学院2年サラサ編 第八十四章 リリィの誕生日① 気持ちの変化
第八十四章 リリィの誕生日
私、リリィ・アーデントは……もうすぐ二十九歳になる。
口にしてしまえば、それだけで胸の奥が少しだけ硬くなる数字だった。
年齢を数えること自体は、昔から苦手ではない。エルフの血が混じる私にとって、人間の二十九という数字は、たしかに「若い」に分類される。成長の速度も遅いし、寿命も長い。焦る必要なんて、本来はどこにもないはずだ。研究に没頭していれば一年はあっという間で、二年も三年も、ひとつの仮説と術式の前では誤差のように溶けていく。
それなのに……最近は、ふとした瞬間に「置いていかれる」感覚が蘇る。
前にルゼリアの学校で魔術教師をしていた時、職員室で誰かが祝いの菓子を配っていた。
「結婚したの?」と聞けば、照れた笑いが返ってくる。
「子どもができたの」と言われれば、心から祝福したくなる自分がいる。
喜ばしい。眩しい。あたたかい。
同時に、胸の奥のどこかが、きゅっと細く締まる。
私は教師は辞めたが、研究者で、魔術師だ。
私の生き方は、間違っていない。
誰かと同じ道を歩かなくても、救えるものがある。積み上げたいものがある。私が心から望んで選んだ道だ。
……そう言い聞かせてきた。
そして実際、研究は楽しい。魔術の世界は広く、底が見えない。ひとつ解けば十の謎が増える。私の生は、いつだって好奇心と使命感で満たされていた。寂しさに溺れる暇など、本当に、なかったのだ。
……少なくとも、あの子に出会うまでは。
ルーメン。その名前を心の中で呼ぶだけで、思考が一度、静かに揺れる。
机の上の資料が、いつもより少し柔らかい紙に見える。
窓の外の光が、ほんのわずか、あたたかく感じる。
私は、あの子に救われた。それは、誇張でも比喩でもない。救われたという言葉が最も正確だ。
石化病……治らないと告げられ、進行を止める術もないと知ったとき、私は人生の終点を見た。研究は途中だった。やりたいことは無数にあった。生徒たちの未来も、守りたいものも、まだ何一つ終えていなかった。なのに時間だけが、容赦なく削られていく。
焦り、恐怖、諦め。そして、静かな絶望。
そこから引き上げたのが、ルーメンだった。
だから私は誓った。神に、そして自分に。この恩を、生涯をかけて返す。
ルーメンのために生きる。そう決めた。
決めたのに……。
最近、その誓いが「恩」だけでは説明できないものへ、形を変えていることに気づく。
あの子の成長が嬉しい。あの子の笑顔が心地いい。あの子の疲れた顔を見ると胸が痛む。あの子の指が、薬品の瓶を落としそうになっただけで、思わず手が伸びる。
それは、恩義というより……
私は唇を結び、息を整える。
研究室の空気は、薬草と紙の匂いがする。静かで、秩序がある。私の城だ。ここでは感情に溺れない。いつだって理屈を優先できる。
……けれど、今は違う。
焦らなければならない。理由は、はっきりしている。
ルーメンの成人が近いからだ。
成人すれば、彼は選べる。世界を。道を。人を。
いままで「まだ早い」「まだ子ども」と皆が守ってきた境界線が、ある日突然、消える。彼が望めば、未来はどんな形にだって変わる。
そして、その未来に……私がいる保証はない。
私が「好きな人と生きていい」と言ったのは、本心だ。
ルーメンを縛りたくない。恩を盾にしたくない。
私の誓いは、返礼ではなく選択でありたい。
……でも、私は心のある人間だ。
自分が救われた相手を、好きになってしまった。
それだけではなく、ただ好きになった。
「報われなくてもいい」と思えるほどに。
それでも……奪われるのは怖い。
奪われる。その言葉が脳裏に浮かぶたび、決まって同じ顔が一緒に浮かぶ。
エアリス。ルーメンの幼馴染。
彼の過去を知り、彼の弱さを知り、彼の優しさを当然のように受け取れる子。
あの子の笑い方は明るくて、ずるいくらい素直で、同じ空間にいるだけで場が暖まる。
そして……ルーメンは、あの子に甘い。
それが幼馴染というものだと理解している。
理解しているのに、胸の奥が、ほんの少しだけ冷える。
私は年上だ。魔術の研究者だ。
社会的な立場も、歳の差も、慎重さも、全部私の側に重なっている。
踏み出すには、理性が必要だ。覚悟が要る。
でも、踏み出さなければ。
私が私でいるために。
私の誓いを、ただの「良い先生」で終わらせないために。
私は机の上のカレンダーに視線を落とす。
二十三日……赤い丸。
私の誕生日。
胸の奥が、少しだけ熱くなる。
期待してはいけない。
求めすぎてはいけない。
それでも、たった一日くらいは。
……あの子に、私だけを見てほしい。
そう思ってしまう自分を、私は否定できなかった。
石化病と診断された日のことは、今でも鮮明に覚えている。
右手の感覚が、わずかに鈍い……ただそれだけだった。
魔力の巡りがほんの少し滞る。術式を組むとき、微細な誤差が出る。最初は疲労だと思った。研究のしすぎだと、自分で笑っていた。
だが、大聖堂の判断は冷酷だった。
進行性。根治不能。遅らせる方法はあっても、止めることはできない。
石化病。体の一部から徐々に石のように硬化し、やがて魔力も感覚も失われていく不治の病。
私は大神官の前で取り乱さなかった。
涙も見せなかった。淡々と症状を聞き、進行速度の推定を確認し、研究室へ戻った。
机に向かい、いつも通り筆を持った。
……持てなかった。
指先の微細な感覚が、ほんのわずかに遅れる。
魔力の流れが、いつものように滑らかではない。
その瞬間、理解した。私は、終わるのだ。
研究は途中だった。まだ仮説の段階の理論がいくつもあった。
救いたい患者も、育てたい生徒も、未完成の術式も、すべてが途中のまま。
それでも時間だけは進む。
私はその夜、灯りを落とし、机に額をつけ、初めて声を殺して泣いた。
悔しかった。恐ろしかった。
何より、自分が「まだ生きたい」と思っていることが、情けなかった。
諦めるしかないと、理屈では分かっていた。
魔術師として、現実を受け入れるのが私の役目だった。
それなのに。……ルーメン。
あの子は、諦めなかった。
私よりも先に異変に気づき、私よりも強く怒り、私よりも必死に術式を組み上げた。まだ未完成の理論を、自分の身を削るように展開して、何度も何度も干渉を試みた。
「まだ方法はあります」
そう言ったときのあの子の目を、私は忘れられない。
子どもの目ではなかった。誰かを失いたくないと願う、真剣な目だった。
私はあのとき、初めて怖くなった。
病気が怖いのではない。あの子が、自分の命を削ることが。
「やめなさい」と言うべきだった。
教師として、年長者として、止めるべきだった。
でも私は……止めなかった。
助かりたかったからだ。生きたかったからだ。
あの子の必死さに、縋ってしまった。
術式が成功して、右手の感覚が戻ったとき、私は膝から崩れ落ちた。
生き延びた。救われた。
その瞬間、私は神に誓った。
……この命は、もう私だけのものではない。ルーメンに救われた命。
ならば、その命はルーメンのために使う。
恩返し。それは確かに最初の動機だった。
だが、年月が経つにつれ、その誓いは変わっていく。
私はルーメンのそばにいることを選び続けた。
研究室に住まわせ、共に研究し、共に術式を磨き、共に笑い、時に叱り、時に支えられた。
それは依存ではない。
もし依存なら、私は彼を縛るはずだ。
「恩を返せ」と言うはずだ。「私を選べ」と強制するはずだ。
でも私は、そうしない。
私は選んでいる。何度でも。今日も、明日も、彼のそばにいることを。
救われたからではない。救われた“後”に、好きになったからだ。
研究室の窓に映る自分の姿を、私は静かに見つめる。
石化病の痕は、右手にわずかに残っている。
冷たい感覚が、時折思い出させる。あの崖の縁を。
私はあの崖から引き上げられた。だから今、立っていられる。
そして今度は……
崖の縁に立つのは、恋だ。
私は机の端をそっと握りしめた。
二十九歳の誕生日。それは、ただ年を重ねる日ではない。
私が“研究者”ではなく、“一人の女性”として、覚悟を決める日なのだと、静かに理解していた。




