブルいっぱいに並べられた豪華な料理の数々だった。
肉料理に魚料理、色とりどりのサラダにスープ。中央には、不格好ながらも愛情を感じさせる大きなケーキが鎮座している。
普段の研究室からは想像もつかない、温かい家庭の食卓がそこにはあった。
「リリィ、これ……全部一人で作ったんですか?」
「早かったですね。でも帰ってきてくれて良かったです、もしかしたら、泣きながらこれを全部一人で食べないといけないかと思いながら作ってましたから」
リリィ先生は少し安心した様子で額を拭った。
「すごい……本当にすごいです、リリィ」
「ふふ、ルーメンが喜んでくれるなら、頑張った甲斐がありました」
彼女は満足そうに微笑むと、「少し待っていてくださいね」と言って奥の部屋へと消えていった。
どうやら、料理の準備だけでなく、彼女自身の「準備」もまだ終わっていないらしい。
一人残された俺は、椅子に座り、並べられた料理をぼんやりと眺めた。
部屋の隅には、使い込まれたエプロンが畳まれて置かれている。その横には、魔術書ではなく料理本が積まれていた。
彼女の生活の全てが、今日は俺のために費やされていたのだ。
しばらくして、奥の扉が開いた。
「お待たせしました」
現れたリリィ先生の姿に、俺は息を呑んだ。
先程のエプロン姿ではない。深い青色のドレスを身にまとい、髪を綺麗に結い上げた彼女は、まるで夜の女神のように美しかった。
大人の色香と、少女のような恥じらいが同居するその姿に、俺は見惚れて言葉を失った。
「どうですか? 変じゃありませんか?」
「いえ……とても綺麗です、リリィ」
「ありがとうございます。さあ、冷めないうちにいただきましょう」
彼女は俺の向かいの席に座ると、二つのグラスに飲み物を注いだ。
「ルーメン、お誕生日おめでとうございます。乾杯」
「ありがとうございます、乾杯」
グラスが触れ合う澄んだ音が、静かな研究室に響き渡った。
「リリィ、これ?」
「そうです、お酒ですよ、練習もしておかないといけないので、少しくらいいいでしょう、甘いのを選んだので飲みやすいと思いますよ」
「はい、確かに飲みやすいです。父さんが飲んでるのを少し飲んだことあるんですけど、苦くて、アルコールが強くて飲めませんでしたけど、こういうのなら大丈夫そうですね」
「それは良かったです、冷める前に料理も食べてください」
「はい、いただきます」
料理を口に運ぶたび、リリィ先生の深い愛情が体に染み渡っていく。
「美味しいです」と伝えると、彼女は心底嬉しそうに目を細め、「たくさん食べてくださいね」と料理を取り分けてくれた。
その仕草一つ一つが、まるで新妻のようで、俺の心臓は早鐘を打っていた。
食事も進み、デザートのケーキを食べ終える頃には、俺のお腹はこれ以上ないほど満たされていた。
リリィ先生の手料理は、高級店のそれとは違う、心に染み渡るような優しさと温かさがあった。
ふと、リリィ先生が改まった様子で姿勢を正した。
「ルーメン、私からのプレゼントです」
彼女がテーブルの下から取り出したのは、掌に収まるほどの小さなビロードのケースだった。
受け取った瞬間、微かだが確かな魔力の波動を感じた。ただの装飾品ではない、これは……魔導具だ。
「開けてみてください」
促されて蓋を開けると、そこには飾り気のない、しかし鈍い銀色の光を放つ指輪が鎮座していた。
見た目はシンプルだが、凝縮された魔力密度は素人の俺でも分かるほど高い。
「……リリィ、これ、ただの指輪じゃないですよね?」
「ええ。それは『護身石の指輪』といって、所有者が致死のダメージを受けた時、一度だけその身代わりとなって砕け散る魔導具です」
さらりと説明されたその効果に、俺は思わず息を呑んだ。
一度きりの命のストック。それは金貨が何枚あっても足りないほど希少で、高価な代物だ。
「リリィ、ありがとうございます、大切に身につけさせてもらいます、前も護身石のネックレスもらいましたよね、どれだけ心配なんですか」
リリィ先生は穏やかに微笑んでいるが、その瞳は真剣そのものだった。
「でも、リリィ、これ、かなり高かったんじゃないですか?」
「そうですね、子供が買える値段でないことは確かです。でも、私にとって、ルーメンはそれ以上の価値のある人なので安いものですよ」
「リリィ、ありがとうございます、こんなによくしてもらって」
「当然です、私の愛するルーメンのためですから、これくらいさせてください」
「リリィは優しいですよね、それに、本当に愛されてるのが、すごく伝わってきます、嬉しいです」
「ルーメンは、なぜか危険なことに巻き込まれやすい体質ですからね。私がそばにいられない時、万が一のことがあったら……そう思うと、居ても立ってもいられなくて」
「リリィ……」
「それに、これは私のエゴなんです。あなたが生きているなら、それでいい。たとえ誰と結ばれようとも、あなたがこの世界で息をしていてくれることが、私にとって一番の救いですから」
昼間のエアリスのプレゼントが「未来への約束」だとしたら、リリィ先生のプレゼントは「現在の守護」だった。
彼女自身の幸せよりも、俺の生存を優先する。その重く、深く、献身的な愛の形に、俺の胸は熱くなった。
「……分かりました。リリィの想い、大切に受け取ります」
「はい。では、左手の小指につけておいてください」
リリィ先生はケースから指輪を取り出すと、俺の左手を取り、そっと小指にはめた。
薬指は、まだ早い。あるいは、自分にはその資格がないと思っているのか。彼女は迷うことなく、一番小さな指を選んだ。
「……サイズもぴったりですね」
「気持ちが伝わっているのなら、私も嬉しいです、愛してますよ、ルーメン……で、ルーメンは?」
「……もちろん、愛してますよ、リリィ」
と言った瞬間、リリィ先生の手が震えたかと思うと、彼女は突然、椅子から立ち上がり、俺に抱きついてきた。
「リリィ?」
「……すみません、少しだけ。少しだけこうさせてください」
彼女の華奢な体が、俺の体に強く押し付けられる。
彼女の鼓動は驚くほど速く、そして熱かった。
「ルーメン、愛しています。離れませんよ、離しませんよ……」
「リリィ……俺も、リリィのこと……」
「言葉はいりません。今はただ、あなたの体温を感じさせてください」
耳元で囁かれる言葉は、呪文のように甘く、俺の理性を溶かしていく。
あまりに可愛らしく愛おしかったので、俺からリリィにキスをした。
一人の男と女としての時間が、静かに、しかし確実に深まっていくのを感じた。




