学院2年サラサ編 第八十二章 ミスティムーアの退治① 決行の夜
第八十二章 ミスティムーアの退治
夜にしか現れない。それが、今分かっている唯一の確定情報だった。
昼間のサラサは正常だ。魔力は安定している。会話も自然で、意識も明瞭。触れただけで視界を奪うような異常は一切起きない。三人の前に立ったときも、彼女自身の魔力は澄んでおり、乱れは見られなかった。
だが、夜になると状況は変わる。
魔物の魔力が前面に押し出され、本来のサラサの魔力は奥へと押し込まれる。触れた者の視界を奪う現象が発生するのも、決まって夜中だ。
「昼は抑え込めている、ということですね」
リリィが静かに言う。
「はい。少なくとも、今のところは」
それは救いでもあり、同時に時間制限でもあった。
抑え込めているということは、完全に支配されているわけではないということだ。しかし逆に言えば、今後それが悪化すれば、昼間にも表に出る可能性があるということでもある。
「今が一番安全な時期です」
リリィの声は落ち着いている。
「現時点では、触れた相手の視界を奪う程度に留まっています。ですが、ミスティムーアは魔力に敏感です。時間を与えれば、より強く、より広範囲に干渉できるようになる可能性があります」
俺は頷いた。
放置すれば、被害は広がる。
今は接触した者だけだ。だが、範囲が広がればどうなるか。酒場通りは人が密集する。視界を同時に奪われれば、転倒、混乱、二次被害は避けられない。
「触れられた場合の最悪も想定しておきましょう」
俺が言うと、リリィは迷いなく続ける。
「ルーメンが触れられた場合、視界を奪われる可能性が高いです。その状態で精密な干渉は困難になります」
それは事実だ。
俺が倒れれば終わる。
遠隔で干渉するにしても、魔力の流れを正確に読み、繊細に合わせなければならない。数瞬の集中が必要だ。その間に接触されれば、調律は中断せざるを得ない。
「遠隔干渉は、時間がかかります」
俺は言う。
「瞬間的に消せる類のものではありません。魔力を合わせ、流れを読み、整える。数秒は必要です」
その数秒が、致命的になり得る。
だが、今はまだ力が強まりきっていない。
「これ以上、力をつけられる前に」
俺は静かに言った。
「今夜、終わらせます」
リリィはゆっくりと頷く。
「はい。今夜です」
夜にしか現れない。昼は抑え込めている。
今はまだ局所的。遠隔干渉は時間がかかる。触れられれば危険。
条件は揃っている。
待てば悪化する可能性が高い。ならば、今しかない。
窓の外はまだ明るい。だが、夜は必ず来る。
夜を迎えた。中央通りの酒場通りは、前夜と同じように賑わっていた。
深夜だというのに灯りは絶えず、石畳は橙色の光に照らされている。酒の匂いと焼いた肉の香りが混ざり、笑い声と怒号が絶え間なく交差していた。
酔客たちは肩を組み、店の前では呼び込みの声が響く。昼とは別の顔を持つ通りだが、昨夜見た光景と大きな違いはない。
俺とリリィは、前回と同じ脇道に立っている。
真正面ではない。人の流れから一歩引いた位置。通り全体が見渡せ、なおかつ接触の危険を避けられる場所だ。灯りの揺らぎ、影の動き、歩幅の乱れ……視界に入るすべてを拾える距離。
「……今のところ異常はありませんね」
リリィが小さく言う。
「はい」
俺も短く答える。
まだ動かない。まだ干渉しない。
今夜は決行の夜だ。だが、始まりは観察からだ。焦れば失敗する。相手が夜にしか現れない以上、こちらも夜の流れに合わせるしかない。
時間がゆっくりと過ぎていく。
酔客がふらつき、ぶつかり、笑う。だがそれはただの酔いだ。視界を失う者はいない。倒れ込む者もいない。昨夜のような異変は、まだ起きていない。
やがて、通りの奥……灯りが途切れかけた境界から、一つの影が現れた。
小柄な少女。白いワンピース。帽子。
サラサだった。
足取りは一定ではない。わずかに左右へ揺れ、視線は焦点が合っていない。人混みの中へ自然に紛れ込むように歩いてくる。
昼間の彼女とは、明らかに違う。
俺は息を止める。リリィも動かない。
「……来ましたね」
「はい」
それ以上は言葉を交わさない。
サラサは人の流れの中へと溶け込み、そのまま酒場通りの中央へ歩いていく。
俺は、その背中から目を離さなかった。
サラサが人の流れへ溶け込んだ瞬間、通りの空気がほんの少しだけ重くなった。
目に見える霧が出たわけじゃない。酒場通りの賑わいも変わらない。笑い声は続き、店の灯りは橙色に揺れている。
けれど、俺の感覚だけが、はっきりと「質が違う」と告げていた。人の魔力が自然に発する揺らぎとは別の、湿った冷たさが混ざっている。
遠い。距離がある。だから、深いところまでは読めない。
それでも……夜の彼女から滲む気配は、昼に会うサラサと同じとは言えなかった。
サラサは歩いている。ふらつきながら、一定のリズムを欠いた足取りで。帽子の影で表情が見えにくいのに、視線が定まっていないのだけは分かる。
焦点が合っていないというより、周囲を「見ていない」。人混みの中を歩いているのに、避ける気配が薄い。
そして、それが最初の兆しになった。
サラサの肩が、通りすがりの男の腕に触れた。ほんの擦れた程度だ。ぶつかったというほどでもない。男は一瞬、足を止めて振り返る。怒鳴り声も出ない。酔っているのだろう、気にせず歩き出す……はずだったのに。
男は、次の一歩が遅れた。
ほんの少し、顔をしかめる。
額を押さえるような仕草。
そして、目を瞬かせる回数が増える。
「……あれ?」
男は灯りを見上げる。
「なんだ、急に……ぼやけ……」
足が止まる。視線が泳ぐ。
「おい、大丈夫か?」
隣の仲間が肩を掴む。
「見え……にくい……いや、待て……」
男は両目をこすった。
「ちょ、ちょっと待て……見えない……!」
その声ははっきりと恐怖を帯びていた。
俺は、その変化に背中が冷えた。
昨夜もそうだった。最初から大騒ぎになったわけじゃない。軽い引っ掛かりが連鎖して、気づいたときには座り込む人が増えていた。今目の前で起きたのは、その“入口”に見える。
「……始まりましたね」
リリィが小さく言った。声の調子が変わっている。淡々としているのに、緊張が混ざっている。
「はい」
俺も返す。短く、余計な言葉は挟まない。
サラサはそのまま歩く。人の流れの中で、避けるでもなく、間を縫うでもなく、どこか“当たりに行く”ような角度で進んでいく。偶然に見える。
でも、偶然だけで片付けるには、動きが鈍すぎる。人混みの中で、あの歩き方は危ない。
二度目の接触が起きた。
今度は、背後から追い越そうとした女の肩が、サラサの袖に触れた。女はその場で立ち止まり、首を傾げる。目を細め、灯りの方を見上げる。
「……え?」
女は目を瞬かせる。
「ちょっと、待って……暗い……?」
同伴者の腕を強く掴む。
「ねえ、灯り消えてないよね? 私だけ……?」
声が震える。
「見えない……っ、何これ……!」
通りの空気が、少しずつ乱れていく。
まだ前回見た時と同じ状況だ。
まだ、俺たちが動かずに済む範囲だ。
けれど、ここまでで十分だった。
夜の彼女は、昼とは違う。
干渉していない。内部構造は読めない。だが、触れただけで視界が奪われるという“結果”は、はっきりと目の前に現れている。
俺は息を整えた。
手は出さない。近づかない。
だが、ここから先へ進む準備は整った。
リリィが、視線を外さずに言う。
「ルーメン、焦らないで。合図は私が出します」
「はい」
俺は頷き、サラサの動きを追い続けた。
次の瞬間に備えて、ただ静かに、その場で見極める。




