学院2年サラサ編 第八十一章 サラサの挙動② 夜のサラサ
背丈は高くない。細身で、白に近い淡い色のワンピース。夜風に裾がわずかに揺れている。つばのある帽子を目深に被り、顔ははっきり見えない。
「……?」
足が止まる。
どこかで見たことがある。そう思った瞬間、胸の奥がざわついた。夜の酒場通りにいるはずのない雰囲気。場違いなほど静かな歩き方。
「リリィ」
小声で呼ぶ。
「どうしましたか?」
「今、あそこを歩いている子……」
少女は灯りの下を通った。その一瞬、横顔がわずかに見えた。
整った輪郭。見覚えのある髪の色。あの討伐訓練の日、霧の中で必死に指示を飛ばしていた少女の姿が、頭の中で重なる。
「……サラサ、さん?」
自分でも半信半疑のまま、名前が口をついて出た。
もう一度よく見る。ワンピース、帽子、歩幅、背格好。昼間、医務室で見かける彼女と同じだ。
「間違いないと思います」
俺は小さく言った。
「魔物討伐訓練のリーダーをしていた、サラサ・ダランティスです。こんな時間に、どうして……?」
夜中の酒場通りに、学院生がひとりでいる理由はない。
違和感が、はっきりと形を持ち始めた。
リリィは少女……サラサの背中を、静かに見つめていた。
その視線が、ふっと鋭くなる。
「ルーメン」
声は低い。普段よりも一段階落ちている。
「……あの子ですね」
「はい」
「魔力が、おかしいです」
その一言で、空気が変わった。
俺は意識を集中させる。遠くからでも、魔力の流れそのものは感じ取れる。人の魔力か、それとも悪意を帯びた魔物の魔力か……それくらいなら判別できる。
サラサの周囲に漂う気配は、明らかに人のものではなかった。
「……魔物の魔力を帯びています」
リリィがはっきりと言う。
俺も同じ感覚を捉えていた。完全な魔物の魔力ではない。だが、明確に“混じっている”。人の流れの上に、異質な層が重なっているような、不自然な感触。
昼間に会うサラサからは感じなかった質だ。
「近づいてはだめです」
リリィの声は迷いがない。
「今の彼女は、とても危険です」
サラサは、ふらつくでもなく、騒ぐでもなく、ただ静かに歩いている。けれど、その周囲の魔力は、じわじわと強度を増しているように感じた。
「触れたら何が起きるか分かりません」
リリィは一歩下がり、俺の袖を軽く引いた。
「遠くから様子を見ましょう」
俺は頷く。
追うのではなく、観察する。今夜は捕縛ではない。確認だ。
サラサは酒場通りの灯りの中を、ゆっくりと進んでいく。その背中は、どこか現実感が薄い。まるで夢遊病者のように、周囲の喧騒から切り離されている。
人の笑い声。酒場の扉が開閉する音。酔客の足音。
その中で、彼女だけが、別の世界を歩いているようだった。
俺とリリィは、脇道の影に身を潜めたまま、距離を保って見続ける。
まだ何も起きていない。
だが、起きる予感だけが、確かにそこにあった。
サラサは、まっすぐに歩いているようで、どこか足取りが不安定だった。
賑わう酒場通りの灯りが、彼女の横顔を断続的に照らす。その表情は……焦点が合っていない。昼間に見せる、気丈で真面目な学院生の顔ではない。
「……目が、虚ろです」
リリィが小さく呟く。
俺も同じことを感じていた。視線が定まっていない。周囲を見ているようで、何も映していない。まるで、自分の意思で歩いていないかのようだった。
人波を避ける動きも、ほんのわずかに遅れている。
肩がぶつかりそうになり、ぎこちなく体を引く。その動作も、反射というより遅延した反応に近い。
「……眠っているようにも見えます」
「はい……ですが、魔力は起きています」
むしろ、じわりと濃度を増している。
彼女の周囲の空気が、ほんの少しだけ重く感じる。人の魔力の上に重なる、異質な層。その輪郭が、はっきりし始めている。
サラサは、酒場の灯りの下を通り過ぎる。
笑い声が響く。酔客が大声で何かを叫ぶ。
その喧騒の中で、彼女だけが静かだった。
「……あっ」
小さく、リリィが息を呑む。
サラサの足元が、わずかに乱れた。
石畳に引っかかるように、つま先が沈む。体が傾く。立て直す動きが一拍遅れる。
そのまま……前方を歩いていた男の肩に、軽くぶつかった。
ぶつかった男は、最初は不機嫌そうに振り返っただけだった。
「おい、前を見て……」
そこまで言いかけて、言葉が止まる。
男の目が、空を掴むように泳いだ。
瞬きが増える。焦点が合わない。手が宙を探る。
「……あれ?」
声色が変わる。
「なんだ……?」
一歩、よろめく。
そして、はっきりと言った。
「目が……見えない」
その言葉が、夜の空気を切り裂いた。
周囲の笑い声が、ひと瞬き止まる。
「おい、酔いすぎだろ」
近くにいた仲間らしき男が肩を掴む。
だが、掴まれた側は必死に目を擦りながら首を振る。
「違う……本当に……霧が……」
霧。その単語に、俺の心臓が強く脈打った。
男は足元を探るように後ずさりし、そのまま石畳に膝をつく。
「灯りを……灯りをくれ……何も見えない……」
周囲がざわつく。
「大丈夫か?」
「座れ、ほら」
「水を持ってこい」
騒ぎに気づいた別の客が近寄って行く。しゃがみ込もうとした時、サラサの手がその客の腕に触れた。その客はしゃがみ込み男の顔を覗き込む。
その瞬間。しゃがみ込んだ男も、ぴたりと動きを止めた。
「……あ?」
手を顔の前にかざす。
「……なんだ、これ……」
ゆっくりと、同じように目を見開く。
「見えない……」
二人目が、座り込む。
サラサに触れた者、接触してしまった人達が次々に、視界を失ったように目を泳がせ始める。
「どうなってる!」
「誰か治療を!」
「教会に連れて行け!」
酒場通りの賑わいが、一瞬で混乱へと変わった。
叫び声、椅子の倒れる音、食器の割れる音。
灯りはあるのに、見えないと訴える声だけが増えていく。
その中心を、サラサは通り過ぎていく。
立ち止まらない。振り返らない。虚ろなまま、ゆっくりと。
まるで、何も起きていないかのように。
俺は喉の奥が乾くのを感じた。
これは偶然ではない。
だが……まだ断定はできない。
隣で、リリィの呼吸がわずかに浅くなる。
夜の酒場通りは、笑い声から悲鳴へと変わっていた。
俺は人の動きを追った。
倒れた者に共通しているのは、酒を飲んでいたかどうかではない。悲鳴を上げたかどうかでもない。魔術を使ったかどうかでもない。
サラサに触れた、それだけだった。
サラサにぶつかった男。
男を支えてサラサに触れた仲間。
仲間の肩を叩いて声をかけようとして、サラサに触れてしまった別の客。
ほんの一瞬、腕が触れただけの通行人。
接触は軽い。布越しだ。擦れた程度だ。
「……触れた、だけで……」
思わず声が漏れた瞬間、リリィが俺の袖を掴んだ。
指先に力が入っている。
「見えていますよね。接触で広がっています」
「はい」
リリィは、サラサの背中……いや、サラサの周囲の空気を見ているようだった。
俺も同じ場所に意識を向ける。
魔力の気配が、さっきより濃い。
ただ帯びているのではなく、波のように揺れている。
人の魔力を撫でるように、そして引っ掛けるように。
強くなっている。
サラサが歩き、誰かと触れ、騒ぎが増えるほど、周囲の揺らぎが増幅していく。
「ルーメン、近づかないでください」
リリィの声は低いが、迷いがなかった。
「今の彼女は触れた相手の感覚に干渉しています。しかも、範囲が広がりかけています」
俺は拳を握る。
助けたい。止めたい。だが、今ここで近づけば、俺も条件に入る。
救う側が倒れたら、それで終わりだ。
「……分かりました。まずは、サラサが通り過ぎるのを待つ」
「それが正解です」
サラサは虚ろなまま歩いていく。
その背中から伸びる異質な気配だけが、街の灯りの下で薄く脈打っていた。




