学院2年サラサ編 第八十二章 ミスティムーアの退治④ 学院搬送と帰宅
四角く沈んでいた石畳が元に戻り、サラサの魔力が完全に安定したあとも、通りにはまだ緊張が残っていた。
石畳の中央では、サラサが静かに横たわっている。意識はない。ただ穏やかな呼吸だけが、規則正しく胸を上下させていた。暴走の痕跡は消え、濁りもない。ただ眠っているように見える。その姿を確認してから、俺は周囲へ意識を向けた。
少し離れた場所で、膝をついたまま動けずにいる男がいる。
「……あれ……?」
両手で目元を押さえ、何度も瞬きを繰り返している。
「見え……る?」
隣にいた女が、不安げに肩を支えている。
その女の表情も、さきほどまでの焦燥から戸惑いへと変わりつつあった。
「さっきまで……真っ暗で……」
男はゆっくりと周囲を見回した。酒場の灯り、石畳、店先の看板。ひとつひとつを確かめるように視線が動く。
「……戻った」
その一言が、静かに通りへ広がった。
別の場所でも、同じような声が上がる。
「見える……見えるぞ!」
「さっきは何だったんだ……?」
倒れ込んでいた者が立ち上がり、壁に手をついていた者が顔を上げる。恐怖に強張っていた空気が、少しずつ緩んでいく。
俺は遠隔で波長を確認する。
触れられた者たちの魔力から、濁りは消えている。侵食の痕跡もない。視界を奪っていた干渉が、完全に断たれている。
連鎖は終わった。
魔物化の根が断たれたことで、外へ広がっていた影響も同時に消滅したのだ。
「……もう大丈夫です」
俺は近くにいた男に声をかけた。
男はまだ半信半疑の表情をしているが、目はしっかりと俺を捉えている。
「本当に……?さっきは、急に何も見えなくなって……」
「一時的な魔力干渉です。もう影響はありません」
現象は完全に止まっている。
周囲のざわめきも、恐怖から困惑へ、そして安堵へと変わっていく。
酒場の店主が恐る恐る店先へ出てきて、通りを見回す。
「……怪我人はいないのか?」
「大丈夫だ、見える、見えるぞ」
誰かが笑い、誰かが胸を撫で下ろす。
ほんの数分前まで崩れかけていた夜の均衡が、ゆっくりと元の形へ戻っていく。
俺はもう一度、通り全体に意識を広げた。
濁った揺らぎはない。魔霧の気配もない。
視界を奪う現象は、完全に消えている。
「……終わりましたね」
リリィが静かに言う。
俺は小さく頷いた。
被害は拡大していない。連鎖も起きていない。
今夜、この通りで起きた異常は、ここで止まった。
夜の酒場通りは、再びただの賑わいへと戻り始めていた。
視界を失っていた者たちの混乱が収まり、通りが日常のざわめきを取り戻し始めたころ、俺は石畳の中央に横たわるサラサのそばへ戻った。
まだ意識は戻っていない。
だが呼吸は穏やかで、魔力の流れも安定している。暴走の痕跡も、外殻の残滓もない。念のためもう一度だけ深部を確かめるが、異質な核は完全に消えている。
「……運びましょう」
リリィが静かに言う。
「はい」
このまま通りに寝かせておくわけにはいかない。事情を知らない者が見れば、ただの倒れている少女だ。騒ぎは再び広がりかねない。
俺はサラサの上体をそっと抱き起こす。軽い。力は抜けているが、異様な冷たさはない。昼間の彼女と同じ体温だ。
「怪我はありませんか?」
「はい。落下の衝撃は受けていますが、問題ない範囲です。石畳は衝撃を逃がしています」
リリィは足元を確認しながら答える。四角く沈めた分だけを押し上げただけなので、周囲の地面も安定している。崩れも亀裂もない。
「何があったんだ?」
「さっきのは魔術か?」
通りの何人かが距離を保ったまま声をかけてくる。
「一時的な魔力の異常です。もう収束しています。ご心配なく」
リリィが落ち着いた声で応じる。その声音は学院の教師としてのそれだ。余計な説明はしない。必要以上に不安も煽らない。
俺はサラサを抱え直す。
「学院へ運びます。医務室で経過を見ます」
「そうしましょう。今夜は監視が必要です」
二人で通りを離れる。
酒場の灯りが背後に遠ざかる。さきほどまでの緊迫が嘘のように、笑い声が再び大きくなる。だがその喧騒も、今はただの背景だ。
石畳を踏む足音だけが静かに響く。
学院の門が見えたころ、夜気が少し冷たくなった。サラサの呼吸は変わらない。魔力も安定したままだ。
医務室の扉を開けると、夜勤の担当が驚いた顔で立ち上がる。
「どうしたのですか?」
「経過観察が必要です。今夜は意識が戻るまで監視をお願いします」
リリィが簡潔に告げる。
寝台へとそっと横たえ、毛布をかける。サラサは微かに眉を動かしたが、目は開かない。
俺は最後にもう一度だけ、手をかざして波長を読む。
問題はない。完全に、正常だ。
「……大丈夫です」
小さく呟く。
今夜の戦いは終わった。
だが、本当の意味で終わるのは……彼女が目を覚まし、何も覚えていないと確認したときだ。
俺は静かに息を吐いた。
医務室を出ると、廊下は静まり返っていた。
夜の学院は、昼とは別の顔を見せる。足音は吸い込まれるように響き、窓の外には月明かりが差し込んでいる。つい先ほどまで酒場通りで渦巻いていた緊迫が、遠い出来事のように感じられた。
「容体は安定していますね」
リリィが歩きながら言う。
「はい。最深部まで確認しました。異質な核も、残滓もありません」
言葉にして、ようやく実感が追いつく。
完全に消えた。ミスティムーアの魔物化魔力も、暴走も、連鎖も。
だが、それでも俺は胸の奥に残る緊張をすぐには解けなかった。
「……万が一、何か起きた場合は?」
「夜間は私が確認に行きます」
リリィの声は落ち着いている。
「ですが、可能性は低いでしょう。あれだけ明確に構造が崩れ、核が消えたのです。再構築はできません」
俺は頷いた。
あの感触は確かだった。術式の中心で解体され、形を失い、完全に消滅した。あれほど明確な消失は、誤認しようがない。
学院の中庭を抜けると、風が少し強く吹いた。
夜空は静かだ。星が滲まずに見える。
「……終わりましたね」
俺がそう言うと、リリィはわずかに微笑んだ。
「ええ。少なくとも、今夜の異常は」
それ以上は言わない。
俺たちは研究室へ戻る。
扉を閉めると、ようやく外の気配が遮断される。机の上には、昼間の資料がそのまま残っている。数時間前まで、作戦を練っていた場所だ。
俺は椅子に腰を下ろした。
全身から力が抜ける。
魔力は大きく削られてはいない。だが、緊張が長く続いていた分、精神の疲労が重い。
「今日は休みましょう」
リリィが静かに言う。
研究室の灯りを落とすと、室内は月光だけに包まれた。
棚に並ぶ薬瓶が淡く光を反射し、机の上の資料が白く浮かび上がる。数時間前まで緊迫した作戦を練っていた空間が、今はただ静かだ。
俺は椅子にもたれ、深く息を吐いた。
胸の奥に残っていた張り詰めた糸が、ようやく緩む。
魔力を巡らせる。乱れはない。削れた感覚もない。術式の反動も残っていない。
確かに、無理はしていない。だが、あの瞬間……ハーモニック・ジェネシスがミスティムーアの核を捉えた瞬間の圧は、今も記憶に残っている。
引き込まれそうになった感覚。
均衡が逆転した瞬間の静寂。
そして、崩れ落ちた魔物化の構造。
「あの段階で止められて良かったですね」
リリィが静かに言う。
「はい。あれ以上、力を蓄えられていたら……」
言葉は最後まで続けない。想像はできる。
接触範囲が広がり、魔霧が濃くなり、被害が通り全体へ及んでいた可能性もある。
夜にしか現れないという条件があったからこそ、対処できた。
俺は窓の外を見た。東の空が、わずかに薄くなっている。夜が、終わろうとしている。
「サラサは、覚えていないでしょう」
リリィが言う。
「はい。昼の彼女の魔力は、完全に通常波長でした」
眠っている間に起きていたこと。自分の身体が、別の意志に使われていたこと。
それをどう伝えるかは、明日考えなければならない。
だが今は、ただ静かだ。研究室の空気に、異質な圧はない。侵食の揺らぎもない。
ただ、夜明け前の落ち着いた静寂だけがある。
俺は立ち上がる。
「少し休みます」
「ええ。私もです」
それぞれの部屋へ向かう。
廊下に足音が小さく響く。扉を閉め、寝台に腰を下ろす。
目を閉じると、穴の底の光景が一瞬だけ浮かぶ。
だが、それはもう過去の残像だ。魔物化は消えた。暴走も消えた。連鎖も止まった。夜は終わる。




