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学院2年サラサ編 第八十四章 リリィの誕生日② 分かってくれていた

エアリス・ゼフィラ。その名前を、私は何度も心の中で反芻している。

明るく、まっすぐで、風のように自由な少女。

ルーメンの幼馴染。彼の過去を、最初から知っている存在。

それだけで、十分すぎるほど強い。


幼少期の記憶を共有しているということは、理屈では測れない結びつきがあるということだ。

一緒に泣き、一緒に笑い、一緒に成長してきた時間。

それは、どれほど努力しても、後からは作れない。


私は研究室の机に肘をつき、静かに目を閉じる。

エアリスがルーメンを見る目。

あの、隠そうとして隠せていない光。

彼女はもう気づいている。自分の感情に。

そして、おそらく私のことも意識している。

すれ違ったときの、ほんの一瞬の緊張。

笑顔の奥にある、探るような視線。

私もまた、彼女を意識している。

理性ではなく、本能で。


年齢差。立場。教師だった私と生徒。

ハーフエルフの私と、人間の彼女。

理屈で並べれば、私の方が不利だ。

私は二十九歳。

彼女はまだ十代半ば。

普通なら、勝負にならない。


だが……恋に理屈は通用しない。

ルーメンが誰を見ているのか。

誰の隣で、より自然に笑っているのか。

それが、すべてだ。


私はこれまで、感情に振り回されたことがほとんどない。

研究者として、常に冷静であろうとしてきた。

術式も、理論も、感情を排して組み上げるものだ。


だが、最近の私は違う。

エアリスとルーメンが並んで歩いているのを見ると、胸の奥がざわつく。

二人の距離が近いと、視線を逸らしてしまう。

……負けたくない。

その言葉が、ふと心の奥から浮かび上がる。


私は驚いた。負けたくない、などと。勝ち負けで考えるなどと。

なんと幼稚なのだろう。だが、それが本音だった。

私は彼を失いたくない。

恩人だからではない。研究の相棒だからでもない。

一人の女性として、愛しているからだ。


エアリスは、未来そのものだ。

若く、これからいくらでも可能性が広がる存在。

私は、すでに多くを経験し、傷も知っている。

だからこそ思う。

もし彼が、同年代の少女と笑い合い、同じ歩幅で歩く未来を選ぶなら……それは自然なことだと。


それでも私は、簡単に身を引くつもりはない。

私は彼に命を救われた。

そして、自分の意思で彼を愛した。

この感情は、年齢では測れない。

時間でも、立場でもない。


私は静かに目を開ける。

研究室の窓に映る自分の姿は、いつも通り落ち着いて見える。

だが、その胸の内側では、確かに火が灯っている。

理知的なリリィ・アーデントの中に、一人の女がいる。

その女は、静かに、しかし確かに思っている。

……私は、あなたを選びたい。

……だから、あなたにも私を選んでほしい。

その願いは、決して軽くない。

誕生日。その日を、ただ祝われる日にはしない。

私は、踏み出す。負けたくないからではない。愛しているからだ。


「ルーメン、少しよろしいですか?」

声をかけるまでに、私は三度も呼吸を整えた。

たった一言。ただ誕生日の話をするだけ。

それなのに、胸の奥が妙に落ち着かない。


ルーメンはすぐに振り向いた。

「はい、リリィ。どうしましたか?」

いつもの、柔らかな声。それだけで、心臓がひとつ大きく跳ねる。

「その……今度の二十三日なのですが」

言葉が、わずかに遅れる。

私は二十九歳になろうとしている。

子どものように緊張する年齢ではないはずだ。

だが、彼の前ではどうにも調子が狂う。


すると、ルーメンが先に言った。

「リリィの誕生日ですよね。ちょうど僕もお話ししようと思っていました」

一瞬、言葉の意味を理解するのに時間がかかった。

「……え?」

「食事に行けたらと思っていたんです。あと、大人の方に何を贈ればいいのか分からないので、相談も兼ねて」

その言葉が、胸の奥にすっと落ちる。

覚えていてくれた。それだけで、世界が少し明るくなる。


私は思わず、微笑んでいた。

「本当ですか?」

「はい。本当です」

その真っ直ぐな瞳。

年上である私の方が、どこか浮き足立っている。

情けないですね、と心の中で苦笑する。

「ありがとうございます、ルーメン。とても嬉しいです」

声が、思ったより柔らかくなってしまう。

「ですが、学生に負担をかけるのは気が引けます。食事代は私が払いますよ」

「それでは、僕の誕生日みたいになります」

「いいのです」

私は首を振る。

「今は、これでいいのです。ルーメンが私の誕生日に一緒にいてくれる。それだけで、十分なのですから」

それは、本心だった。

豪華な贈り物も、華やかな演出もいらない。彼が隣にいること。それだけで、私の二十九年の孤独は報われる。

「プレゼントは、今月の報酬を倍にします。その範囲で選んでください」

少しだけ冗談めかす。

「ルーメンからいただくものなら、何でも嬉しいのですが……年上に贈るのは難しいでしょう?」

「そうですね……」

困ったように考え込む姿が、可愛らしい。

「では、いつでもルーメンを感じられるものがいいですね」

言ってから、自分で少しだけ頬が熱くなる。

言い過ぎでしょうか。けれど、引き返さない。

「何がよいでしょうね」

ルーメンが真剣に考える顔を見ていると、胸が満たされていく。


私は思う。二十九歳になることが怖かった。

周囲が家庭を築き始める中、自分は研究室に籠もり続けている。

だが今は違う。誕生日が、怖くない。

なぜなら、その日を誰かと共有できるから。それが、ルーメンだから。

「ルーメン」

「はい」

「ありがとうございます。本当に」

私は静かに微笑む。

この小さな約束が、私にとっては、何より大きな意味を持っていることを、彼はまだ知らない。


「ルーメンが正式に研究室に入って、ちゃんとお給料をもらえるようになったら、そのときは奢ってくださいね」

私は軽い気持ちでそう言ったつもりでした。

けれどルーメンは、思っていた以上に真剣な顔で答えました。

「分かりました。僕が成人したら、必ず毎年、リリィの誕生日は僕が奢ります」


一瞬、息が止まりました。

毎年。その言葉が、胸の奥にすとんと落ちます。

「……今、毎年って言いましたか?」

思わず聞き返してしまいます。

「え? はい。毎年、一緒に過ごします」

少し照れながらも、はっきりと。

その素直さが、胸に沁みました。

私は小さく笑いながら、少しだけ距離を詰めます。

「そんな約束、簡単にして大丈夫ですか?」

冗談めかした口調のはずなのに、心の奥は本気でした。

「言質はとりましたよ。ちゃんと覚えておきますよ。私の誕生日は、これから毎年、ルーメンと一緒に過ごすってことでいいんですね?」

「えっ……あ、はい」

彼の耳がほんのり赤くなります。


その様子が可愛くて、同時に愛おしくて、胸の奥がじんわりと温かくなりました。

毎年一緒に過ごす。

それは来年も、その次も、そのまた次も。

私の人生の中に、彼がいるということ。

婚約という言葉よりも、ずっと自然で、けれどずっと重い約束です。


「無理はしなくていいんですよ?」

そう言いながら、本心では願っていました。

どうか取り消さないで。

「無理じゃありません」

ルーメンは、まっすぐ私を見ます。

「僕は、リリィとずっと一緒にいたいと思っていますから」

その言葉に、胸の奥で何かが静かに弾けました。


ずっと。甘くて、少し危うい響き。このまま踏み込めば、戻れなくなる。

「……これ以上話すと、どこまでも行ってしまいそうですね」

私は小さく息を吐き、視線を逸らしました。

本当は、もっと聞きたい。どこまで一緒にいるつもりなのか。どんな未来を思い描いているのか。

けれど今は、ここで止めておきます。

二十九歳の女性として、理性はまだ必要です。

「とにかく」

私は微笑み直しました。

「毎年、ですからね?」

「はい。毎年です」

迷いのない返事。


その言葉を、私は心の奥にそっと刻みました。

指輪よりも確かな約束。

まだ形のない未来。それでも、確かにそこにある幸福。

誕生日はまだ来ていないのに、もう十分、特別な夜になり始めていました。


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