学院2年サラサ編 第八十章 深夜の異変⓻ リリィの提案
重く沈んだ空気を振り払うように、俺は話題を整理することにした。感覚だけで不安を膨らませても意味はない。事実を並べるしかない。
「聞き取りの結果ですが……」
リリィが顔を上げる。
「共通点がありましたか?」
「完全一致ではありません。ただ、偏りはあります」
俺は大聖堂でまとめられた報告を思い返す。
「発症した時間帯は、ほとんどが深夜です。日中に突然見えなくなったという証言は、今のところありません」
リリィの眉がわずかに動く。
「夜……ですか」
「はい。それと場所。中央通り周辺が多い」
「中央通り……」
「特に、その中の酒場通りです」
そこまで言うと、彼女の視線がわずかに鋭くなった。
「酒場通りに集中しているのですね?」
「ええ。全員がそこにいたわけではありません。でも、最も多いのは酒場通りで酒を飲んでいた人たちです」
「飲酒中、あるいは飲酒後に発症した、と」
「そうです」
「ただし、全員が酔っていたわけではありません。通りを歩いていただけという者もいます。完全な一致ではない。ですが、発症場所として一番多いのが酒場通りなのは確かです」
リリィは腕を組み、静かに考え込んだ。
「深夜。中央通り。酒場通り。飲酒者が多い……」
彼女の声は落ち着いているが、頭の中では複数の可能性が高速で組み立てられているのが分かる。
「酔っていると魔力の制御は緩みます。完全に乱れるわけではありませんが、感覚は鈍ります。そこに何らかの干渉が加われば、影響を受けやすくなる可能性はあります」
「俺もそれは考えました」
「ですが、酒そのものに原因があると断定はできませんね」
「はい。酒を飲んでいない者もいますから」
「中央通り以外の発症は?」
「少数ですがあります。ただ、数は圧倒的に少ない」
そこまで整理して、俺はふと気づく。
「……広がり方が妙なんです」
リリィが視線を向ける。
「妙、とは?」
「街全体に均等に出ているわけではない。特定の通りに偏っている。なのに、完全に閉じた範囲でもない。点在しているようで、中心はある」
「中心……」
「ええ。偶然にしては、集中しすぎている」
俺は机に置かれた地図を引き寄せ、中央通りの位置を指でなぞった。
「ここです。城壁の内側、街のほぼ中央。昼は商人や貴族も通る場所。夜は酒場が開いて賑わう」
リリィはその地図をじっと見つめた。
「目が見えなくなる、という症状も気になります」
「はい」
「全身ではない。意識も保たれている。ただ視覚だけが奪われる。しかも“霧がかかるように”と証言が一致している」
“霧”。その単語が、ほんの一瞬だけ、胸の奥を掠める。
だが、俺はそこに踏み込まない。今はただ、事実の整理だ。
「偶然にしては、出来すぎています」
リリィが静かに言う。
「時間帯も、場所も、症状の内容も」
「ええ」
「自然発生とは考えにくい」
「同感です」
研究室の中に、短い沈黙が落ちる。
俺たちは、まだ何も断定していない。魔物とも、闇魔術とも、流行病とも決めていない。ただ、事実を並べただけだ。
「……夜ですね」
リリィがぽつりと呟いた。
「はい」
「原因があるとしたら、夜です」
中央通り。酒場通り。深夜。昼ではなく、夜。
偶然ではなく、集中。
「見るしかないですね」
俺の言葉に、リリィはすぐには答えなかった。しばらく地図を見つめたまま、静かに思考を巡らせている。その横顔は、研究者のそれだった。感情よりも理論、憶測よりも検証を優先する眼差し。
やがて彼女は、ゆっくりと顔を上げた。
「はい。現場を確認するのが一番確実です」
「昼では意味がありませんね」
「ええ。発症は深夜に集中しています。夜でなければ、同じ条件にはなりません」
俺は頷いた。
リリィが地図を見ながら言う。
「酒場通りを中心に観察する。ですが、正面から歩くのは危険ですね」
「はい」
俺もすぐに理解する。
「もし何らかの干渉があるのなら、通りの中央に立つのは得策ではありませんね」
「はい。症状は“目に霧がかかるように見えなくなる”でした」
リリィがしばらく考えて言う。
「視覚への干渉……」
「直接的な接触がなくても起きています」
つまり、近づくだけで発症する可能性がある。
リリィは地図の中央通りを指でなぞり、そこから少し外れた細い路地を示した。
「ここ。酒場通りに面した脇道です。ここなら通り全体を見渡せる位置があります」
俺は地図に目を落とし、角度や距離を確認する。
「視界は確保できますか?」
「昼に見たことはあります。建物の隙間が開けていて、通りの動きは見えるはずですよ」
「ならば、そこから観察しましょう」
俺はリリィの指し示した場所から観察することを決意した。
「正面からは近づいてはいけません。酒場に入る必要もありません。ただ、通りの流れを見だけですよ、気をつけてください」
「発症の瞬間があれば、条件が絞れます」
「はい。誰が、どこで、どういう状況で視界を失うのか、しっかり見て判断しましょう」
推測ではなく、目で見る。それが最短だ。
「もし異変が起きても、すぐに退ける位置にいましょう」
リリィが続ける。
「袋小路は避ける。逃げ道を確保しておきます」
「同意です」
「そして……」
彼女は一瞬だけ言葉を区切る。
「不用意に魔力を広げないようにしましょう」
「……気づかれる可能性がある、と?」
「ええ。もし干渉が意図的なものであれば、強い魔力は目立ちます」
確かに、俺が不用意に魔力を広げれば、相手にこちらの存在を知らせることになるかもしれない。
「観察を優先。必要がなければ手を出さない」
「はい」
決して焦らない。
百人を治せたからといって、原因を掴んだわけではない。
むしろ、原因はまだ街のどこかに潜んでいる。
「早速今夜行きましょうか?」
リリィが尋ねる。
俺は少しだけ考え、それから答えた。
「はい。状況が悪化する前に」
症状を訴える者は増えている。
時間を置けば、さらに広がる可能性がある。
「ならば、今夜ですね」
リリィは静かに頷いた。
外では、完全に夜が訪れている。窓の向こうに、街の灯りが点々と揺れていた。
中央通り。酒場通り。深夜。
俺はその場所を思い浮かべる。
昼間とはまるで違う顔を持つであろう夜の通り。
そこに、何かがある。確証はない。だが、見なければ始まらない。
「慎重にいきましょう」
リリィが言う。
「はい」
静かな合意が、研究室の中に落ちた。
夜は、すぐそこまで来ている。
「今夜、様子を見に行きます」
俺がそう言うと、リリィは即座に顔を上げた。迷いのない声音だったが、その目の奥にはわずかな緊張が浮かんでいる。
「一人で、ですか?」
「はい。状況を確認するだけです。危険と判断すればすぐに引きます」
できるだけ冷静に伝えたつもりだった。だがリリィは静かに首を振る。
「それは認められません」
断言だった。
俺はわずかに眉を寄せる。
「危険の可能性がある以上、あなたを一人で行かせるわけにはいきません。前後、左右、複数の視点があったほうが安全です。観察とはいえ、相手の正体が不明なのですから」
理屈は正しい。だが。
「もし魔物が絡んでいた場合、危険です。目に霧がかかる現象が再現される可能性もある」
「だからこそです」
リリィの声は静かだが強い。
「あなたが魔力に集中している間、周囲の警戒は甘くなります。私はその補助ができます。魔術的な異変だけでなく、物理的な動きも見ます。観察は単独より二人です」
その言葉には、弟子を心配する師の感情だけではなく、研究者としての判断があった。
「ルーメン、あなたは一人で背負いすぎます。今回もそうです。百人を調律し、原因を追い、すぐに夜へ向かおうとする」
俺は何も言えない。
確かに、止まるという選択肢を最初から持っていなかった。
「私はあなたの師です。危険を前にして、研究対象から目を逸らすつもりもありませんし、弟子を一人で行かせるつもりもありません」
きっぱりとした宣言だった。
冗談ではない。軽い口調でもない。覚悟だ。
「……危険かもしれません」
「承知しています。だからこそ同行します」
俺は小さく息を吐く。
リリィは細身だが、魔術の実力は間違いなく一流だ。癒し、分析、補助、観察……どれを取っても隙がない。
それでも。
「もし何かあったら、必ず離れてください」
「状況を見て判断します」
完全に譲らない。
だがその声に、無謀さはない。ただ冷静な決意があるだけだ。
俺はようやく頷いた。
「……わかりました。お願いします」
リリィは小さく微笑んだ。
「最初からそう言えばよろしいのです」
軽く言ったが、その瞳は真剣なままだ。
夜はまだ来ていない。
だが、静かに近づいている。




