学院2年サラサ編 第八十四章 リリィの誕生日⑥ 互いの想い
しばらくの間、私たちは抱き合ったままでした。ルーメンの腕の中は、驚くほど安心できる場所です。強く抱きしめられているのに、苦しくない。
むしろ、自分の輪郭がはっきりします。けれど……このままではいけません。
私はそっと、ルーメンの胸に当てていた手に力を込め、わずかに距離を取りました。
名残惜しい。本当に、名残惜しい。
それでも、私は二十九歳です。衝動のままに踏み越えるには、積み重ねてきた時間がありすぎる。
「……ごめんなさい」
自然に言葉がこぼれました。
「いえ、どうして謝るんですか?」
ルーメンが戸惑うように問い返します。その真っ直ぐさが、また胸を締めつけます。
私は小さく首を振りました。
「少しだけ、自分を見失いかけました」
正直な告白でした。
「私は、ルーメンを愛しています」
はっきりと、もう一度。
「けれど、ルーメンの人生を縛りたいわけではありません」
言葉にしながら、胸の奥が痛みます。縛りたくない、は本音です。
でも、独占したくないわけではないのです。人間は、そんなにきれいではないのですから。
それでも。私はルーメンに選ばれたいのです。奪うのではなく、選ばれたいのです。
「ルーメンがどの道を選んでも構いません」
自分でも驚くほど静かな声でした。
「ただ、私の気持ちだけは、受け取っておいてください」
愛している。その事実だけは、消えない。消さない。
私はルーメンの肩に手を置き、ゆっくりと一歩下がりました。距離は、ほんの少し。けれどその一歩は、とても重いのです。
「今日は、本当にありがとうございました」
柔らかく微笑みます。涙の跡が残っているのを、自分でも感じていました。
「とても、幸せな誕生日でした」
そう言って、私は彼の頬にそっと口づけました。
さきほどよりも、ずっと軽い。穏やかなキス。
別れの合図ではない。区切りの合図。大人として、理性を取り戻した証。
ルーメンの瞳はまだ揺れていました。迷い。情熱。優しさ。
そのすべてを抱えたまま、ルーメンは立っています。
「リリィ……」
その声に、心がまた揺らぎます。
駄目です。これ以上踏み込めば、私はきっと止まれません。
「今夜は、ここまでにしましょう」
少しだけ悪戯っぽく言いました。
「続きは……また別の機会に」
未来を匂わせる言い方。逃げではありません。希望です。
ルーメンがどの道を選んでも。私がその道にいられる可能性を、まだ手放さない。二十九歳の誕生日は、甘く、そして少しだけ切なく、静かに終わりへ向かっていきました。
ルーメンが部屋に戻ってから、私も自分の部屋に入りました。
残ったのは、静寂と、私の鼓動だけ。しばらく、部屋の中で立ち尽くしていました。
左手の薬指に視線を落とします。青い石が、灯りを受けて小さく輝いています。
「アモーレ・エテルノ」
口には出しません。けれど、意味は知っています。
永遠の愛。若いルーメンが、偶然選んだとは思えません。
いえ、偶然だったとしても。私は、それを偶然のままにしません。
そっと左手を胸に当てました。指輪の感触が、鼓動と重なります。
温かい。あの日、石化病で冷え切っていった右半身。世界から切り離される恐怖。時間が止まる絶望。「もう終わりだ」と覚悟した瞬間。
あのとき、私は人生を失いかけました。そして今。こうして、胸が苦しいほど満たされています。
皮肉ですね。命を救われたことよりも。今夜のほうが、震えているなんて。
机に腰を下ろし、ゆっくりと息を吐きました。
理性は戻っています。少しだけ、危なかったですが。
「……まだ負けませんよ」
小さく呟きます。
エアリス。あの少女は強い。若さと純粋さは、何よりも鋭い武器です。
けれど、私は私です。二十九年、孤独と研究と誇りを抱えてきた女です。覚悟の重さでは、負けるつもりはありません。
私は奪いません。縛りません。でも、譲りもしません。
ルーメンが選ぶ。そのときに、隣に立っているのが私であるように。自分を磨き続けるだけです。
左手をもう一度見つめます。薬指に宿る、青い光。
「……今日は、幸せでした」
素直にそう言えます。涙がにじみましたが、今度は静かな涙でした。悲しみではなく。満たされた涙。
二十九歳の誕生日。私は、愛していると伝えました。拒絶されませんでした。それだけで、十分です。
立ち上がり、窓を開けます。夜風が頬を撫でる。遠くに、大聖堂の灯り。
「ルーメン」
名前を呼ぶだけで、胸が温かくなります。
私はまだ戦えます。研究も。人生も。恋も。
指輪を軽く撫でてから、灯りを落としました。
二十九歳の夜は、静かに、しかし確かに、新しい決意とともに更けていきます。
私はもう、崖の縁にはいません。私は、自分の足で立っています。そして、愛する人の隣を目指して、歩いていきます。
~ルーメンの視点~
部屋の扉を閉めたあとも、胸の奥が静まらなかった。リリィの温もりが、まだ腕に残っている。
左手の薬指に指輪をはめたときの、あの震え。あれは、ただの誕生日の演出じゃない。覚悟だった。
二十九年間、誰にも触れさせなかった場所に、俺の手を導いた。
「つけるだけです」
そう言いながら、本当は違うと分かっていた。あれは、“選んでほしい”という無言の祈りだった。
そして……あのキス。リリィは、俺の顔を両手で包んだ。
逃げ道を塞ぐようでも、縛るようでもない。ただ、確かめるように。優しく、ゆっくりと。
唇が触れた瞬間、時間が止まった。甘いぶどう酒の香りが、微かに残っていた。大人の女性のキスだった。
でも、どこか震えていて。長く、深く、けれど押しつけるのではなく、「伝えたい」という気持ちだけが真っ直ぐに流れ込んでくる。俺は、受け止めることしかできなかった。
唇が離れたあとも、呼吸が重なっていた。
あの距離で見たリリィの瞳は、理性的な研究者のそれじゃない。覚悟を決めた一人の女性だった。あの人は、自分の人生を差し出していた。条件も、保証もなく。それが、どれほど重いか、俺は分かっている。
リリィは強い。理性的で、冷静で、いつも一歩引いている。
俺の進む道を尊重すると言いながら、本当は怖いはずなのに、それを一度も見せない。
今夜だけ、私を見ていてください。あの言葉が、ずっと頭から離れない。大人の女性の言葉だった。でも、その奥には、誰よりも純粋な少女みたいな想いがあった。
キスの最中、彼女の肩がほんの少しだけ震えていた。強い人が見せる、ほんの一瞬の弱さ。それを、俺は感じ取ってしまった。
俺は、リリィに救われた。魔術の理論も、世界の広さも、俺が知らなかったものを全部教えてくれた。
研究室で夜遅くまで並んで座った時間。静かな議論。何気ない会話。あれは、全部俺の宝物だ。
そして今日、分かった。
俺はリリィのことを尊敬しているだけじゃない。
守りたいと思っている。支えたいと思っている。笑っていてほしいと思っている。そして……触れたいと思っている。あの人に。
リリィが涙をこぼしたとき、俺の胸の奥が、強く締めつけられた。
リリィは、人生を一度、諦めかけた。それでも今、俺の前で未来を選んでいる。
そんな人を、軽い気持ちで扱えるわけがない。
あのキスは、甘いだけじゃない。人生の重さが乗っていた。
俺は、まだ未熟だ。迷っている自分も自覚している。
でも、ひとつだけ確かなことがある。リリィの誕生日は、俺にとっても特別な夜になった。
あの指輪は、ただの装飾じゃない。あれは、俺が背負った責任でもある。
そしてあのキスは、俺の心を、確実に揺らした。
リリィを幸せにしたい。その言葉を、まだ軽々しく口にはできない。
でも、あの人の隣に立てる男になりたい。それは、本心だ。
唇に残る、あの温もりを思い出すたびに、俺は逃げられなくなる。
研究室の灯りが落ちたあと、静かな部屋の中で、俺は拳を握った。
リリィ。あなたが俺に人生を懸けると言ったなら。俺も、逃げずに向き合う。あなたの想いに、ちゃんと応えられる男になる。




