学院2年サラサ編 第八十二章 ミスティムーアの退治⓻ サラサたちの日常回復
医務室を出たあと、俺はその足で職員室へ向かった。リリィも隣を歩いている。廊下はいつも通りのざわめきに満ち、生徒たちは昨夜の出来事など知らぬ顔で授業へ向かっている。
扉を叩き、入室する。
数名の教師が書類に目を通していたが、俺たちを見ると手を止めた。
「例の四人の件か?」
年配の教師が静かに問う。
「はい。報告に来ました。四人とも現在は問題なく、症状は完全に消失しています」
室内の空気が、わずかに張り詰める。
「原因は判明したのか?」
別の教師が問う。
俺は言葉を選びながら答える。
「病ではありません。外部要因による一時的な魔力干渉です。原因はすでに排除しており、再発の可能性もありません」
曖昧にしすぎない。だが、必要以上の詳細は語らない。
教師たちは互いに視線を交わす。
「訓練中に発生した濃霧と関係があるのか?」
「はい。それが原因です」
短く、しかし丁寧に答える。
沈黙が落ちる。
訓練場で発生した濃霧は、結果として生徒に影響を及ぼした。それは事実だ。
「……学院側の管理責任が問われる可能性もあるな」
低い声が漏れる。
俺は一度、深く息を吸った。
「少なくとも、生徒に過失はありません。今回の件は不可抗力によるものです。処分や記録上の不利益が生じないよう、ご配慮いただければ幸いです」
強い口調ではない。だが、はっきりと。
教師たちはしばらく沈黙し、やがて頷いた。
「承知した。不問としよう」
「記録上は“原因不明の一過性魔力異常”として処理する」
それで十分だ。
俺は小さく頭を下げる。
「ありがとうございます。対応に感謝いたします」
職員室を出ると、廊下の光が少し明るく感じられた。
これで、学院内の処理は終わった。
四人は、余計な責任を背負わずに済む。
リリィが横で静かに言う。
「これで、正式にも終わりですね」
「はい。ようやく一段落です」
夜の戦いは、学院の中でも静かに閉じられた。
学院での報告を終えたあと、俺は大聖堂へと足を運んだ。石造りの回廊は静まり返り、足音だけが高い天井に反響する。昨夜まであれほど多くの人が視界を失い、祈るように座り込んでいた空間は、今は落ち着きを取り戻していた。
大神官は奥の執務室で待っていた。
「来たか、ルーメン」
「はい。本件の報告に来ました」
俺は一礼する。
「視界を失う現象は、すでに完全に消失しています。原因は特定済み、再発の可能性もありません」
大神官は静かに目を細めた。
「原因は魔物であったか」
「はい。魔霧を媒介とする個体です。魔力干渉による一時的な視覚遮断でした」
必要な部分だけを簡潔に伝える。
「排除は済んでいるのだな」
「はい。完全に。残滓も確認されていません」
大神官はゆっくりと頷いた。
「……見事である」
その一言は重かった。
「神位の癒しでも届かぬ領域を、そなたの調律は整えた。人の魔力を“正す”術――あれは特異だ」
俺はわずかに視線を落とす。
「特別なものではありません。ただ、干渉の形が異なるだけです」
謙遜ではない。だが誇示もしない。
大神官は穏やかに笑った。
「それを特別と言うのだ。少なくとも、この大聖堂では扱えぬ領域だ」
「今後、同様の現象が起きる可能性は?」
「現時点ではありません。発生源は消滅し、連鎖も完全に断ち切られています」
大神官は深く息を吐いた。
「ならば、街に告げよう。“異常は終息した”と」
それで、この件は公的にも終わる。
俺は静かに頭を下げた。
「ご協力に感謝します」
「礼を言うのはこちらだ。多くの民が救われた」
大神殿を出ると、広場には普段通りの往来があった。視界を奪われる者はいない。不安げに目を押さえる者もいない。
空は高く、澄んでいる。これで、街全体の収束も完了した。
夜の異常は、完全に歴史の一頁へと退いた。
大神殿を出たあと、俺は研究室へ戻った。午後の陽射しが窓から差し込み、机の上の資料を淡く照らしている。
扉を開けると、リリィが顔を上げた。
「お帰りなさい、ルーメン。大神官様へのご報告は終わりましたか?」
「はい。正式に終息したことをお伝えしてきました」
リリィは小さく頷き、手にしていたペンを置いた。
「では、本当に終わりですね」
その声には、確かな安堵がにじんでいる。
俺は机の向かいに立ち、静かに続けた。
「サラサの魔物化が消えたことで、三人への影響も同時に断ち切られました。毎晩発生していた魔霧の干渉は、完全に消えています」
「ええ。連鎖型でしたから」
リリィは落ち着いた声で整理する。
「発生源がサラサで、その核がミスティムーアだった。そこを解いたことで、外へ広がっていた干渉も消えた、ということですね」
「はい。その結果、四人全員の魔物化は完全に防がれました」
リリィはわずかに目を細めた。
「ルーメンの調律がなければ、あの核には届かなかったでしょう」
「いえ。リリィの拘束がなければ、あの状況で干渉を維持することはできませんでした。今回の成功は、共同の成果です」
互いに事実を述べるだけだが、それで十分だった。
少しの沈黙のあと、リリィが静かに言う。
「……調律魔術は、本当に特殊ですね」
研究者の目をしている。
「癒しとも違います。破壊でもない。“均す”という概念は、既存の魔術理論にはありません」
「基本は単純です。乱れた波長を整えるだけですから」
「その“だけ”が、最も難しいのです」
リリィは柔らかく笑った。
「核ごと消し去るのではなく、構造を保ったまま均衡を戻す。理論として整理できれば、大きな可能性があります」
俺は小さく息を吐く。
「理論化できるなら、価値はあるでしょう」
リリィはまっすぐに俺を見る。
「……協力していただけませんか?」
真剣な眼差しだった。
「調律魔術を体系として整理したいのです。私一人では届かない部分があります」
「危険な用途には使いません」
「分かっています」
「実験対象も慎重に選びます」
「当然です」
短い応酬のあと、俺は頷いた。
「分かりました。私にできる範囲であれば、協力します」
リリィの表情が、わずかに明るくなる。
「ありがとうございます、ルーメン。必ず理論として形にします」
窓から差し込む光が、研究机を照らしている。
事件は終わった。
だが、その結果は新しい可能性を生み始めている。
調律という力は、今回四人を救っただけではない。
静かに、次の道を開きつつあった。
数日後。学院の中庭は、いつも通りの賑わいを取り戻していた。石畳の上を生徒たちが行き交い、談笑し、課題の話をしている。あの夜の緊迫も、医務室の重い空気も、今はもう過去のものだ。
俺が中庭ででエアリスと話していた。
「それでね、ルーメン」
いつも通りエアリスと笑顔で会話がはずんでいた。
そこへ、小走りで近づいてくる足音がした。
振り向くと、サラサだった。
制服姿で、表情は明るい。足取りも軽い。夜の面影はどこにもない。
「あの……」
少し息を整えてから、サラサが言う。
「私も、ご一緒してもいいですか?」
エアリスがすぐにこちらを見る。
「ルーメン、女の子よく連れてくるね。ところでこの子は?」
責める口調ではない。ただの確認だ。
「魔物討伐訓練のときに助けにいったパーティーのリーダーのサラサだよ」
「そうなんだ」
エアリスはサラサをじっと見つめ、それからにこりと笑った。
「私はルーメンの幼馴染のエアリス。よろしくね」
「はい。サラサです」
サラサは丁寧に頭を下げる。
「ルーメンには、本当に救われました。エアリスさん、よろしくお願いします」
その言葉に、エアリスがちらりとこちらを見る。
「良かったよ、助かったんだね」
「はい」
迷いなく頷くサラサに、エアリスは一瞬だけ目を細め、それから笑った。
「それなら、仕方ないね。歓迎するよ」
緊張はない。探るような空気もない。
ただ、自然に輪が広がる。
「ありがとうございます」
サラサが小さく笑う。
中庭に吹き抜ける風は穏やかで、遠くでは鐘が鳴っている。
あの夜の魔霧も、暴走も、もうない。
残ったのは、普通の学院生活だ。
エアリスが歩き出し、サラサがその隣に並ぶ。
「次の授業、間に合いますか?」
「大丈夫だよ。ルーメンがいるから、迷わないでしょ?」
二人の会話に、自然と笑みが浮かぶ。
俺は少し後ろからその様子を見ながら歩いた。
四人は元の日常へ戻った。
学院は何事もなかったかのように動き続けている。
だが、確かに一つの事件は終わった。
ミスティムーアの魔霧は消え、魔物化は断たれ、夜の異常は過去になった。
そして今、新しい関係が静かに始まっている。
日常は、こうして続いていく。




