学院2年サラサ編 第八十二章 ミスティムーアの退治② 遠隔干渉開始
倒れ込む者が、目に見えて増え始めた。
「目が……っ、何も見えない!」
「誰か、どこだ……!」
通りのざわめきが一変する。先ほどまでの酔客の笑い声は悲鳴に変わり、石畳を踏み鳴らす足音は乱れ、手探りで地面を叩く音があちこちで響く。
それでも、まだ通り全体が崩壊したわけではない。混乱は局所にとどまっている。広がりきる前なら、間に合う。
俺は深く息を吸い、視線をサラサに固定した。
「……始めます」
はっきりと告げると、リリィが地面に手を置いたまま静かに応じる。
「はい。距離は維持してください。近づかないで」
俺は頷き、意識を一点に絞った。直接触れない。接触は最悪の事態を招く。だから遠隔。空間を伝わせ、細く鋭く、それでいて荒れないよう魔力を伸ばしていく。
「……干渉」
小さく呟いた瞬間、俺の魔力が夜の空気を裂き、サラサへと届いた。
触れた瞬間、ずしりと重い抵抗が返ってくる。昼間に触れたときの、あの穏やかで整った流れはどこにもない。押し返す圧が、最初から全面に立ちはだかっている。表面を覆っているのは荒れ狂う魔力。冷たく、湿り、粘りつくような侵食性を帯びた圧だ。
……ミスティムーア。
霧の中で感じたあの気配と同質の魔力が、外側を完全に支配している。
干渉したことで、初めて内部の構造がはっきりと見えた。前面に出ているのはサラサの魔力ではない。外殻のように広がるミスティムーアの魔力が、彼女の全身を覆い尽くしている。
その内側で、本来のサラサの魔力が押し込められていた。奥へ、さらに奥へと追いやられ、圧迫され、包まれ、封じられている。
二層構造……いや、三層に近い。外側にミスティムーアの魔力、その内側で圧迫される人の魔力、そして中心に、まだ完全には侵されきっていない核がある。
しかも、その全体が荒れている。
魔力は完全に魔力暴走状態に入っていた。ただ乱れているのではない。方向を持っている。外へ、触れた者へ、視覚を奪う現象へと、意図を持って拡散している。均衡は崩れ、抑制は効かず、外側の層が優勢となって内側を押し潰しながら膨張している。
干渉して、初めて確信した。これは偶発ではない。ミスティムーアが前面に立ち、内部から支配している。
その瞬間、外殻の魔力がざわりと波打った。揺れが生じる。反応している。
俺は魔力を維持したまま低く告げる。
「……反応しました」
リリィの声が静かに返る。
「構造は?」
「外側がミスティムーアです。本来の魔力は奥に押し込まれている。しかも、完全に魔力暴走状態です」
短く、だが明確に伝える。
昼とは逆だ。昼はサラサが表層で、奥に違和感が眠っていた。今は違う。夜はミスティムーアが前面に立ち、サラサは奥へ閉じ込められている。そして魔力は暴走し、拡散し、侵食を続けている。
内部構造は確認できた。俺は干渉を途切れさせることなく、次に備えて意識をさらに研ぎ澄ませた。
干渉を続けた瞬間、外殻を覆うミスティムーアの魔力が、明確に質を変えた。
ざわり、と波打つ。
拡散していた流れが、逆に一点へと収束し始める。
暴走は続いている。だが今度は外へ向かうだけではない。内部で渦を巻き、干渉の源を辿るように揺れが集中していく。
サラサの動きが止まった。
虚ろだった視線が、ゆっくりと持ち上がる。
焦点は定まっていない。だが、方向は正確だ。
俺のいる位置へ。
「……探知されています」
俺は魔力を維持したまま告げる。
リリィは地面に手を置いた姿勢を崩さず、静かに応じる。
「動きが変わりましたね」
ミスティムーアの魔力が、外側で脈打つ。
先ほどまで触れた相手へ広がっていた流れが、今は収束している。まるで耳を澄ますように、空間をなぞるように、干渉の糸を辿ってくる。
サラサの首が、わずかに傾いた。
次の瞬間……一歩。
石畳を踏みしめる音が、はっきりと響く。
その歩みは、先ほどまでのふらつきとは違う。迷いがない。一直線だ。
二歩、三歩。距離が縮まる。
「速い……」
俺の言葉と同時に、サラサの足取りが一気に変わった。
加速。ふらつきは消え、地を蹴る力が増す。
人の動きではない。暴走した魔力が、身体能力を押し上げている。
通りの客が悲鳴を上げる。だが、サラサは誰も見ていない。視線は、まっすぐこちらへ固定されている。
俺の干渉を、正確に捉えている。
「ルーメン、維持を」
「はい」
魔力を切れば、内部構造の把握が途切れる。だが維持すれば、位置は完全に特定される。
距離が、急速に詰まる。
十歩。五歩。三歩。
風が巻き上がる。
サラサの瞳が、わずかに焦点を結んだ。
その瞬間、ミスティムーアの魔力が、外殻で爆ぜるように膨張する。
接触すれば、終わる。俺はその場から動かない。
ただ、次の合図を待つ。
距離は、もう数歩もなかった。
ミスティムーアの魔力が前面に膨れ上がったまま、サラサの身体が一直線にこちらへ向かってくる。石畳を蹴る足音が、不自然に速い。人の動きではない。加減がない。躊躇もない。
触れられれば終わる。
視界を奪われるだけでは済まない可能性もある。
俺は干渉を維持したまま、声を絞り出した。
「……今です」
一瞬。次の瞬間、サラサの足元の石畳が、四角く深く沈んだ。
割れない。砕けない。ただ、そこだけが滑らかに真下へ落ちる。まるで舞台装置のように、正確に。
踏み込んだ勢いのまま、サラサの身体が支えを失う。
虚ろな瞳がわずかに見開かれ、腕が空を掴む。しかし暴走した魔力は止まらない。沈み込む空間ごと、彼女は下へと引き込まれた。
鈍い衝撃音。土煙が小さく舞い、すぐに収まる。
周囲の石畳はそのままだ。酒場の机も椅子も倒れない。酔客たちは何が起きたのか理解できず、数歩退いただけで立ち尽くしている。
穴は、人一人を閉じ込めるには十分な深さだった。
「……捕縛成功です」
リリィの声は静かだが、張り詰めている。
だが終わりではない。
穴の底から、冷たい圧が立ち上がる。
閉じ込められたことで、ミスティムーアの魔力が内側で激しく渦を巻いている。逃げ場を失った暴走が、下で膨張しているのが分かる。
俺は縁に立ち、干渉を切らずに意識を下へ向けた。
サラサの身体は、四角い穴の底に倒れ込んでいる。しかしその周囲を包む魔力は、明らかに人のものではない。粘りつくような霧の気配が、空気を震わせている。
「まだ出ようとしています」
リリィが言う。
実際、穴の内壁に沿って、薄い霧のような揺らぎが立ち上り始めていた。視覚で見えるほど濃くはないが、魔力としては明確だ。
暴走は止まっていない。
むしろ、拘束されたことで圧縮され、密度が上がっている。
下で、サラサの身体がゆっくりと動く。
起き上がるわけではない。だが、四肢に力が入り、ぎこちなく石畳を掴もうとする。
「……っ」
喉の奥から、声とも息ともつかない音が漏れる。
その音は、サラサのものではない。
ミスティムーアの魔力が、穴の底で膨れ上がる。外へ向かう性質が、閉じ込められたことで内圧となっている。
今、決めなければならない。
ここで止める。
俺は干渉をさらに深く滑り込ませた。
外側のミスティムーアの層に触れ、奥へ押し込められた本来の魔力の位置を再確認する。暴走は激しいが、構造は崩れていない。
まだ、届く。俺は言葉を発さず、ただ魔力の集中を強めた。
リリィもそれ以上は何も言わない。
通りの喧騒が遠のく。
視界は、四角い穴の底だけになる。
ミスティムーアの魔力が、最後の抵抗を始めている。
俺は魔力を練り直し、次の術式へと意識を切り替えた。ここからが、本当の正念場だ。




