学院2年サラサ編 第八十二章 ミスティムーアの退治⑤ サラサへの確認
翌日。学院の廊下は、いつも通りの朝のざわめきに包まれていた。
窓から差し込む陽光が白い床を照らし、生徒たちの話し声が一定のリズムで流れていく。昨夜の酒場通りの緊迫とは、まるで別の世界だ。
俺は医務室の扉を軽く叩いた。
「どうぞ」
中から返る声は穏やかだった。
扉を開けると、ラティス、ノエル、ディラド、そしてサラサがいる。四人とも座っているが、表情に昨日までの険しさはない。三人の視線も落ち着いている。
魔力の波長も安定している。
だが、今日ここへ来た目的は別だ。
「少し、サラサさんと話がしたいけど、いいかな?」
俺は自然な声で言った。
ラティスが一瞬だけサラサを見る。その視線に恐怖はない。ただ、何か言いたげな迷いだけが残っている。
サラサは小さく首を傾げた。
「私ですか?」
「ああ。少しだけ」
声色は変えない。重くもしない。あくまで穏やかに。
三人を刺激しないよう、特別な意味があるように見せないように。
サラサは素直に立ち上がった。
「すぐ戻りますね」
三人にそう言ってから、俺の方へ歩いてくる。足取りは安定している。揺らぎはない。
医務室を出て、廊下の端へ移動する。
人の往来から少し離れた窓際。話し声が届きにくい位置。
「ここでいい」
俺が言うと、サラサは静かに立ち止まった。
「どうしましたか、ルーメンさん?」
声はいつも通りだ。
俺は一瞬だけ彼女の魔力の流れを感じ取る。
外殻はない。濁りもない。侵食の兆しもない。
だが、それを口にはしない。
まだ核心には触れない。
まずは、昼の彼女と向き合う。
俺は静かに息を整えた。
「少し、確認したいことがあるだけだけど」
それだけを告げる。
朝の光が二人の間に差し込み、影を柔らかく伸ばしていた。
ここから先の言葉は、順を追って伝える。焦らずに。
窓際に差し込む光は柔らかく、廊下のざわめきも遠い。
俺は穏やかな声で問いかけた。
「まず、体調はどうですか?」
核心には触れない。ただの確認のように聞く。
サラサは少し意外そうに瞬きをしたあと、ゆっくりと考えるように視線を落とした。
「……それが、今朝起きたときから、少し変なんです」
「変?」
「悪い意味じゃありません」
彼女は胸元に手を当てる。
「ずっと、ここに……何か引っかかっている感じがあったんです」
喉元を指先でなぞる。
「小さな棘みたいな。息を吸うたびに、少しだけ違和感があって。苦しいほどじゃないけど、ずっと残っている感じでした」
声は落ち着いているが、その感覚は長く続いていたのだろう。
「でも、今朝はそれがなくて」
ゆっくりと顔を上げる。
「喉がすっと通るんです。呼吸が軽いというか……胸の奥の重さが、なくなったみたいで」
彼女は両手を握ったり開いたりして、自分の身体を確かめるように続ける。
「身体も、変にだるくありません。ここ最近は、ちゃんと眠れた気がしなくて、朝もぼんやりしていたんですけど……今日は違います」
目がまっすぐ俺を見た。
「すごく、軽いんです」
俺は黙って聞く。
魔力の流れも、彼女の言葉と一致している。揺らぎはない。波長は一定で、無理な抑え込みも感じられない。
サラサは少し笑った。
「自分でも不思議です。何かがなくなったみたいで」
「なくなったんですか?」
「はい。理由は分からないんですけど……ずっと胸の奥がざわざわしていたのが、消えた感じです」
彼女は首を傾げる。
「気のせいかもしれませんけど」
「気のせいではないと思うよ」
俺は静かに言った。
「変化があるなら、それはちゃんと意味があります」
サラサは小さく頷いた。
廊下の向こうで、誰かが笑う声が響く。学院の日常は何も変わっていない。
だが、彼女の内側では、確かに何かが終わっている。
俺は廊下の窓際で、サラサの横顔を一瞬だけ見てから、視線を外した。直視したまま問いを投げると、彼女は身構える。だから、雑談の延長みたいに、呼吸を整えてから口を開く。
「サラサさん。昨日の夜のこと、何か覚えていますか?」
彼女はきょとんとして、軽く瞬きをした。
「夜、ですか?」
「はい。昼間の医務室のことじゃなくて、その後の時間のことです」
サラサは少しだけ眉を寄せる。思い出そうとする癖のように、視線が廊下の先へ流れた。
「……昨日は、医務室で少しお話しして、そのあと自室に戻りました」
「それからは?」
「普通に寝ました」
迷いがない。作り話の間もない。彼女の中では、それが“昨日の夜”の全部なのだ。
「途中で起きたりとかは?」
「いいえ。気づいたら朝でした」
声の温度が変わらない。嘘をつく人間のそれじゃない。俺は質問の角度を変える。
「変わったことは?」
サラサは首を傾げたまま、数秒黙り込んで……ふっと、思い出したように口元を緩めた。
「そういえば……前にお話ししましたよね。朝起きたら、靴の位置が変わっていたり、机の上の物が違う場所にあったり……外出用の服を着たまま寝ていたりするって」
「はい」
「でも今朝起きたら、なぜか医務室で外出用の服で寝ていたみたいでした」
彼女は自分でも不思議そうに、胸のあたりへ手を当てる。
夜の記憶は、ない。けれど、朝の異常には自覚がある。俺はそれを言葉にせず、ただ頷いた。
「怖いと思ったことは?」
サラサは少し困ったように笑った。
「……少しは。でも、夢の延長みたいな感じで。現実味が薄いというか……だから、あまり深く考えないようにしてました」
その言い方が、彼女らしい。責任を背負い込む人間ほど、怖さに目をつぶるのが上手い。
俺は、彼女の魔力の波長を改めて確かめる。乱れはない。外側に重なる異物の層もない。奥底に沈む核の影もない。……本当に、何も残っていない。
「覚えていないなら、それでいいですよ」
俺はそう言って、声を柔らかくした。
サラサが小さく目を瞬いた。
「……やっぱり何か、あったんですか?」
疑う口調ではない。純粋に、置いていかれた人の問いだ。
俺はすぐには答えない。ここで全てを明かすべきじゃない。順を追う。事実から。彼女が受け止められる形で。
「いくつか、確かめたいことがあるだけです」
そう言って、俺は次の言葉を喉の奥に留めたまま、サラサの反応を静かに待った。
俺は一度、廊下の向こうへ視線を流してから、静かに切り出した。
「サラサさん。魔物討伐訓練の日のことは、はっきり覚えていますか?」
彼女はすぐに頷いた。
「はい。急に濃い霧が出て……ほとんど何も見えなくなりました」
あの日のことを思い出しているのか、ほんの少しだけ眉が寄る。
「あの霧の正体が分かりました」
俺がそう言うと、サラサの表情が引き締まった。
「正体……ですか?」
「あれは自然の霧じゃなかったんです。魔物が発生させた魔霧だったんです」
言葉を急がない。事実を順番に置いていく。
「その魔物の名は、ミスティムーア。霧を媒介にして活動する性質を持つ存在です」
「魔物が……霧を出すんですか?」
小さな驚きが混じるが、声は落ち着いている。
「はい。あの濃霧は単なる視界不良じゃない。魔力を含んでいる。浴びた者の魔力に触れ、干渉する性質があります」
サラサは無意識に自分の腕を軽く抱いた。
「干渉、というと……?」
「魔力の流れを乱す。特に、元から揺らいでいる者や、魔力が弱い者には影響が出やすい霧です」
俺は彼女の目をまっすぐに見る。
曖昧にはしない。ただし、刺激もしない。
「場合によっては、人の中に魔物の魔力が入り込み、主導権を奪うことがあります」
彼女の瞳が、わずかに揺れた。
「……乗っ取られる、ということですか?」
「完全に意識を失うわけじゃないんです。ただ、内側に別の魔力が入り込み、身体や感覚に影響を及ぼす。それを魔物化と呼びます」
廊下の向こうで生徒たちの笑い声が響く。日常の音が、かえってこの話の重さを浮かび上がらせる。
サラサはゆっくりと息を吸い、静かに吐いた。
「そんな現象が……実際に起きるんですね」
「はい、起きました」
短く答える。
「霧を浴びた人の中には、実際に影響を受けた者がいます」
誰とは言わない。まだそこまでは踏み込まない。
「視界を奪われる現象も、その干渉の一部です」
サラサの表情が、はっきりと変わった。
「あの三人のこと、ですか?」
自分から繋げた。
理解が早い。状況を整理する力がある。
俺は小さく頷く。
「関係はあります」
それ以上は言わない。
彼女の呼吸は乱れていない。魔力の波長も安定している。受け止めきれている。
「でも、もう霧はありません」
俺は続ける。
「原因になっていた魔物は排除されました。今後、同じ現象は起きないでしょう」
安心材料を、ここで置く。
サラサは胸元に手を当て、静かに目を閉じた。
「……だから、今朝はあんなに軽かったんですね」
ぽつりと零れたその言葉に、俺はわずかに目を細める。
彼女はまだ、自分のことだとは結びつけていない。
それでいい。真実は、次の段階で伝える。
彼女が自分を責めない形で。
廊下を吹き抜ける風が、二人の間を静かに通り過ぎた。




