学院2年サラサ編 第八十一章 サラサの挙動① 夜の中央通り
第八十一章 サラサの挙動
早速、今夜の深夜に、リリィと中央通りの酒場通りへ調査に行くことになった。
「食事を準備しました。出発は夜中になりますから、少し仮眠を取っておきましょう」
研究室の机に向かっていたリリィが、顔だけこちらに向けてそう言った。声はいつも通り落ち着いているが、その奥にはわずかな緊張がある。百人近い人の視界を奪った現象。神位の癒し魔術が効かないという事実。街の中で何かが起きている。
「はい。お願いします」
俺は静かに答えた。調律で視界は戻せた。だが原因は消えていない。魔力に触れたとき感じた“残り”の感触が、まだ指先に残っている気がする。
リリィは手際よく食事を整えた。重くない量。夜中に動くための腹ごしらえだ。温かい湯気が立ちのぼり、張りつめていた気持ちが少しだけ緩む。
「冷えますから、出る前に温かいものも飲んでおきましょう。夜の中央通りは風が通ります」
「わかりました」
短い食事を終え、湯飲みを置く。窓の外はまだ闇ではないが、光は確実に傾いている。夜が近づいている。
「無理はしないでくださいね。今日は捕まえる日ではなく、確かめる日です」
「はい。無茶はしません」
互いに視線を交わす。言葉は少ないが、今夜の意味は共有している。
「では、少し休みましょう」
リリィはそう言って研究室を出て、自室へと向かった。扉が静かに閉まる音がする。
俺も研究室を離れ、自分の部屋へ戻る。廊下は静かで、昼間の学院とは別世界のようだ。
部屋に入り、外套を脱ぐ。寝台のシーツは朝取り替えたばかりで、布の匂いがまだ残っている。灯りを落とすと、部屋は薄い影に包まれた。
横になる。まぶたの裏に、大聖堂の光景が浮かぶ。視界を失った人々の声。大神官の重い言葉。魔力に触れたときの、あの異物の感触。
「……夜に見に行くしかない」
小さく呟く。
今夜は“見る”夜だ。捕まえるのではない。戦うのでもない。ただ確かめる。
呼吸を整える。深く眠れなくてもいい。魔力を澄ませるだけでいい。
夜は、すぐそこまで来ている。
目を覚ましたのは、リリィに静かに呼ばれたからだった。
「ルーメン、起きてください。準備ができたら行きますよ」
声は落ち着いているが、芯がある。俺はすぐに身体を起こした。短い仮眠だったが、頭の奥の霞は取れている。魔力の輪郭も、はっきりしている。
身支度を整え、外套を羽織る。扉を出ると、夜の空気が肌を刺した。
昼間よりも冷え込みが強い。中央通りへ向かう道は、灯りこそあるものの、静けさが支配している。
昼の中央通りは何度も歩いたことがある。商人の呼び声、行き交う人々、荷車の軋む音。だが、夜は違った。
人通りは明らかに少ない。それでも完全に静まり返ることはなく、どこかで笑い声が弾け、どこかで酒瓶のぶつかる音がする。
中央通りに入ると、昼とは別の顔が広がっていた。灯りは暖色に変わり、影が長く伸びている。昼の活気とは違う、緩んだ熱気。酒の匂いが風に混じって流れてくる。
「……昼とは、まるで別の街ですね」
俺が小声で言うと、リリィは静かに頷いた。
「人の警戒心が緩む時間帯です。魔力も、意識も、揺らぎやすい」
その言葉に、自然と背筋が伸びる。
酒場通りへ足を踏み入れると、さらに空気が変わった。人は昼より少ないが、それでも夜中という時間を考えれば多い。扉の開閉とともに、笑い声が外へ漏れる。酔った足取りの男が肩を組み、店員が客を見送る声が響く。
未知の世界だ。俺は昼の中央通りしか知らない。夜の酒場通りは、別の街のように感じられた。
リリィは小さく周囲を見回しながら言う。
「正面に立つのは危険です。通りがよく見える決めていた脇道を探しましょう」
俺は頷き、建物の影へと移動した。灯りの当たり方、視線の通り方、人の流れ。観察に適した位置を慎重に選ぶ。
夜は始まったばかりだった。
ここから先に、何かが起きるのか。
それとも、何も起きないのか。
中央通りから一本入った脇道は、灯りが届ききらず、半分ほど影に沈んでいた。正面に見える酒場通りの喧騒とは対照的に、こちらは静かだ。壁に背を預ければ、通り全体を見渡せる。人の流れも、店の出入りも、ほぼ死角なく観察できる位置だった。
「ここなら、十分ですね」
リリィが小さく言う。
「はい。正面からは見えにくいですし」
互いに声量を抑える。夜は音が通る。
リリィは持ってきた水筒の蓋を開け、湯気の立つ飲み物を差し出してきた。
「冷えますから。魔力を使う可能性もありますし、身体を冷やさないでください」
「ありがとうございます」
両手で受け取ると、指先がじんわりと温まる。夜気は想像以上に鋭く、じっとしているだけで体温を奪っていく。酒場通りの熱気がここまで届かないぶん、余計に冷える。
一口飲む。喉を通る温かさが、胸の奥まで落ちていった。
通りを行き交う人々を、ひとりずつ目で追う。
笑いながら肩を組む若者。
ふらつく酔客。
店の前で客引きをする男。
魔力にも意識を伸ばす。だが、感じるのは酒に酔った不安定な揺れ程度で、外から干渉されたような歪みはない。
「リリィ、あの人はどうですか?」
通りの中央で立ち止まり、しきりに目をこすっている男を示す。
リリィは視線を細め、魔力を探る。
「問題ありません。酔っているだけです。魔力の乱れは自然な範囲です」
「そうですか」
やがて男は仲間に背中を叩かれ、笑いながら店に入っていった。
今度はリリィが小声で言う。
「ルーメン、あちらの女性はどうでしょう」
視線の先、店の灯りから少し外れた位置に立つ女性がいる。足取りは安定しているが、どこか落ち着かない。
俺は集中して魔力を感じ取る。
「……安定しています。外的な干渉はありません」
「そうですか」
観察は続く。時間だけが過ぎていく。
人は入れ替わるが、異変は起きない。
視界を押さえる者も、突然座り込む者もいない。
魔力に触れても、あの大聖堂で感じたような“残滓”は見当たらない。
「何も起きませんね」
リリィが小さく呟く。
「はい」
むしろ、平穏すぎる。
百人近くが視界を失った場所とは思えないほど、夜は普通に流れている。
酒場通りの笑い声が波のように強弱を繰り返す。
灯りが揺れ、影が伸び、また縮む。
俺たちはただ、静かに観察を続けた。
夜の冷気が、ゆっくりと体の芯に染み込み始めていた。
酒場通りの喧騒は続いている。笑い声、杯がぶつかる音、酔った足取りの不規則な影。だが、それらはただの夜の光景で、異常は何一つ起きていない。
俺とリリィは脇道の奥で、通り全体を見渡せる位置に立ち続けていた。
「……特に変化はありませんね」
小声でリリィが言う。
「はい。魔力の揺らぎも感じません」
時間だけが過ぎていく。
温かい飲み物の残りが、すでに温くなっていた。
ふと、まぶたが重くなる。
緊張が途切れた瞬間、体が疲労を思い出したようだった。
「ルーメン、少し眠たいです……」
正直な声だった。
俺も同じ感覚を覚えていた。
ここまで何も起きないのなら、今日は空振りかもしれない。無理に粘るより、体力を温存した方がいい可能性もある。
「……そうですね。今日は一度、戻りましょうか」
そう言いかけ、通りから視線を外しかけた、その瞬間。
視界の端に、小さな影が入り込んだ。
背丈の低い、少女の姿。
夜の明かりに照らされて、ゆっくりと通りを歩いている。
俺は言葉を止める。
あの時間帯に、あの年頃の少女が一人で歩いているのは、少し不自然だ。
まだ、何も断定できない。
ただ、違和感だけが胸の奥に引っかかった。
帰ろうとした足を、止めた。
その少女から、目を離せなかった。




