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学院2年サラサ編 第八十四章 リリィの誕生日④ 未来への希望

私が予約していた店は、研究室から少し離れた通りの奥にありました。

外観は落ち着いた石造りで、扉を開けると、温かな灯りと穏やかな香りが迎えてくれます。


席に案内され、向かい合って座る。

こうして向かい合うだけで、妙に意識してしまうのは、今日が誕生日だからでしょうか。

「コース料理をお願いしています」

私はそう言って、そっと微笑みました。

「もし足りなかったら、追加してくださいね」

「それでは、やっぱり僕の誕生日みたいになってしまいますよ」

ルーメンが少し困ったように言います。

「今日はリリィの誕生日なんですから」

その言い方が、どこか大人びていて。けれどまだ、少年の名残を残していて。私は思わず目を細めました。


「では、お言葉に甘えて、少しだけぶどう酒をいただきますね」

彼の前にはぶどうジュース。

私の前には、深い紅の液体。

グラスを持ち上げます。

「乾杯、ルーメン」

「お誕生日おめでとうございます、リリィ」

グラスが小さく触れ合う音が、やけに静かに響きました。


料理が運ばれ、会話がゆっくりと流れ始めます。

魔術の話。研究の話。学院を離れたあとのこれからの話。

「リリィは、どうしてそこまで魔術が好きになったんですか?」

ルーメンの問いに、私は少しだけ視線を落としました。

「……魔術に、二度救われたことがあるのです」

幼いころ。村が魔物に襲われた夜。

旅の魔術師が放った、あの圧倒的な光。

恐怖が、一瞬で消え去った。

次は、私自身が大怪我を負ったとき。

教会の治癒魔術で、傷跡一つ残らず救われた。

「そのとき思ったのです。私も、ああなりたいと」

人を救える力が欲しいと。それが始まりでした。


そして、三度目。

「……三度目は、ルーメンですね」

静かに言うと、ルーメンが少し驚いた顔をしました。

「石化病のときですか」

「はい」

あの絶望。身体が冷たくなり、未来が途切れたとき。

最後に見たのは、必死に魔力を流し続ける彼の姿でした。

「私は、魔術に救われ、そしてルーメンに救われました」

視線を上げると、彼の目が揺れています。

「だから、魔術をしてきて本当に良かったと思っています」

ほんの少し、声が柔らかくなりました。

「ルーメンにも出会えましたから」

それは、告白ではありません。

けれど、隠してもいません。


ぶどう酒を一口飲むと、身体の奥がじんわりと温まります。

大人の味。けれど今夜は、それ以上に胸が熱い。

料理を分け合いながら、時折視線が重なります。

笑い合い、静かに見つめ合い、また視線を逸らす。

恋人未満の距離。

けれど、ただの師弟でも、ただの研究仲間でもない。

食事は、ゆっくりと終盤へ向かっていきました。

私はグラスをそっと置きます。誕生日は、まだ終わっていない。

けれど、この穏やかな時間だけで、十分に幸せだと思ってしまう自分がいました。


店を出ると、夜の空気がひんやりと肌を撫でました。

ぶどう酒の熱が、ほんのりと頬に残っています。

「寒くありませんか?」

ルーメンがさりげなく尋ねます。

「大丈夫ですよ」

そう答えながら、私は彼の隣を歩き出しました。

指輪の箱は、まだ彼の手の中にあります。

あれが、今夜の終わりを決める。そう思うだけで、胸が少し早く打ちました。


街の灯りが石畳に落ち、二人の影が並んで伸びています。

「今日は、楽しかったですか?」

ルーメンの問いは、少しだけ不安を含んでいました。

私は足を止め、彼を見上げます。

「はい、とても」

短い言葉ですが、嘘はありません。

「私は二十九年生きてきて、こんな誕生日は初めてです」

それは、少し重い言葉だったかもしれません。

けれど彼は、逃げませんでした。

「これから、もっと更新していきましょう」

その返事に、思わず小さく笑ってしまいます。

更新。研究報告のような言い方。けれど、それがルーメンらしい。


城の敷地に戻り、研究棟の前に立ちます。

もう私は教師ではありません。彼が卒業すると同時に、職を辞しました。

今はただ、研究者として。そして……彼と同じ場所で暮らす一人の女性として。

鍵を開け、研究室へ入ります。静かな室内。

机の上には資料が積まれ、魔術灯が淡く光っています。

いつもと同じ空間。けれど今日は、違う。

私は振り返りました。

「ルーメン」

「はい」

彼の手の中の小箱が、視界に入ります。

心臓が、どくりと大きく鳴りました。

ここからが、本当の誕生日。

外ではなく。研究室という、二人だけの空間で迎える夜。

二十九歳の誕生日は、まだ終わっていません。むしろ、今から始まるのです。


研究室の扉が閉まると、外界の音はすっと遠のきました。

魔術灯の柔らかな光だけが、私たちを包んでいます。

ルーメンは、少しだけ緊張した様子で小箱を差し出しました。

「リリィ、誕生日おめでとうございます」

その声音は真っ直ぐで、誠実で、少しだけ震えています。

私は小さく微笑みました。

「ありがとうございます」


箱を受け取りかけて……私は、ふと手を止めました。今、ここで終わらせてはいけない。

この瞬間を、ただの贈り物で終わらせたくない。二十九年、独りで生きてきた時間。

魔術に身を捧げ、研究に没頭し、恋というものを遠ざけてきた年月。

そして一度は、石になって終わるはずだった人生。

そのすべてが、この小さな指輪に繋がっている。


私は、静かに息を吸いました。

「ルーメン、ひとつだけ、お願いしてもいいですか?」

彼はすぐに頷きます。

「はい、何でも」

何でも。その言葉が、胸を揺らします。

私はゆっくりと、左手を差し出しました。

薬指。自分でも分かっています。この指が、どんな意味を持つか。

ルーメンの視線が、そこに落ちました。

「……リリィ、その指は……」

少し戸惑う声。

当然です。

「分かっています」

私は、はっきりと言いました。

「結婚や婚約の意味がありますね」

胸の奥が、じんわりと熱くなります。

怖い。拒まれたらどうしよう。けれど、逃げたくない。

「でも、今は形だけでいいのです」

私は彼の目をまっすぐ見ました。

「二十九年、誰にもつけてもらったことがありません」

少しだけ、声が震えました。

「だから……今日だけ。つけるだけでいいのです」

本当は、つけるだけでは終わらせたくない。けれど、言えない。

「お願いできますか?」

静かな研究室に、沈黙が落ちます。


ルーメンは、しばらく私の左手を見つめていました。

そして、ゆっくりと頷きます。

「……分かりました」

小箱が開き、青い石の指輪が光を受けました。

彼の指が、私の薬指に触れます。

ひやりとした金属。けれど、次の瞬間には、彼の体温が重なります。

ゆっくりと。丁寧に。逃げ道を残さないほど、優しく。


指輪が、はまった。その瞬間。胸の奥で、何かが崩れました。

孤独の時間。石化病に怯えた夜。未来を諦めた日々。それらが、一気にほどけていく。

左手を見つめる。青い石が、私の髪と同じ色で輝いています。

「……」

言葉が出ません。


私は一歩、彼に近づきました。胸が、自然に彼へと寄っていく。

「ルーメン」

かすれた声。

「私は……」

もう、理屈ではありません。研究者でも、元教師でもない。ただの女性として。

「あなたを、愛しています」

はっきりと、告げました。

後戻りはできない言葉。

けれど、不思議と怖くはありません。

私は、彼の胸へと抱きつきました。強く。けれど、震えながら。

二十九歳の誕生日。私は、ついに。左薬指に、未来を宿したのです。


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