学院2年サラサ編 第八十二章 ミスティムーアの退治⑥ サラサへの魔物化告知
俺はサラサの様子を見ながら、ゆっくりと続けた。
「ラティス、ノエル、ディラドの状態も、あの霧が原因でした」
サラサは小さく息を呑んだ。
「やっぱり……」
「霧に含まれていたミスティムーアの魔力が、三人の中に入り込みました。完全に意識を奪われたわけじゃありませんが、内側に別の魔力が重なった状態でした」
彼女の指先が、わずかに強く握られる。
「どんな……魔物に?」
質問は、逃げない。
「ラティスにはハイオークの性質が、ノエルにはポイズネススパイダー、ディラドにはキラービーの性質が重なっていました」
サラサの目が見開かれる。
「そんな……」
「三人とも、魔力の波長が乱れていました。本人の意思とは関係なく、魔物側の特性が表に出ようとしていました」
俺は淡々と事実を述べる。感情を乗せすぎない。
「視界を奪う現象も、その影響の一部です。魔力が外へ不安定に漏れ、周囲に干渉していました」
サラサは俯き、唇を噛んだ。
「癒し魔術では……」
小さく、かすれた声。
「治らないのですか?」
「治らなです」
俺は静かに答えた。
「魔物化は怪我や病気とは違います。肉体ではなく、魔力構造そのものが上書きされます。今ある癒し魔術では回復できないのです」
彼女の肩が、わずかに震えた。
「でも……今は、三人とも落ち着いていますよね」
「特別な方法で、魔力の構造を直接整えました」
あくまで説明に徹する。誰が、とはまだ言わない。
「魔物化の根を断てば、連鎖も止まります。だから三人も回復に向かっています」
サラサはゆっくりと顔を上げた。
不安はある。だが、混乱はしていない。
「怖いですね……」
本音が、静かに零れる。
「知らないうちに、そんなことが起きるなんて」
「もう起きないですよ」
俺ははっきりと告げる。
「霧の源は消えました。連鎖も断ち切られました」
彼女の瞳が、わずかに潤む。
だが、それは恐怖だけではない。安堵も混じっている。
鐘の音が遠ざかってから、俺は静かに続けた。
「……サラサさん」
名前を呼ぶと、彼女はまっすぐこちらを見る。
「三人だけじゃない」
その一言で、空気がわずかに張り詰めた。
「霧の影響は、他にもありました」
サラサは息を止めるように、瞬きを忘れた。
「……他にも?」
俺は目を逸らさない。
「サラサさんにも、影響がありました」
沈黙が流れる。
廊下の向こうを通り過ぎる足音が、やけに遠く感じる。
「……私、ですか?」
声は震えていない。だが、指先がわずかに白くなる。
「はい」
短く肯定する。
「ただし、三人とは状態が違いました」
彼女は言葉を待っている。
「サラサさんは魔力が強い。だから、完全に上書きされることはありませんでした」
ゆっくりと説明する。
「昼間は、ほとんど影響が出ていませんでした。魔力の均衡を自力で保っていたからです」
彼女の眉がわずかに寄る。
「……昼は?」
「発現していたのは、夜だけなんです」
はっきりと言う。
「眠って魔力が弱まった時間帯に限って、表層が入れ替わっていました」
サラサの呼吸が、ひとつ深くなる。
「だから……朝、靴の位置が変わっていたり、外出用の服を着ていたり……」
「夜の間に動いていました」
俺は続ける。
「だけど、昼のサラサさんはその夜の記憶を持っていません。内部で前面に出ていたのは、ミスティムーアの魔力でしたから」
沈黙が落ちる。
彼女の視線が床へ落ちる。
「……私、人を傷つけましたか?」
その問いは、予想していた。
「傷つけていません」
優しく答える。
「視界を奪う現象はありましたが、命に関わることは何も起きてはいません」
彼女の肩から、わずかに力が抜けた。
「本当、ですか?」
「はい、間違いありません」
昨夜の酒場通りを思い出す。
接触はあった。だが、直接的な加害はない。
「むしろ、魔力の強さがあったからこそ、夜だけで抑えられていました」
昼間は彼女自身の魔力が優勢だった。
完全に魔物化するには至らなかった。
サラサは、胸に手を当てる。
「……夜だけ」
その言葉を、ゆっくりと噛みしめる。
「だから、私は何も覚えていないんですね」
「はい、そうです」
彼女はしばらく黙ったまま、目を閉じた。
混乱はある。だが、取り乱してはいない。
やがて、小さく息を吐く。
「……怖いですね。でも」
目を開ける。
「今は、もうないんですよね?」
「ないですよ」
俺は迷わず答える。
「完全に断ち切りました」
その言葉を聞いた瞬間、彼女の表情に、初めて安堵がはっきりと浮かんだ。
しばらくの沈黙のあと、サラサはゆっくりと顔を上げた。廊下の窓から差し込む光が、彼女の横顔を柔らかく照らしている。
「……それを、治してくれたのは」
視線が、まっすぐに俺へ向いた。
「誰なんですか?」
逃げ道のない問いだった。感謝と、少しの緊張が混じっている。
俺は小さく息を吐く。
「特別な術式を使える者だけです」
「特別な……」
「癒し魔術では届かない領域でした。普通の術では、魔物化は解けません」
淡々と事実だけを置く。誇張も謙遜もしない。
サラサはわずかに身を乗り出した。
「すごい人、なんですね」
その瞳には純粋な尊敬があった。自分を救った相手に対する、素直な感情だ。
俺は苦笑する。
「……どうでしょうね」
はぐらかすと、サラサは少し考え、それからふっと笑った。
「でも、その人がいなかったら、私は今も夜だけ……」
言葉を途中で止める。夜という単語の重さを、ようやく実感したのだろう。
それでも彼女は続けた。
「お礼を言いたいです」
その声は、真剣だった。
俺は一拍置いてから言う。
「じゃあ、その代わりに」
「代わり?」
「僕と友達になってください」
唐突に聞こえたかもしれない。だが、冗談ではない。
サラサは目を瞬かせ、それから静かに笑った。
「命の恩人に、ですか?」
「恩人は関係ないですよ。ただの提案です」
一瞬の沈黙。
だが彼女は迷わなかった。
「……嬉しいです」
柔らかく、まっすぐな声。
「私、もう友達以上に思ってました」
少しだけ頬が赤くなる。
「だめですか?」
「だめじゃありません」
自然と笑みが浮かぶ。
「じゃあ、握手をしましょう」
俺は手を差し出した。
サラサは一瞬ためらい、それから両手で包むようにその手を握る。
温かい。夜に感じた冷たい圧も、濁った層も、何もない。
そのまま、ごくわずかに魔力を流す。確認のための、ほんの薄い干渉だ。
表層は安定している。中層にも歪みはない。最深部まで静かで、異物の痕跡は皆無。
完全に、彼女自身の魔力だけだ。
サラサの瞳が、かすかに見開かれる。
「……あ」
気づいたらしい。
俺は肩を竦める。
「困っている人を見ると、放っておけない性格なんですよ」
彼女は、じっと俺を見つめる。
「ルーメンさんが……」
「“さん”はいらないです」
言い直す。
「友達だからね」
サラサは一瞬戸惑い、それから小さく笑った。
「……ルーメン」
呼び捨てはまだ少しぎこちない。
「ありがとうございました。そして、これからもよろしくお願いします」
握った手に、ほんの少しだけ力が込められる。
「こちらこそ、よろしくな。サラサ」
ゆっくりと手を離す。
魔力は静かだ。揺らぎはない。
廊下を渡る風が、二人の間を通り過ぎる。
夜の異常は、もうどこにも残っていない。
残ったのは、新しい関係と、穏やかな昼の光だけだった。
医務室へ戻り、教師に許可を取り、土魔術の囲いを解いた。ラティス、ノエル、ディラドの三人はそれぞれ静かに身を起こした。昨夜まで部屋を覆っていた重苦しい緊張は消え、窓から差し込む昼の光が、白い寝台を柔らかく照らしている。
ラティスは窓際に立ち、外の中庭をじっと見つめていた。ノエルは自分の両手を開いたり閉じたりしながら、感覚を確かめるように指先を見つめている。ディラドは椅子に腰掛け、深く息を吐き出したところだった。
「どうだ?」
俺が声をかけると、三人は同時に振り向いた。その視線に、あの怯えはない。夜に見せていた凍りつくような恐怖は、もう残っていなかった。
「……重い感覚が無くなった」
ラティスが、確かめるように言う。
「ちゃんと自分の思い通りに動かせる、何かから解放されたみたいだ」
ノエルも頷いた。
「頭も重くない。昨日まで、ずっと何かまとわりついてる感じがあったけど……それがない」
ディラドは照れくさそうに肩をすくめる。
「まだ信じきれてないけどな。でも、身体は普通だ。変な力も入らないし、震えもない」
俺は三人の魔力を改めて感じ取る。波長は安定している。濁りはなく、侵食の痕跡もない。昨夜まで微かに残っていた違和感も、完全に消えている。
連鎖は、終わっている。
「もう夜に悪化することもない」
静かに告げると、三人は顔を見合わせた。
「本当に……終わったのか?」
ラティスの問いは疑いではなく、確認だった。
「ああ。原因は排除された」
それ以上は語らない。それで十分だったらしい。ノエルが肩の力を抜き、ディラドが天井を見上げて深く息を吐く。
「俺、正直……もう戻れないかと思ってた」
その言葉に、医務室の空気がわずかに揺れた。
サラサは少し離れた場所で、三人の様子を静かに見守っている。その表情に浮かんでいるのは罪悪感ではない。ほっとしたような、柔らかな安堵だった。
窓の外で、学院の鐘が鳴る。規則正しい音が廊下を伝い、日常の時間を刻む。
「……授業、間に合うな」
ディラドが苦笑する。
ラティスが肩を回しながら言う。
「さぼる理由、なくなったな」
ノエルも小さく笑った。
医務室の空気が、ようやく自然な温度を取り戻す。特別な儀式も、劇的な歓声もない。ただ、普通の朝がそこにある。
それが何よりの証だった。
四人は、それぞれの足で、日常へ戻っていく準備を始めていた。




