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学院2年サラサ編 第八十四章 リリィの誕生日⑤ 甘さと揺れ

私の腕の中で、ルーメンの鼓動が伝わってきました。若く、力強く、まっすぐな鼓動。それが、私の胸に触れている。こんなにも近くで感じたことは、これまで何度もあったはずなのに……今夜は、まるで違う。

左手の薬指にある指輪が、じんわりと熱を帯びています。彼の手でつけてもらった、その重み。それだけで、心が満ちてしまいそうになります。


「リリィ……」

彼が、私の名を呼びました。迷いと、戸惑いと、それでも確かな想いが混じった声。

私は、そっと彼の胸元に顔を埋めたまま、続けます。

「これは、私のわがままです」

腕に力が入ります。離したくない。けれど、縛りたくもないです。

「ルーメンが、誰を選んでもいいのです」

言葉にしながら、胸が少し痛みます。

本当は、よくない。本当は、選ばれたい。けれど私は、大人です。彼よりも年上で、彼よりも長く生きる存在。


「でも、私の気持ちだけは、知っていてほしいのです」

顔を上げます。

ルーメンの瞳が、すぐ近くにあります。

揺れている。優しさと、真剣さと、迷い。すべてがその中にあります。

私は、両手で彼の頬を包みました。温かい。柔らかい。まだ少年の輪郭を残した頬。


「……もうひとつだけ、プレゼントをください」

囁くように。

答えを待たず、私はゆっくりと顔を近づけました。

唇が、そっと触れます。最初は確かめるように。

石のように冷たかった右半身とは違います。今は、温かいです。

ルーメンの唇も、少しだけ震えています。

一瞬、離れます。

ルーメンの息が、かすかに乱れています。

私はもう一度、重ねました。今度は、ほんの少しだけ長く。

唇が触れ合い、呼吸が混ざります。

深くはない。けれど、甘く、ゆっくりとした時間。

大人の女性としてのキス。それでも、どこか不器用で、真っ直ぐな想いだけが前に出てしまいました。


離れたとき、私は自分の呼吸が速くなっていることに気づきました。

「……すみません」

小さく笑う。

「驚きましたよね」

ルーメンは、少し赤くなりながらも首を振ります。

「驚きましたけど……嬉しかったです」

その言葉に、胸が震える。

危うい。このまま踏み込めば、理性が崩れてしまいます。

私は一瞬、彼の肩を強く掴みました。もっと欲しい。もっと近くで、もっと深く。

二十九年の空白が、一気に埋まろうとしています。けれど……私はゆっくりと息を吐きました。理性を取り戻す必要があります。


「十分すぎました、少し甘えてしまいましたね」

微笑む、けれど、涙が、ひとしずく、こぼれました。嬉しさから。

救われた命が、こうして愛を告げられる奇跡。

「ルーメン、ありがとうございます」

私は、彼の胸にもう一度だけ額を預けました。今夜だけは。この温もりを、独り占めしてもいい。そう、自分に許しながら。


ルーメンの腕の力が、少しだけ強くなりました。

それは迷いの抱擁ではなく、確かめるような抱きしめ方でした。

ルーメンの心もまた、揺れているのです。

それが分かるからこそ、私は先に口を開きます。


「……迷っていますね?」

ルーメンの胸元から顔を上げると、ほんの少しだけ視線が逸れました。

正直な子です。隠そうとしても、顔に出てしまう。

「リリィのことは、本当に好きです」

その言葉は、嘘ではありません。だからこそ、余計に胸が痛む。

「でも、もう一人……」

言い淀む。言わせなくても分かっています。

「エアリスちゃん、ですよね」

私の声は穏やかでした。できる限り、穏やかに。

ルーメンが驚いたように目を見開きます。

「分かっていますよ」

小さく笑います。

「幼馴染ですもの。長い時間を共有してきた強さは、簡単に勝てるものではありません」

それを言いながら、心の奥でひりつく痛みを感じました。

負けたくない。取られたくない。けれど、奪うこともしたくない。

「私は待てます」

その言葉は、強がりではありません。

本当に、待てます。エルフの血を引く私は、時間に余裕があるからです。

けれどそれ以上に、覚悟があります。

「ルーメンが選ぶまで、私は待ちます」

視線を合わせます。

「試しに、どちらかと付き合ってみるという選択も、否定はしません」

言いながら、胸の奥が軋みました。

本当は、否定したいです。けれどそれでは、ルーメンを縛ることになります。

「でも」

少し近づきます。

「今夜だけは」

声が、少しだけ低くなりました。

「今夜だけは、私の誕生日です」

左手の指輪が、月光を受けて淡く光ります。

「今夜だけは、私のことだけを見ていてください」

それはお願いであり、命令ではない。けれど、強い願い。

ルーメンの瞳が揺れ、そしてまっすぐに私を捉えます。

「……分かりました」

その瞬間、私は救われたような気持ちになりました。

今夜だけ。永遠ではない。けれど確かな時間。

ルーメンの腕が、再び私を強く抱き寄せます。その力は、迷いを含みながらも、確かに私を選んでいる力でした。

胸の奥が、熱くなる。負けたくない。でも、焦ってもいけません。

私は大人です。感情に流されるだけの少女ではありません。

それでも……。

「ありがとうございます、ルーメン」

小さく呟きます。

今夜だけでも。ルーメンの心の中心に、自分がいることを感じられるのなら。

それで十分だと、そう思おうとしました。……本当は、十分ではないと分かっていても。


私の「今夜だけ」という言葉を受け止めた瞬間、ルーメンの腕の力がはっきりと変わりました。

迷いを抱えたまま、それでも選ぶように。強く。強く。私を抱きしめてくれました。

胸と胸が触れ合い、彼の鼓動が伝わってきます。速い。私の鼓動も、きっと同じくらい速いです。


二十九年、生きてきました。

魔術の研究に没頭し、理論を積み重ね、冷静でいることを覚え、大人であることを自覚してきました。

けれど今の私は、そんな理知的な自分とはまるで違う。ただ一人の女性として、愛しい人に抱きしめられている。

「リリィ……」

私の名を呼ぶ声が、すぐ耳元で震えました。

その響きだけで、胸の奥がほどけていきます。

私はそっと顔を上げます。視線が合います。ほんの数センチの距離。

夜の静けさの中で、ルーメンの瞳には私だけが映っていました。

今夜だけ。そう言ったのは私です。けれど、その「今夜」があまりにも尊くて、切ない。ゆっくりと、私は彼の頬に手を添えました。

「……少しだけ」

自分でも驚くほど甘い声でした。そして唇を重ねます。

大人としての余裕も、技術も、計算もありません。ただ、触れたかった。

唇が触れ合う瞬間、ルーメンがわずかに息を呑むのが分かりました。

柔らかい。温かい。ほんの少し震えている。私も、震えている。深くはしない。けれど離れがたい。


そっと離れ、もう一度視線を合わせます。そのたびに、胸がきゅっと締めつけられます。

「……嬉しいです」

言葉が、涙と一緒に零れました。自分でも気づかないうちに、頬を伝うものがある。

「リリィ? どうしましたか?」

心配そうな声。

ああ、駄目です。これ以上は。理性が、少しずつ溶けていきます。

もう少しで、自分を止められなくなります。

私はルーメンの胸に顔を埋めました。

「違うんです……嬉しくて」


本当に、嬉しかった。石化病で身体が凍りついていったあの日。人生が終わると覚悟したあの瞬間。二十九歳の誕生日を迎える未来など、想像すらしていませんでした。

その未来を、こうして彼と過ごしています。指輪をはめてもらい。抱きしめられ。キスを交わし。涙が止まらなくなるほど、幸せだと感じています。

「ルーメン、ありがとうございます」

声が震えます。

「好きでいてくれて」

ルーメンの腕が、さらに優しくなりました。その優しさが、また涙を誘います。

私は何度か視線を合わせ、そのたびに短いキスを交わしました。けれど回数を重ねるほど、心がほどけていく。二十九年分の孤独が、少しずつ溶けていくようでした。

……この人に人生を捧げると誓った。その誓いが、今こうして形になっていきはじめます。

理性が崩れかける。もっと触れたい。もっと近づきたい。もっと……。

「……駄目です」

自分に言い聞かせるように、私は小さく呟きました。

今夜は甘い。甘すぎます。

けれど、私はルーメンを縛りたくありません。

涙を拭い、ゆっくりと顔を上げます。

二十九歳の誕生日。それは、恋に落ちた少女のように泣いてしまう夜でした。

けれど同時に。覚悟を持った女性として、立っていなければならない夜でもありました。


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