学院2年サラサ編 第八十三章 エアリスの誕生日③ 誕生日の食事
エアリスの誕生日当日。放課後の学院は、いつもより少しだけ特別に見えた。たぶん、俺の気持ちのせいだ。
中庭の噴水の前で待っていると、胸の奥がそわそわする。箱は鞄の中。何度も確認したから、ちゃんと入っているのは分かっている。それでも落ち着かない。
「ルーメン、待った?」
振り向いた瞬間、言葉が少し詰まった。
エアリスは、いつもの制服だけれど、今日は少しだけ雰囲気が違う。髪をいつもより丁寧に整えていて、淡い色の小さな髪飾りをつけていた。ほんのわずかな違いなのに、やけに目を引く。
「……いや、今来たところ」
嘘だ。三十分くらい前から待っていた。
エアリスはにこっと笑う。
「ほんと?なんか顔、緊張してるよ?」
「してない」
「してる」
そう言われて、俺は視線を逸らした。
エアリスの十四歳の誕生日。ただの夕食のはずなのに、なぜか胸が落ち着かない。
「行こっか」
エアリスが自然に隣へ並ぶ。
そして、自然に、俺の手を握ってきた。
「……」
「ん? 嫌だった?」
「嫌じゃないよ」
むしろ、嬉しい。
彼女の手は少しひんやりしていて、でも握り返すとすぐに温もりが伝わってくる。
そのまま歩き出すと、今度はエアリスが腕を絡めてきた。
「今日は特別だからね」
「……いつもとあんまり変わらない気がするけど」
「変わるよ。誕生日デートなんだから」
その言い方に、顔が熱くなる。
腕に柔らかい感触が当たる。
……当たっている。
最初の頃は、それだけで心臓が暴れそうになっていた。まともに歩けないくらい緊張していた。
今は……少し慣れた。
慣れた、けど。やっぱり、近い。
歩くたびに、エアリスが身体を寄せる。わざとか、無意識か分からない。でも、確実に距離は近い。
「ルーメン、顔赤いよ?」
「……風のせい」
「今日は風、そんなに強くないよ?」
くすっと笑う声が耳元に近い。
俺は小さく息を吐いた。
一年以上、こうして隣を歩いてきた。
肩が触れて、腕を組んで、何度も一緒に笑った。
でも、今日は少し違う。
“誕生日”というだけで、特別に感じる。
エアリスがこちらを見上げる。
「楽しみだな。ルーメンと誕生日に二人きりなんて、幸せだなー」
その無邪気な一言で、胸がぎゅっとなる。
「……俺も、嬉しいよ」
本音だ。
ルゼリアにいた頃は、こんな日が来るなんて想像もしていなかった。領地の屋敷で、遠くにいる幼馴染を思い出すだけだった。
今は隣にいる。手も繋いでいる。腕も絡められている。
ドキドキは、最初ほど激しくない。
でも、ちゃんとある。じんわりと、温かく、確かに。
夕暮れの光の中、俺たちは予約した店へと歩いていった。
予約していた店は、学院から少し離れた通りにあった。
木造の落ち着いた外観で、窓から柔らかな灯りが漏れている。
「ここ?」
エアリスが目を丸くする。
「うん。ちゃんと予約した」
「ほんとに二人きりなんだ」
その一言に、胸がまたざわつく。
店内は静かで、木の香りがほんのり漂っていた。奥の窓際の席に案内される。夜の街が少しだけ見える場所だ。
椅子に向かい合って座ると、距離が近い。
さっきまで腕を組んでいたのに、今は向かい合っているだけで妙に意識してしまう。
「なんか、改まってる感じだね」
エアリスが小さく笑う。
「改まってるのはそっちじゃない?」
「だって誕生日だもん」
メニューを開くと、エアリスはじっと眺めてから、少し考え込んだ。
「……これかな」
指差したのは、一番安い料理だった。
「それでいいの?」
「うん。これ好きそう」
「遠慮してない?」
「してないよ」
している顔だった。
俺は少し考えてから言う。
「じゃあ、これとこれ。二人で分けよう」
少し値段の高い料理を指す。
「え、いいの?」
「誕生日なんだから。今日は特別」
エアリスは少し迷って、それから小さく頷いた。
料理が運ばれてくると、湯気と一緒に香りが広がる。二人で同じ皿から取り分けるのは、なんだか妙にくすぐったい。
フォークが触れそうになって、エアリスが「あ、ごめん」と笑う。
「先どうぞ」
「いや、エアリスが」
「誕生日の人優先?」
「うん」
少しだけ照れた顔で、彼女が一口食べる。
目がゆっくりと開く。
「……美味しい」
その表情を見て、俺まで嬉しくなる。
「ほんとだ。美味しいね」
自然と視線が合う。
ほんの数秒なのに、時間がゆっくりになる。
周囲の客の声も、食器の音も、遠く感じる。
料理を分け合い、少しずつ食べ進める。
途中で俺はさりげなく言った。
「デザート、追加していい?」
「えっ」
「誕生日だから」
エアリスは一瞬戸惑って、それから嬉しそうに笑った。
「……じゃあ、少しだけ」
甘い香りのデザートが運ばれてくる。小さな飾りがついていて、ささやかながら特別感がある。
「ルーメンとこうやってご飯食べるの、好き」
ぽつりと呟く。
「学院の食堂とは違う?」
「全然違うよ」
スプーンを持つ手が少しだけ震えているのが見えた。緊張しているのは、俺だけじゃないらしい。
「誕生日に二人きりでご飯なんて、初めて」
「俺も」
正直に言うと、エアリスはふっと微笑んだ。
「なんか、大人になった気分だね」
「まだ十四歳だけど」
「でも、ちょっとだけ」
彼女がスプーンを口に運ぶ。その仕草ひとつひとつが、今日は特別に見える。
食事はゆっくり進み、笑い合い、時々黙って目を合わせる。
静かな甘さが、二人の間に満ちていた。
デザートを食べ終えるころには、店内の灯りも少しだけ柔らかく感じられた。窓の外はすっかり夜で、街の灯りが点々と揺れている。
エアリスはスプーンを置き、満足そうに息を吐いた。
「……幸せ」
小さな声だったけれど、はっきりと聞こえた。
「大げさじゃない?」
「大げさじゃないよ」
彼女は真面目な顔で言う。
「ルーメンと、誕生日に二人きりでご飯だよ?こんなの、昔の私だったら想像もできなかった」
昔……ルゼリアで、ただ一緒に走り回っていた頃。
あの頃は、こんなふうに向かい合って食事をする未来なんて、考えもしなかった。
「こうやってさ」
エアリスがテーブルに肘をつき、少しだけ身を乗り出す。
「毎日ルーメンとご飯食べられたらいいな」
不意打ちだった。
「毎日?」
「うん」
彼女は少し照れたように視線を逸らす。
「学院の食堂でもいいし……もっと先の話でもいいし」
もっと先、という言葉に、胸が少しだけ強く鳴る。
「私、料理得意なんだよ」
「知ってる。昔から」
「ほんと?」
「うん。家で手伝いでご飯も作ってるていってたから」
笑い合う。
「でも、ルーメンにちゃんと食べてもらったことはないよ」
「そうだっけ」
「うん」
エアリスは少しだけ頬を染める。
「今度、お弁当作っていくね」
「寮で作れる?」
「狭いけど、なんとかなるよ。豪華なのは無理だけど」
「豪華じゃなくていい」
受け入れてしまった。
「エアリスが作ってくれるなら、それだけで十分だよ」
彼女の瞳が、ふっと揺れる。
「……ほんと?」
「ほんと」
しばらく視線が絡んだまま、どちらも逸らせなくなる。
「じゃあ、約束ね」
「約束」
テーブルの上で、エアリスが小指を差し出す。
「子どもみたいだな」
「いいじゃん」
俺は少し笑って、その指に自分の小指を絡めた。
柔らかい。温かい。
「破ったら、許さないよ?」
「破らないよ」
未来の話をしているのに、不思議と現実味がある。
弁当。毎日の食事。並んで座る食卓。
ほんの小さな約束なのに、それは確かに“これから”を含んでいた。
エアリスは小さく笑い、絡めた指をゆっくりとほどく。
「楽しみだな」
その一言が、胸の奥にじんわりと残った。
料理の皿が下げられ、テーブルの上には温かい飲み物だけが残った。
そろそろ、だ。
さっきから何度も頭の中でタイミングを測っているのに、いざとなると喉が少し乾く。
「……エアリス」
「うん?」
いつもの調子で返事をする彼女を見て、余計に緊張する。
「その……誕生日おめでとう」
「ありがとう」
柔らかく笑う。
「一生懸命考えたんだ」
自分でも驚くくらい真面目な声になっていた。
「俺とエアリスの出会いって、魔術だっただろ」
彼女の表情が、少しだけ懐かしさを帯びる。
「うん。私がいじめられてたとき、ルーメンが魔術で守ってくれたもんね」
「あの時は、守ることに必死だったからね」
「ほんと、ルーメンに守られて良かったよ」
くすりと笑う。
「でも、あれがなかったら、今の私ないよ」
その言葉に、胸が少しだけ熱くなる。
「だからさ」
俺は椅子の横に置いていた包みを取り出した。
「俺とエアリスの出会いの記念として。もしよかったら、受け取ってほしい」
包みを開く。
中から現れたのは、片手で扱える小型の魔杖。
細身で、装飾は控えめ。だが中央には二色の魔石が嵌め込まれている。
風の淡い緑と、光の柔らかな金。
「……杖?」
エアリスの声が、わずかに震える。
「本格的なのは高くて買えなかった。でも、これは魔石を組み合わせられるやつでさ」
俺は少しだけ照れながら続ける。
「風はエアリスの属性。光は俺の属性」
彼女の指先が、そっと魔石に触れる。
「お揃い?」
「うん。俺も同じの持ってる」
鞄から自分の杖を取り出して見せると、エアリスの目がぱっと明るくなった。
「ほんとにお揃いだ……」
「出会いが魔術だったからさ。これからも、魔術で一緒に進めたらいいなって思って」
しばらく、彼女は何も言わなかった。
ただ、杖を胸元に抱きしめる。
「……覚えててくれたの?」
「何を?」
「私との出会い」
「忘れるわけないだろ」
エアリスは、ぎゅっと杖を握る。
「ありがとう、ルーメン。すごく嬉しい」
その笑顔は、無理しているものじゃない。
本当に、嬉しそうだ。
「それでさ」
少しだけ声を低くする。
「光の石、入ってるだろ?」
「うん」
「エアリスに光魔術、ちゃんと教えてなかったから。これを機に、教える」
一瞬、間。
「ほんとに?」
「そのつもりで贈ってる」
彼女の頬が、ふわっと赤くなる。
「やっと教えてもらえるんだ」
「授業でちょっとは触ってるだろ」
「でも、ルーメンから直接は、まだ」
昔みたいに。
「また特訓だな」
「うん、魔術の特訓」
エアリスは杖を両手で持ち、子どものように嬉しそうに笑う。
その姿を見て、胸の奥がじんわりと温かくなった。
高価な宝石でも、指輪でもない。
でも、これは俺たちの始まりの象徴だ。
エアリスはもう一度、まっすぐ俺を見る。
「ルーメン、本当にありがとう」
その目に映っているのが自分だと分かるだけで、十分だった。




