学院2年サラサ編 第八十三章 エアリスの誕生日① ぎこちない誘い
第八十三章 エアリスの誕生日
エアリスは、もうすぐ十四歳になる。その事実を、俺は朝の授業の途中でふと思い出した。
黒板の前で先生が何か説明している。羽ペンの走る音、ページをめくる音、窓の外の風。いつもと同じはずの教室なのに、「もうすぐ」という言葉だけが胸の奥で浮き上がって、そこだけが妙に熱を持った。
十四歳。そう口に出すだけで、なぜだか落ち着かない。
エアリスは、いつも通り隣の席で真面目にノートを取っている。ときどき眉を寄せて、俺の方をちらっと見て、すぐに前へ戻す。助けを求める視線ではない。ただ、「ここ、あとで教えてね」と言っているみたいな、幼馴染の合図だ。
俺はそれに小さく頷き返した。
頷きながら、胸の内側で別の計算をしている自分に気づく。
……誕生日、どうしよう。
ルゼリアにいた頃、誕生日は家の中で静かに過ぎていった。領主の家とはいえ、騒がしい祝い方はしない。形式が先に立って、笑っていてもどこか固かった。俺は子どもで、何が特別なのかもよく分からなかった。
それでも、思い出は残っている。
冬の終わり、冷えた空気。
暖炉の前で、母が丹精込めた豪華な料理を出してくれたこと。
父が「大きくなったな、おめでとう」と短く言って、頭を軽く撫でたこと。
その一言が嬉しくて、なのに照れくさくて、まともに顔を上げられなかったこと。
その頃の俺は、誕生日というものを「受け取る日」だと思っていた。
誰かが用意したものを受け取って、礼を言って、終わる日。
でも、今は違う。
学院に来て、エアリスと一緒に過ごして、当たり前の毎日が増えた。
食堂で向かい合う時間。廊下で肩が触れる距離。授業が終わってから、夕方の中庭で少しだけ話す時間。寮へ戻る道で、エアリスが俺の腕に自然に手を回してくることすら、もう日常になりかけている。
誕生日を祝う。
ただ「おめでとう」を言って、何か渡して、それで終わりにできるのか。俺はきっと、そうじゃない。何かを、もっとちゃんと形にしたい。エアリスが笑う顔を見たい。驚いて、照れて、でも嬉しそうに目を細める顔を。
そんなことを考えている時点で、もうただの幼馴染の距離じゃない気がする。
分かっているのに、分からないふりをして、いつもの顔で隣に座っている。
授業が終わって、教室がざわめいた。
椅子が引かれ、鞄が持ち上がり、友達同士の呼び声が飛び交う。俺が立ち上がると、エアリスがいつものように身を寄せてきた。
「ルーメン、次、移動だね」
語尾が軽い。いつも通りの声。
その「いつも通り」が、今日は胸に刺さる。
「ああ、そうだね」
俺もいつも通りに返した。返しながら、心臓が一拍だけ変な跳ね方をする。
今、ここで言うべきか。
「もうすぐ誕生日だね」って。
たったそれだけの言葉が、なぜこんなに重い。
廊下へ出ると、窓から日差しが差し込んで床を照らしていた。
エアリスの髪に光が落ちて、風の匂いがふっと混じる。俺はその横顔を見て、思い出す。
ルゼリアの村。幼い頃の、あの出来事。
エアリスが消えそうになったとき、俺が必死に手を伸ばしたこと。
俺の中で、エアリスは昔から「放っておけない存在」だった。たぶん、その時からずっと。
俺は歩きながら、こっそり息を吸う。
まずは、聞いてみる。予定があるか。実家に帰るのか。
そこから、少しずつ。自然に。変じゃない範囲で。
……いや、自然って何だ。
誕生日に二人で食事に誘うのが自然なのか、特別なのか。
特別にしたいから誘うんだろう。俺は。
エアリスがこちらを見上げた。
「どうしたの、ルーメン。なんか考えてるね」
言い当てられて、喉が詰まった。
幼馴染は、こういう時に鋭い。
「……うん。ちょっとだけ」
曖昧に笑ってごまかす。
それでも、胸の奥の緊張は消えない。
誕生日。今は学院で祝える。その事実が、嬉しい。
俺は決める。今日は、言う。ちゃんと、誘う。
たとえ声が裏返っても、目が泳いでも、恥ずかしくても。
エアリスの十四歳の誕生日は、ルゼリアの家の中じゃなく、この街で、この学院で、俺の言葉で祝いたい。
そう思った瞬間、胸の奥に小さな火が灯った。
昼休み、食堂の端の席はほどよく空いていた。
銀のトレイがぶつかる音、スープの匂い、パンをちぎる音。学院の昼はいつも賑やかで、なのに俺の中だけ妙に静かだった。静かすぎて、自分の心臓の音がうるさい。
エアリスは向かいで、スプーンをくるくる回してから口に運ぶ。
食べ方は上品というほどでもない。けれど、どこか丁寧で、手元がきれいだ。昔から変わらない。そういうところが、なんでもない瞬間に「俺はずっと見てきたんだ」と突きつけてくる。
「ねえ、ルーメン」
エアリスが何気ない声で呼ぶ。
俺は一瞬肩が跳ねそうになって、咳払いで誤魔化した。
「な、なに?」
「さっきから、変だよ。パン、ちぎってるだけで全然食べてないね」
言われて手元を見ると、本当にそうだった。
ちぎったパンが皿の端に小さく積まれている。俺はあわてて一口かじり、もごもごと飲み込む。
「……ちょっと考え事」
「ふーん」
エアリスは目を細めて笑う。
からかう一歩手前の顔だ。俺はそれを見て、今だ、と心の中で自分を叩いた。
「えっと……その……」
声を出した瞬間、喉が乾く。
言葉が喉の壁に貼りつく感じがした。
エアリスが首を傾げた。
「なに、改まって」
改まってるつもりはない。いや、ある。
俺はスプーンを置き、両手を膝の上で握った。こうすると姿勢が落ち着く。落ち着かないけど。
「もうすぐ、エアリスの誕生日だよね」
言えた。たったそれだけなのに、胸の奥が少し軽くなる。
エアリスはぱちりと瞬きをしたあと、ふっと頬を緩めた。
「覚えてたんだ」
「当たり前だよ。……もうすぐ十四歳だろ」
「うん」
嬉しそうに、でも照れを隠すみたいに、エアリスは視線をスープに落とした。
その仕草だけで、俺の胸がじんわり熱くなる。
俺は続ける。ここで止まったら負けだ。
「誕生日、実家に帰ったりするの?」
エアリスは首を振った。
「誕生日は普通に授業あるから、帰らないよ」
さらっと言う。
そこに特別な悲しさはないみたいで、むしろ「当然だよね」と言っている。エアリスはそういうところが強い。強いからこそ、俺は余計に祝いたくなる。
「そっか……じゃあ、予定とかある?」
エアリスはスプーンを口に運んでから、少しだけ考える顔をした。
「特にはないかな」
……よかった。
胸の奥でほっとする音がした。予定があることが悪いわけじゃない。でも、予定がないなら、俺が入れる。俺が、そこに立てる。
「じゃ、じゃあ……」
また言葉が詰まる。
俺は一度息を吸って、なるべく普通の声を作った。
「誕生日に、一緒に夕食でもどう?」
言い終えた瞬間、耳が熱くなる。
自分の声が少しだけ上ずった気がして、すぐに訂正したくなる。けど、もう遅い。言った。誘った。
エアリスは一拍置いてから、ニヤッと笑った。
「ん? リリィ先生の研究室で?」
一瞬、頭が真っ白になった。
俺が何か言うより先に、エアリスが楽しそうに肩を揺らす。
「やっぱり、いつもの場所が落ち着くー、とか言うのかなって」
「ち、違うよ」
反射で否定すると、エアリスはますます楽しそうだ。
「違うんだ」
「違う。ちゃんと……ちゃんと店を予約するよ」
自分で言いながら、頬がさらに熱くなる。
店。予約。二人だけ。そういう単語が口から出るたび、俺は「何を言ってるんだ」と自分に突っ込みたくなる。でも、それが言いたかったんだ。
エアリスは目を丸くして、それから、ゆっくりと笑った。
「ほんとに? 二人だけで、お店で食事してくれるの?」
「も、もちろん。エアリスのために……お祝いさせてもらいたい。いいかな」
語尾が情けないくらい弱くなる。
俺は内心で歯を食いしばる。しっかりしろ。幼馴染だろ。いつも通りだろ。なのに、いつも通りじゃない。
エアリスは小さく「うふふ」と笑った。
その笑い方が、妙に大人びて聞こえて、俺の心臓がまた跳ねる。
「ルーメンがそんなに言うなら、お誘いに乗ってもいいかな」
「……ほんと?」
「うん。……でもね」
エアリスは身を乗り出して、俺の顔を覗き込んだ。距離が近い。近いのに、エアリスの目はからかいと優しさのちょうど真ん中にある。
「そんなに気を使わなくても、普通に『誕生日に食事に行こう』って一言目で言っても大丈夫だよ」
言われて、胸の奥がきゅっと縮んだ。
恥ずかしいのに、救われた気がする。俺のぎこちなさを、笑わないで受け止めてくれている。
「あっ……そうだね」
「うん」
「なんだか……ちょっと緊張しちゃって」
俺が正直に言うと、エアリスは目を細めた。
「緊張してるルーメン、珍しいね」
「……笑うなよ」
「笑ってないよ。嬉しいだけ」
その言葉が、まっすぐ刺さる。
嬉しい。エアリスが。俺の誘いを。俺の緊張を。嬉しいって言ってくれる。
俺は小さく息を吐いた。
そして、ほんの少しだけ笑う。
「……ありがとう、エアリス」
エアリスはスプーンを持ち直して、いつもの調子に戻ったみたいに言った。
「じゃあ、誕生日、楽しみにしてるね」
その一言で、食堂の喧騒が少しだけ遠のいた。
俺の中に残ったのは、「約束できた」という確かな手触りだった。




