学院2年サラサ編 第八十一章 サラサの挙動③ 応急調律と昼のサラサ
サラサが通り過ぎ、姿が消えたのを確認した。
しゃがみ込んだ男は、両手で顔を押さえたまま震えていた。
「見えない……灯りが……どこだ……」
その周囲でも、同じように目を押さえる者が増えていく。叫び声は混乱へ変わり、酒場通りの賑わいが一瞬で崩れた。
俺は視界が奪われた人達の元に行き、深く息を吸う。
触れただけで視界を奪う。
魔力の揺らぎは軽い暴走状態に近い。
なら、整えれば戻る。
「……ハーモニック・リコンストラクション」
低く唱え、倒れた男の魔力へと干渉する。直接触れない。空間越しに、魔力の流れを捉える。
乱れているのは視覚と結びついた回路部分。
外から擦り付けられたような薄い魔力の膜が、感覚の流れを遮っている。
俺は流れを整え、異物を剥がすように調律する。
男の身体が小さく震え……
「……あ?」
ゆっくりと顔を上げた。
「見える……?」
焦点が戻る。街灯の光を追い、瞬きを繰り返す。
「見える……!見えるぞ!」
その声を皮切りに、周囲の者にも順に調律を施していく。
「ハーモニック・リコンストラクション」
一人、また一人。
乱れを整え、膜を剥がし、魔力を安定させる。
完全な暴走ではない。整えれば戻る。
だが、放置すれば悪化する可能性はある。
「大丈夫ですか?」
リリィが後方から冷静に声をかけながら、視界を失った者の周囲に残る微かな光の粒を見つけていた。
「……これは」
彼女は指先でそれを掬い取る。
空気中に漂う、淡く揺れる魔力の欠片。
小瓶を取り出し、慎重に封じる。
「確保しました。解析できます」
俺は最後の一人を調律し終え、深く息を吐いた。
倒れていた者たちは混乱しながらも立ち上がり、互いに目を確かめ合っている。視界は戻っている。
サラサは、何事もなかったかのように、虚ろな目のまま、酒場通りの奥へと歩いていった。
俺は決して追わなかった。
胸の奥で、助けたいという衝動が渦を巻く。けれど、今夜見たのは「追えば解決する異変」ではない。触れただけで視界を奪う現象。無策で近づけば、被害が増えるだけだ。
「……追いません」
低く呟くと、隣のリリィが静かに頷いた。
「それが正解です。今は観察の段階です。無理に接触すれば、こちらも条件に巻き込まれます」
酒場通りの喧騒は少しずつ元に戻りつつあるが、さきほどの混乱の名残は空気に残っている。
やがて、リリィが小さく言った。
「ルーメン、昼間も十分に注意してください」
「昼間も、ですか?」
「はい。今夜だけとは限りません。もし昼も同じ状態になる可能性があるなら、学院での接触は危険です。距離を保つべきです」
その言葉は冷静だったが、重かった。
「……わかりました。昼に会うときも、安易に触れないようにします」
確証はない。だが、今夜の光景を見てしまった以上、警戒は必要だ。少なくとも、何も知らないまま近づくことはできない。
夜風が通りを抜ける。酒場の灯りが揺れ、騒ぎは次第に薄れていく。
「今日はここまでにしましょう」
リリィの声に、俺は頷いた。
それ以上サラサを追うことはせず、俺たちはその場を離れた。背後に残るざわめきと、不穏な気配を置いたまま、一旦帰ることを選んだ。
翌日、俺はいつも通り学院へ向かった。表面上は変わらない日常だ。講義の声、廊下を歩く足音、生徒たちのざわめき。
だが俺の意識は常に医務室へ向いている。夜の出来事が頭から離れないまま、それでも足は迷わず医務室へ向かった。
扉を開けると、すぐに異変が分かる。三人の魔力が、昨日整えたはずの状態から再び暴走している。
ラティス、ノエル、ディラド。三人とも囲いの内側で荒い呼吸を繰り返していた。視線は焦点を結ばず、魔力は荒れ、外側へ滲み出している。
「……またか」
思わず呟く。昨日も整えた。おとといも整えた。それでも朝になると、再び魔物のような挙動へ戻っている。
ラティスが低く唸り、囲いを叩く。ノエルは何かから逃げるように後退し、ディラドは耳を塞ぎながら怯えた声を漏らしている。会話は成立しない。意識は明らかに正常ではない。
俺は囲いの前に立ち、深く息を吸った。迷いはない。やることは一つだ。
「……ハーモニック・リコンストラクション」
言葉と同時に魔力を流し込む。三人それぞれの魔力の流れに合わせ、荒れた部分へ干渉し、歪みを整えていく。暴れていた魔力が徐々に鎮まり、外へ溢れていた揺らぎが内側へ収束する。
ラティスの拳が止まる。ノエルの呼吸が落ち着き、ディラドの震えがゆっくりと収まる。
やがて三人は同時に力を失い、その場に崩れ落ちた。魔力は正常域へ戻っている。少なくとも、今は。
だが分かっている。これは根治ではない。朝になれば、また同じことが起きる可能性が高い。
俺は三人の魔力を最後まで確認し、囲いの外へ一歩下がった。
今日も整えた。だが、終わってはいない。
三人の魔力を整え終え、乱れていた流れが静かに収束していくのを確認したところで、医務室の扉が控えめに叩かれた。乾いた音が、白い壁に小さく反響する。
「失礼します」
落ち着いた、聞き慣れた声だった。
俺が返事をするより先に、扉がゆっくりと開く。昼の光を背にして立っていたのは、サラサだった。
淡い色合いのワンピース。学院の制服ではないが、きちんと整えられた装い。髪は丁寧にまとめられ、表情は穏やかで、どこにも乱れは見当たらない。
昨夜、酒場通りの灯りの下で見た姿とは、あまりにも違っていた。
「ルーメンさん、こんにちは」
柔らかな笑みを浮かべながら、彼女は一歩中へ入る。医務室の空気がわずかに動く。
「命を救って頂き、本当にありがとうございました」
深く、静かに頭を下げる。その礼は形式ではない。何度も繰り返してきた言葉であっても、気持ちが抜け落ちてはいない。むしろ、言うたびに重みが増しているように見える。
「お礼はもう何度もしてもらってるから、大丈夫だよ」
そう返すと、サラサは困ったように微笑んだ。
「それでも、言わせてください。あの時、私がもっと冷静でいられたら……」
言葉はそこで止まる。続きを飲み込み、代わりに視線を三人へ向けた。
その横顔には、責任を抱え込んでいる人間特有の硬さがある。だが、魔力は乱れていない。表層の流れは穏やかで、学院で見る彼女と何も変わらない。
三人は今、調律の直後で静かに横たわっている。呼吸は安定し、先ほどまでの荒れた気配は消えている。
サラサはゆっくりと歩み寄った。
「ルーメンさんが、また治してくださったんですね。本当にありがとうございます」
その声には、純粋な感謝が含まれている。作った響きではない。自分ができなかったことを、誰かがやってくれたという事実への感謝。
俺は無意識に、サラサの魔力を探る。干渉はしない。ただ流れを見る。
表面は正常。安定している。波打ちも、濁りも、外部からの侵食の気配も、今この瞬間には感じられない。
昼のサラサは、完全に“昼のサラサ”だった。
医務室の窓から入る光が、サラサの肩を淡く照らしている。その姿は、昨夜の虚ろな目で歩くサラサとは結びつかない。帽子もない。ふらつきもない。視線はしっかりと定まり、俺や三人の顔を順番に見ている。
「……皆さん、少しは落ち着きましたか?」
柔らかな問いかけ。サラサはベッドの傍に立ち、そっと手を握ろうとするような仕草を見せる。だが、触れる前に一瞬だけ躊躇う。その躊躇いは、責任感からくる遠慮だ。
昨夜のことを思い出す。
酒場通り。虚ろな目。触れただけで視界を奪う現象。
だが、今ここにいる彼女からは、その片鱗すら感じ取れない。
「毎日来てくれてるんだよね」
俺がそう言うと、サラサは小さく頷いた。
「はい。私にできることは、それくらいしかありませんから」
視線は三人に向けられたままだ。その目は真剣で、責任と後悔が混じっている。
「学院の先生方にも、治るかどうか分からないと言われました。でも、私は……諦めたくありません」
言葉の端がわずかに震える。けれど、崩れはしない。自分を律している。
魔力は安定している。少なくとも、表層は。
俺はサラサの立ち姿を観察する。背筋は伸び、呼吸は整い、目はしっかりと焦点を結んでいる。どこにも、夜の影は見えない。
あまりにも自然で、あまりにも普通だ。
だからこそ、昨夜見た光景との落差が胸に引っかかる。
もし何も知らなければ、俺は疑いもしなかっただろう。ただの責任感の強い少女。毎日欠かさず見舞いに来るリーダー。
だが、俺は見ている。それでも今は、何も言わない。
昼のサラサに、夜の姿を重ねるのは早すぎる。
医務室には、穏やかな空気が流れている。窓の外では学院の生徒たちの声がかすかに聞こえる。平常の時間。日常の音。
サラサはその日常の中に、違和感なく溶け込んでいた。
……昼のサラサは、何もおかしくない。
その事実だけが、逆に不安を深めていくのだった。




