学院2年サラサ編 第八十三章 エアリスの誕生日⑤ 初めての
夜風が、二人の間を静かに通り抜ける。
エアリスは、まだ俺の袖を掴んだまま、ほんの少し俯いていた。
そして、ゆっくりと顔を上げる。
「ルーメン」
「……うん」
喉が、少しだけ乾いている。
彼女は一歩だけ、さらに近づいた。もう、息がかかる距離だ。湖の光が、彼女の瞳の奥で揺れている。
「こっち見て」
言われなくても、見ている。けれど、その一言で、逃げ場が完全になくなる。
俺は、まっすぐ彼女を見つめた。エアリスの頬が、ほんのり赤い。緊張しているのが、はっきり分かる。それでも、目は逸らさない。
「ルーメン」
彼女の声が、少し震える。
「大好きだよ」
その一言は、夜の静けさの中で、やけに大きく響いた。心臓が、強く跳ねる。
次の瞬間。エアリスの両手が、そっと俺の胸に触れた。
押すわけでも、引くわけでもない。ただ、確かめるように。
そして、ほんの少し背伸びをする。
時間が、ゆっくりになる。
彼女の瞳が、すぐ目の前にある。迷いと、覚悟と、少しの怖さ。
それでも、逃げない。
柔らかい感触が、唇に触れた。
一瞬だけ。
本当に、触れるだけのキス。
でも、その一瞬が、永遠みたいに長い。
驚きと、甘さと、胸の奥から溢れ出す熱。
エアリスの唇は、少し震えていた。
離れた瞬間、彼女の頬が一気に赤くなる。
「……これ、初めてだから」
小さく、照れた声。
俺も、言葉が出ない。
鼓動がうるさい。頭が真っ白になる。
それでも、はっきり分かる。
嬉しい。どうしようもなく、嬉しい。
「エアリス」
名前を呼ぶと、彼女が不安そうにこちらを見る。
その表情が、あまりにも愛おしくて。
思わず、両腕を伸ばして抱きしめた。
細い体が、すっぽりと腕の中に収まる。
「ごめんね……じゃない」
思わず出かけた言葉を飲み込む。
違う。
「嬉しいよ」
声が少し震える。
「俺も……エアリスのことが好きだ」
言葉にした瞬間、胸の奥がじんわりと熱くなる。
「大好きだ」
エアリスの体が、ぴくっと震える。
そして、ぎゅっと俺の服を掴んだ。
「ほんとに……?」
「うん」
答えると、彼女の肩が小さく上下した。
泣いている。
静かに、こらえるみたいに。
「よかった……」
その声は、ほとんど涙声だった。
しばらく、ただ抱きしめていた。
互いの鼓動を、確かめるみたいに。
やがて、そっと体を離す。
目が合う。
さっきよりも、ずっと近い距離で。
エアリスが、少しだけ笑う。
「……もう一回だけ」
恥ずかしそうに言って、また背伸びをする。
今度は、俺からも少しだけ顔を寄せた。
さっきよりも、ほんの少し長く。
それでも、まだ不器用で、触れるだけのキス。
唇が離れたあと、二人で顔を見合わせて、思わず小さく笑った。
甘くて、くすぐったくて、どうしようもなく幸せな瞬間。
夜景は変わらず輝いている。
けれど、二人の間にある空気は、もう前とは違う。
初めて同士の、不器用で、真っ直ぐなキス。
それは、静かな丘の上で、確かに交わされた。
しばらく抱き合ったまま、夜風に包まれていた。
やがてエアリスが、そっと俺の胸を押す。
「……ルーメン」
少しだけ、照れた顔。でも、その目はもう落ち着いている。
「ちょっと落ち着いて」
小さく笑う。
俺は頷き、腕をゆるめた。
名残惜しい。でも、彼女の温もりはまだ残っている。
少し距離を取ったあと、エアリスがふと尋ねる。
「ねえ、ルーメン。今どこに住まわせてもらってるの?」
「……リリィの研究室」
正直に答えると、エアリスは一瞬だけ目を細めた。
責めるようではない。考えるような視線。
「そっか」
静かな返事。
そして、ふっと優しく笑う。
「やっぱりね」
何が“やっぱり”なのかは、聞かなくても分かる気がした。
彼女は一歩下がり、夜景を背にして立つ。
「ルーメン」
その声は、さっきまでの甘さとは少し違う。
芯のある、強い響き。
「私ね、抜け駆けはしたくないんだ」
胸が、どくんと鳴る。
「今の気持ちは本当。でも、その先は……」
言葉を選びながら、ゆっくりと続ける。
「本気でルーメンの心を射止めた人が、ルーメンに選ばれた人が、そうなるべきだと思う」
真っ直ぐな瞳。迷いはない。
「私は、堂々と勝ちたいの」
夜風に揺れる髪が、月明かりを受ける。
「相手に認められて、ちゃんと胸を張って隣に立ちたい」
その言葉に、胸が熱くなる。
エアリスは、ぱんっと手を叩いた。
丘の静寂に、小さな音が響く。
「はい、ここまで」
さっきまでの真剣さが、ふっと和らぐ。
「今からは今まで通りの関係だよ」
いたずらっぽく笑う。
「私の初めてはあげたけど、それで満足。普通にしててくれるのが、一番嬉しいから」
そう言って、腕をすっと差し出す。
「ほら」
少し照れながらも、健気に。
俺はその腕を取る。
自然に、いつもの形に戻る。
けれど、さっきまでとは違う。
触れているだけで、胸が温かい。
「エアリス」
名前を呼ぶと、彼女が振り向く。
「なに?」
「……ありがとう」
素直にそう言うと、彼女は少し驚いて、それから柔らかく笑った。
「こちらこそ」
夜景は、変わらず輝いている。
でも、二人の関係は、少しだけ深くなった。
甘さのあとに引かれた、優しい境界線。
それは、エアリスらしい、強くて健やかな選択だった。
丘を下りる道は、来るときよりも少し静かに感じられた。
エアリスは自然に俺の腕に自分の腕を絡める。
さっきと同じ仕草なのに、どこか違う。
もう遠慮も、迷いもない。
「ねえ、ルーメン」
「うん?」
「今日のこと、忘れないでね」
冗談めかしているようで、少しだけ真剣な声。
「忘れるわけないよ」
そう答えると、彼女は満足そうに笑った。
学院の寮が見えてくる。
窓にはぽつぽつと灯りがともっている。
「ここまででいいよ」
エアリスが立ち止まる。
腕がほどけると、急に夜風が冷たく感じた。
「今日は、本当にありがとう」
「こちらこそ。十四歳、おめでとう」
そう言うと、彼女は少し照れくさそうに目を細める。
「ねえ、ルーメン」
一歩、近づく。
「今まで通りって言ったけどさ」
小さく息を吸う。
「これくらいは、いいよね?」
背伸びをするように、そっと顔を寄せる。
触れるだけの、軽いキス。
さっきよりも短くて、でも確かに甘い。
離れたあと、エアリスは少し赤くなった頬を両手で押さえる。
「おやすみ、ルーメン」
「おやすみ、エアリス」
彼女はくるりと背を向け、寮の扉へ向かう。
途中で一度だけ振り返って、手を振った。
俺も手を上げる。
扉が閉まる音が、静かに夜へ溶けた。
そのまま研究室へ向かう道を歩く。
足取りは軽い。
けれど胸の奥は、熱いままだ。
唇に残る、柔らかな感触。
腕に感じた温もり。
「大好きだよ」
あの言葉が、何度もよみがえる。
研究室の灯りが見えてくる。
扉の向こうには、いつもの日常が待っている。
でも、今夜だけは少し違う。
幼馴染だった関係は、そのまま。
けれど確かに、一歩進んだ。
胸に残る甘い余韻を抱えたまま、俺は静かに扉を開けた。
~エアリスの視点~
丘の上で別れて、寮の扉を閉めた瞬間、足から力が抜けた。
「……やっちゃった……」
小さく呟いた声が、自分でも信じられないくらい震えている。
背中を扉に預けたまま、胸に手を当てる。
心臓が、うるさい。
どくどく、どくどくと、さっきまでの夜景よりも強く、鮮やかに脈打っている。
人生で初めてだった。
ちゃんと「好き」って言ったのも。
自分から、キスをしたのも。
今まで、何度も想像はした。
もし告白するなら、もっと可愛く言えるかな、とか。
もっと落ち着いて、微笑みながら言えるかな、とか。
でも実際は全然違った。
手は震えるし、喉は乾くし、言葉は胸の奥で何度も絡まった。
それでも……言わなきゃ、って思った。
今日を逃したら、きっと一生言えない気がしたから。
ルーメンと二人きりの誕生日。
夜景。プレゼント。
あんなに真剣な目で「出会いの記念」なんて言われて。
あれで何も言わなかったら、きっと後悔する。
私は、裕福じゃない。
領主の家の子と並んで歩くのが、ずっと少し怖かった。
でもルーメンは、昔から変わらなかった。
泥だらけになっても、一緒に笑ってくれて。
魔術がうまくいかなくても、最後まで付き合ってくれて。
あの日、私が消えそうになったときも。
自分のことなんて考えない顔で、必死で。
あのときから、ずっと好きだった。
でも、好きって言ったら、壊れちゃうかもしれないと思ってた。
幼馴染っていう立場が、ちょうどよくて。
近くにいられて。
名前を呼んでもらえて。
それだけで幸せだった。
なのに今日。
ルーメンの隣で歩いて、手を握られて、腕にしがみついて。
胸が当たってるの、絶対分かってるのに、何も言わないでいてくれて。
ああ、この人はずるいな、って思った。
優しくて、まっすぐで。
だから、私はちゃんと伝えたかった。
逃げないで。冗談にしないで。
“昔から大好きなんだ”って。
言い終えた瞬間、怖くなった。
もし困った顔をされたらどうしよう。
距離を置かれたらどうしよう。
でも、彼は真っ直ぐ見てくれた。
それだけで、十分だった。
そして……キス。
あれは、衝動だった。
「こっち見て」って言ったとき、もう決めてた。
震えてたのは分かってた。でも、逃げたくなかった。
唇が触れた瞬間。
世界が、止まったみたいだった。
柔らかくて、温かくて。
ほんの一瞬なのに、永遠みたいに長く感じた。
離れたあと、足が震えて、倒れそうだった。
でもルーメンが抱きしめてくれた。
強くて、優しくて。
ああ、好きでよかったって思った。
それでも私は、境界線を引いた。
リリィ先生の研究室に住んでいることを思い出したからじゃない。
それもあるけど、それだけじゃない。
私は、堂々と勝ちたい。
誰かを出し抜いて手に入れるんじゃなくて。
ちゃんと胸を張って、「選ばれた」って言いたい。
だから今日のキスは、奪うためじゃない。
“覚悟”の印。
私が逃げないっていう証。
今まで通りでいいって言ったのは、本心。
だって、ルーメンが困る顔は見たくないから。
でもね。
今まで通りでも、もう前とは違う。
だって私は、ちゃんと伝えたから。
「大好き」って。
ベッドに腰を下ろし、指でそっと唇に触れる。
まだ、少し熱い気がする。
「……ルーメン」
名前を小さく呟く。
幸せだ。怖いくらい、幸せだ。
明日、どんな顔をして会えばいいんだろう。
きっと普通に笑うんだろうけど、目が合ったら思い出してしまう。
でもそれでいい。
私は今日、一歩踏み出した。
幼馴染から、少しだけ。
ただの“好きな人”へ。
胸の奥がじんわり温かいまま、エアリスは布団に横になった。
眠れるはずがないと思っていたのに、いつの間にか微笑んだまま、静かに目を閉じていた。




