学院2年サラサ編 第八十一章 サラサの挙動⑤ サラサの深部
三人の怯えがようやく静まり、医務室に重たい沈黙が落ちたあと、サラサは小さく一歩引いた。これ以上近づけば、また三人を刺激してしまうと感じ取ったのだろう。申し訳なさそうに視線を伏せる。
「……ごめんなさい。今日は、少し離れたところから様子を見ます」
その声は落ち着いている。少なくとも昼の彼女に異常はない。
俺は頷き、三人の呼吸が整うのを待った。窓から差し込む光は柔らかく、外の廊下からは生徒たちの話し声が聞こえてくる。夜の騒ぎとは無縁の、いつもの学院の昼だ。
しばらくして、サラサがこちらへ向き直る。
「ルーメンさん、少しだけお時間をいただけますか?」
「はい。どうしました?」
俺は静かに受け入れた。
サラサは迷うように指を絡め、それから口を開いた。
「最近、少し……変なのです」
「変、とは?」
「朝起きると、靴の向きが揃っていなかったり、机の上の物の位置が違っていたりすることがありまして」
俺は黙って聞く。
「最初は、自分が無意識に触ったのだと思いました。でも、それが何度も続くのです」
彼女の指先がわずかに震えている。
「一番おかしいと思ったのは……部屋着で寝たはずなのに、朝起きたら外出用の服を着ていたことです」
「外出用の服……」
「はい。帽子まで被ったままでした。自分で着替えた記憶はありません」
戸惑いと、不安が滲んでいる。
「夢遊病のようなものなのでしょうか……」
彼女は自分を納得させるように言う。
「三人のことばかり考えてしまって、夜も落ち着きませんし……」
俺はゆっくりと言葉を選ぶ。
「強い緊張や疲労で、無意識に動くことはあります。心が追い詰められていると、自覚のない行動が出ることもあるそうです」
「……そう、ですか」
「まずは、しっかり休むことが大切です。三人のことは、俺もいます。全部を一人で背負わなくていい」
サラサは小さく息を吐き、わずかに微笑んだ。
「ありがとうございます。少し、気をつけてみます」
その表情に、夜の虚ろさはない。魔力も穏やかで、揺らぎも感じられない。
だが、彼女の語った違和感は消えないまま、静かに胸に残った。
医務室の空気が落ち着いたのを確認してから、俺はサラサに向き直った。
「サラサさん、少しだけいいですか?」
「はい」
彼女は素直に頷いた。昼の彼女は落ち着いている。視線もはっきりしているし、声も安定している。先ほど三人が怯えたことについても、自分では理由が分からないという様子だった。
「最近、眠りが浅いと言っていましたよね」
「はい……三人のことが気になってしまって」
責任を背負い込む言い方だ。自分が守る立場だったという意識が、まだ強く残っている。
「それなら、心が疲れている可能性があります。無意識に動いてしまうことも、強い緊張状態では起こります。少し確認してみましょう、手をかしてください」
断定はしない。あくまで可能性として伝える。
サラサは少し考え、そして静かに右手を差し出した。
「もし、少しでも楽になるなら……お願いできますか?」
「はい。試しに軽く施します」
俺は左手を伸ばし、彼女の手に触れた。
温かい。震えはない。
魔力に意識を集中する。
流れは穏やかだ。乱れは見当たらない。暴走の兆候もない。昼間の彼女の魔力は、正常と言っていい。
拍動も安定している。干渉された痕跡も、表層では確認できない。
「……どうですか?」
不安そうな声。
「今のところ、大きな乱れはありません。少し疲れはありますが、危険な状態ではないです。」
表面上は、何もおかしくない。
サラサは小さく息を吐いた。
「よかった……」
その顔は、昼の彼女そのものだった。
俺はまだ、深くは探らない。
今は確認だけだ。
異常があるとすれば、それはもっと奥かもしれない……だが、そこまで踏み込む段階ではない。
手を離しかけた瞬間、わずかな引っ掛かりを感じた。
流れは正常だ。拍動も安定している。表層に乱れはない。だが、ほんのわずかに、奥へ沈む感覚があった。
俺は視線を落とし、再びサラサの手に意識を重ねる。
「少しだけ、もう少し確認します」
「はい」
彼女は素直に応じた。警戒はない。自分の魔力に異常があるとは思っていない様子だ。
俺は魔力を深く沈める。
表面の層は穏やかだ。流れも均一で、歪みもない。昼の彼女の魔力は、本当に整っている。
だが……さらに奥。意識を沈めた先で、何かに触れた。
重い。厚みがある。それは流れの一部ではない。動いていない。脈動もしていない。ただ、そこに“在る”。
まるで、眠っているような感触だった。
魔力の深層。中心近く。そこに、異質な塊がある。
透明ではない。濁ってもいない。だが、周囲とは明らかに性質が違う。滑らかではなく、厚い膜のようなもので覆われている。
核。そう呼ぶのが一番近い。
それは小さい。今は目覚めていない。だが、存在感だけははっきりしている。
俺はさらに触れようとする。
膜に触れた瞬間、弾かれるような感触が走った。
拒絶ではない。ただ、届かない。
外側からの干渉を、自然に遮っている。
「……ルーメンさん?」
サラサの声が、少しだけ不安を帯びる。
俺は意識を戻した。
手の温もりが現実に戻る。
彼女の魔力は、表面上は正常だ。乱れはない。暴走もない。
だが、奥に……眠る何かがある。
「大丈夫です。少し疲れが溜まっているだけです」
断定はしない。今はまだ。
サラサは安堵したように息を吐いた。
自分の中に、あの“核”があることを、サラサは知らない。
知らないまま、昼のサラサは穏やかに立っている。
俺は静かに手を離した。
あれが何なのか。まだ、名前は出せない。だが、確実に普通ではない。
俺は一度、静かに息を整えた。見つけただけでは意味がない。あの深部に眠る異質な核が何であれ、触れられるかどうかを確かめなければならない。サラサの手を包み込んだまま、穏やかに告げる。
「少し、心の疲れを整える魔術をかけます」
「はい、お願いします」
迷いのない返事だった。俺は意識を集中させ、彼女の魔力の流れに重ねる。表層は澄んでいる。乱れはない。呼吸も安定している。昼の彼女は、やはり正常だ。
だが、その奥にある。
眠る核へ意識を向け、はっきりと口にする。
「……ハーモニック・リコンストラクション」
調律の魔力を流し込む。強すぎず、だが確実に。表層の流れを整えながら、ゆっくりと深部へ導いていく。彼女の魔力は素直に応じ、滑らかに整っていく。揺らぎが消え、さらに均一になる。
そのまま、さらに奥へと踏み込む。
だが、深部に触れた瞬間、厚い膜のような感触に当たった。
拒絶ではない。衝撃もない。ただ、通らない。
魔力を包み込むように広げ、角度を変え、回り込むように核へ近づける。それでも結果は同じだった。膜は揺らがず、内側にある核は眠ったまま動かない。
表層は整っている。呼吸も穏やかだ。苦痛の反応もない。
だが、あの奥だけが変わらない。
「……終わりましたか?」
サラサが静かに尋ねる。
俺はゆっくりと手を離した。
「はい。少しは楽になると思います」
表層の魔力は整えた。それは事実だ。しかし、本質には触れていない。あの核には届かなかった。
膜は想像以上に厚い。今の調律では突破できない。外からの干渉を受け付けない構造になっている。
サラサは小さく微笑んだ。昼の彼女は、変わらない。だが、その奥にあるものもまた、何一つ変わってはいなかった。




