学院2年サラサ編 第八十四章 リリィの誕生日③ 願い
「プレゼントですが……ひとつ、お願いしてもいいですか?」
私は少しだけ姿勢を正して、そう切り出しました。
ルーメンは素直に頷きます。
「はい。リリィが欲しいものを教えてください」
その言い方が、少しだけくすぐったい。
欲しいもの。物だけではないのに、と心の奥で思いながら、私は言葉を選びます。
「魔導具の指輪を、贈ってもらえませんか?」
一瞬、彼の目がわずかに見開かれました。
驚きと、少しの戸惑い。
「指輪、ですか?」
「はい。魔術効果のあるものでなくて構いません。一番簡単なものでいいんです」
私は微笑みながら続けます。
「この年になって、指輪やアクセサリーはすべて自分で買ったものばかりでして」
ほんの少しだけ、視線を落としました。
「二十九年、独り身でしたから」
自分で言っておいて、頬がわずかに熱くなります。
研究に没頭してきた時間は誇りです。けれど、女性としての時間が止まっていたことも、また事実。
「……お付き合いされた方は?」
ルーメンが、遠慮がちに尋ねました。
その問いに、私は小さく笑います。
「魔術とばかりお付き合いしてきましたので」
冗談のようで、本当の話です。
「恥ずかしながら、誰ともお付き合いしたことはありません。別に、もてなかったわけではない……と思いたいですが」
少しだけ肩をすくめます。
ルーメンは、どこかほっとしたような顔をしました。その表情に気づいて、胸がほんのり温かくなります。
「安心しました」
その一言に、思わず視線を上げました。
「どうしてですか?」
「その……分かりません。でも、安心しました」
ああ。そういうところです。理屈ではなく、感情で動くところ。私は、ゆっくりと息を吐きました。
「ですから、指輪をお願いしたいのです」
左手を軽く見つめながら。けれど心の中では、はっきりと決めていました。
誰かから贈られる最初の指輪。それが、ルーメンからのものであってほしい。
「分かりました」
ルーメンは、真剣に頷きました。
「魔導具の指輪ですね。僕が選びます」
「いえ」
私はすぐに首を振ります。
「一緒に選びましょう。サイズも分かりませんし、何より……」
そこで、ほんの少しだけ本音が零れました。
「一緒に選ぶ時間そのものが、嬉しいのです」
自分で言って、少し照れます。
けれど、もう二十九歳です。素直にならなければ、何も掴めません。
ルーメンは、柔らかく微笑みました。
「では、一緒に行きましょう」
その言葉に、胸の奥が静かに満たされます。
指輪そのものよりも。彼と並んで選ぶ時間。それが、私にとっては何よりの贈り物でした。
誕生日当日。私たちは研究室を出て、街の中心部にある魔導具店へ向かいました。
店内は静かで、重厚な木の棚に指輪や首飾りが整然と並んでいます。淡い魔力光が空間を満たし、ひとつひとつが小さな芸術品のようでした。
「こちらは強力な魔法効果が付与されたものですね」
店主が見せてくれた指輪は、明らかに高価な輝きを放っていました。
魔石は大きく、台座も精緻で、ひと目で分かる上級品。
「リリィ、こっちじゃないですか?」
ルーメンが別の棚を指差します。
私はその方向へ歩み寄りました。
そこには、派手さはないものの、素朴な指輪が並んでいます。装飾も控えめで、価格も現実的な範囲。
私は迷わず、その列の前で足を止めました。
「ここから選びましょう」
高価なものは要りません。重たい魔力効果も要りません。欲しいのは……形です。……証です。
そのとき、ルーメンがひとつを手に取りました。
「リリィ、この青い石がついているのはどうでしょう。髪の色に似ています」
差し出された指輪。
小さな青い石が、控えめに光っています。
私は受け取り、じっと見つめました。石の色。深く澄んだ青。まるで、私自身の色。
そして、内側に小さく刻まれた文字が目に入ります。
「アモーレ・エテルノ」
一瞬、鼓動が強く跳ねました。
古い大陸語。
意味は……永遠の愛。
指先が、わずかに震えます。
ルーメンは、まだ意味に気づいていない様子でした。
「リリィ、どういう意味ですか?」
私は顔を上げ、彼を見ました。
今、ここで意味を伝えれば。彼はどう思うでしょう。重いと感じるかもしれない。早すぎると思うかもしれない。
けれど。私の胸の奥では、もう答えは決まっていました。
「……素敵な言葉ですよ」
それだけを言いました。本当の意味は、飲み込みます。
まだ、言わない。まだ、彼に背負わせない。
「サイズもちょうどいいです」
左手にそっと当ててみると、ぴたりと合いました。
偶然にしては出来すぎています。
「気に入りました。これにしてください」
静かにそう告げると、ルーメンは嬉しそうに頷き、会計へ向かいました。
私は指輪をもう一度見つめます。
永遠の愛。口にすれば、壊れてしまいそうな言葉。けれど。心の中では、はっきりと願っていました。どうか、永遠でありますように。
たとえ彼が別の未来を選んだとしても。この想いだけは、永遠であってほしい。
二十九歳の誕生日。胸の奥に、静かで強い震えが広がっていました。
店を出ると、夕暮れの光が街をやわらかく染めていました。
指輪は小さな箱に収まり、ルーメンの手の中にあります。まだ私の指にははめられていない。けれど、それだけで胸の奥が温かく満たされていました。
私たちは自然に並んで歩き出します。これまで何度も手を繋いできました。
研究室へ戻る道でも、街へ買い出しに行くときでも。特別なことではありません。
けれど今日は、少し違いました。
私はそっと、彼の左手を見つめます。
「ルーメン、少しだけ」
彼はすぐにこちらを見ました。
「はい?」
「右手を、もう少し強く握っていただいてもいいですか?」
自分でも、少し甘えていると分かっています。
石化病の後遺感覚は、もう日常生活に支障はありません。
それでも、右手の奥には時折、冷たい名残のようなものが走ることがあるのです。
「あのときの感覚が、まだ少し残っていまして」
正直に言うと、ルーメンは静かに頷きました。
「分かりました」
彼の指が、私の右手を包み込みます。
これまで何度も触れてきた掌。それなのに、今日は妙に意識してしまう。
温かい。そして、その奥に確かに流れている魔力。
治療のときの強い光ではありません。ただ、彼が生きているという証のような、穏やかな波。
それが、右手からゆっくりと身体に広がっていきます。
「……落ち着きます」
自然と、言葉が零れました。
「本当ですか?」
「はい。あなたの魔力は、昔から安心します」
あの崖のような絶望の瞬間、私を引き戻した魔力。冷え切った身体を、確かに温めてくれた光。
私は、彼に命を救われた。
だから誓ったのです。彼のために生きると。
けれど今、感じているこの温もりは、誓いとは別の感情です。女性として、ただ好きな人に触れているという、単純で、甘い幸福。
「今日は、少しだけ甘えさせてください」
そう言うと、ルーメンは照れたように笑いました。
「今日はリリィの誕生日ですから」
その言葉だけで、胸がほどけます。
私はもう学校の教師ではありません。彼の卒業とともに、その立場も手放しました。
今はただ、同じ研究室で共に歩む者。肩書きのない関係。
それが、こんなにも軽く、そして自由だとは思いませんでした。
並んで歩く足音が、静かな街に響きます。指先が触れ合い、絡み合い、少しだけ強く握り合う。恋人のようで、まだ恋人ではない。その曖昧な距離が、妙に甘い。
「ルーメン」
「はい」
「今夜は、まだ終わりませんね」
彼は、少しだけ真剣な目で私を見ました。
「はい。これからです」
その一言に、胸の奥が静かに震えます。
右手を、ほんの少しだけ強く握り返しました。
生きている。好きな人と、こうして歩いている。
それだけで、二十九歳の誕生日は、すでに特別なものになっていました。




