学院2年サラサ編 第八十章 深夜の異変⑥ リリィへの報告
聞き取りは想像以上に時間がかかった。
視力を取り戻した者たちは安堵していたが、同時に恐怖も抱えていた。突然視界が閉ざされたのだ。誰もが必死に記憶を辿り、神官の問いに答えていく。
やがて、整理された報告が大神官のもとに届けられた。
「特に目立った共同行動は見られません」
神官が淡々と述べる。
「ですが、共通している点がいくつかございます」
大神官が顎を引く。
「申してみよ」
「多くの者が、深夜に外出しておりました。特に中央通りの中でも、酒場通り周辺に集中しております。酒を飲んでいた者も多いようです」
その言葉に、俺はわずかに眉を動かした。
深夜。中央通り。酒場通り。
完全に一致しているわけではない。だが、集中している。
「発症は突然ですか?」
俺が問いかける。
「はい。『目に霧がかかったようになった』と証言しております。その直後に視界が閉ざされたと」
霧。その単語が、胸の奥で小さく引っかかる。
だが、ここで別の出来事と結びつけることはしない。ただ事実として受け止める。
「場所は限定されているのですか?」
「最も多いのは酒場通りですが、他の通りでも少数確認されています。とはいえ、中心は酒場通りです」
大神官が腕を組む。
「酒か。何か混入された可能性は?」
俺も同じ考えに至っていた。
「酒に闇魔術が施されている可能性はありますか?」
神官が答える。
「理論上は可能です。闇属性の術式であれば、外見や味を変えずに魔力へ干渉することはできます。ただし、持続性のある術式となると、相応の技量が必要になります」
「調査は可能ですか?」
「調査は可能です。ただし、流通量が多く、全てを調べるには時間がかかります」
俺は神官に申し入れた。
「被害が多かった店から優先して調べてください」
神官は深く頷き、すぐに指示を飛ばす。
大聖堂の空気は、先ほどまでの混乱とは違う緊張に包まれていった。
原因はまだ不明。だが、少なくとも“場所”は絞られつつある。
深夜の中央通り。その中でも酒場通り。
笑い声と酒の匂いが漂う場所で、視界が奪われる。
偶然とは思えない。
大神官が静かに言う。
「城壁内でこのようなことが起こるとはな」
俺も同意する。
城壁は厚く、警備も厳重だ。魔物が侵入する余地はほとんどないはずだ。
それでも、百人規模の異変が起きた。
魔物の残滓が魔力に残っていたことも事実だ。
だが、確証はまだない。
推測だけで動くわけにはいかない。
聞き取りは続いている。
俺はその場を後にする前に、もう一度大聖堂全体を見渡した。
視力は戻った。だが、安心できる状況ではない。
夜の街に、何かがある。そう感じながら、俺は大聖堂を後にした。
研究室に戻ると、リリィは机に広げた資料から顔を上げた。窓の外はすでに夕闇に沈みかけている。灯りに照らされた横顔が、俺の様子を見てわずかに緊張を帯びた。
「おかえりなさい。どうでしたか?」
俺は息を整え、正直に答える。
「想像より深刻です。大聖堂には、同じ症状の人が百人近く集まっていました」
リリィの目が大きく見開かれる。
「百人……?」
「はい。しかも神位の癒し魔術が効いていません」
その瞬間、彼女の表情がはっきりと変わった。研究者としての冷静さより先に、純粋な驚きが浮かぶ。
「神位が……効かない?」
「大神官が直接施していましたが、改善は確認できないとのことでした」
部屋の空気が静まり返る。神位の癒しが通じない。それは病ではない可能性を強く示している。
俺は続けた。
「一人、魔力を確かめました」
リリィが身を乗り出す。
「どうでしたか?」
「魔力の縁に、外から触れられた痕跡がありました。濃くはありません。ですが、自然な揺らぎではない。明らかに魔物らしき何らかの影響を受けた“残り”がありました」
「……魔力の残滓ですね」
「はい。しかも全員に同じ傾向がありました」
リリィの指先が机の上で止まる。
「魔物の……?」
「断定はできませんが、魔物由来の気配に近いと感じました」
そこまで言ったとき、彼女の瞳に強い衝撃が走った。
「街の中で、ですか?」
「はい」
城壁に守られ、夜間も警備が巡回しているこの街の内部で、同質の残滓が百人に。
それだけで異常だ。
「それだけではありません」
俺はさらに言葉を重ねる。
「全員、魔力が軽く暴走していました」
「暴走……」
「制御不能ではありません。流れが乱れている程度です。ただ、本来は安定しているはずの魔力が、わずかに乱れている。安定を失いかけている状態でした」
リリィは静かに息を呑む。
「それが視覚を……?」
「可能性は高いです。感覚は魔力と結びついていますから」
俺はそこで、彼女をまっすぐ見た。
「調律で整えました」
一瞬、理解が追いつかないという表情を浮かべたあと、リリィがはっきりと声を上げる。
「……全員ですか?」
「はい。二十人ずつ奥の部屋に分けて、空間全体に魔力を流しました。『ハーモニック・ジェネシス』で同時に調律しました」
「空間調律……百人規模を……?」
驚きが隠せない声音だ。
「一人ずつハーモニック・リコンストラクションは魔力量的に不可能です。途中で尽きます。だから方法を変えました」
「それで……?」
「ほとんどは一度で回復しました。反応が弱かった者だけを集めて、再度調律し、最終的に全員の視力回復を確認しています」
そして、リリィはゆっくりと立ち上がった。
「ルーメン……」
その声には、はっきりとした感嘆が含まれていた。
「神位の癒し魔術が効かなかった百人を、調律で全員回復させたのですか?」
「はい」
彼女は数歩こちらへ歩み寄る。その瞳はまっすぐ俺を見つめ、研究者としての理性を越えた純粋な敬意が宿っていた。
「本当に、すごいです……。いえ、“すごい”という言葉では足りません。理論上の可能性を、実際に形にしてしまうなんて……」
彼女は小さく息を吐き、続ける。
「調律魔術はルーメンにしか使えません。それを空間規模で二十人同時調律など、理屈は理解できても、魔力量も制御精度も常人では到底及ばない。ましてや神位が通じなかった症例です。それを、あなたは一度で整えたのですね」
その声は震えてはいない。だが、明確な高揚がある。
「ルーメン、あなたは本当に……とんでもないことをしていますよ」
純粋な驚嘆と、誇らしさに近い感情が混じっていた。
だがすぐに、その高揚は思考へと変わる。
「しかし、回復したということだけでは、原因は消えていない可能性がありますね」
「はい」
視力は戻った。暴走も鎮まった。だが、残滓があった事実は消えない。
「再発するかもしれません」
窓の外では夜の帳が降りている。街の灯りが揺れ始める。
百人を救えたという安堵よりも、見えない何かが街に潜んでいるという感覚のほうが、はるかに重かった。
リリィの驚きが静かな警戒へ変わっていくのを、俺は黙って見ていた。百人という数を救えた安堵よりも、街の内側で起きている“あり得ないこと”の重さが、部屋の空気をじわじわと沈めていく。
「……でも、街の中で魔物由来の残滓なんて」
リリィがぽつりと呟く。言葉を選ぶというより、思考がその結論を受け付けないような声音だった。
「有り得ません」
きっぱりと、しかし感情的ではなく、理屈として否定する言い方だった。
「この街は城壁に囲まれています。外から魔物が入り込めば、門番が気づきます。巡回も昼だけじゃなく夜もありますし、警備の人数も少なくありません。まして中央通りは要所です。そんな場所で、魔物が“人に触れるほど近くにいた”なんて……普通は起こりえません」
俺は頷きかけて、途中で止めた。言っていることは正しい。正しすぎる。だからこそ、喉の奥が妙に乾く。
「正直なところ、俺も同じことを思いました」
俺がそう返すと、リリィは一瞬だけ目を細める。否定されるのを構えていたわけじゃない。ただ、俺の口から“同意”が出てきたことが意外だったのかもしれない。
「それなのに、残滓がある。魔力の乱れもある。神位が効かない。……全部、揃ってる」
言いながら、自分の言葉が嫌に冷たく聞こえた。出来事を並べるほど、現実感が薄れていくのに、事実だけが逃げ場を塞いでいく。
リリィは机の端に指先を置いたまま、視線を落として考えていた。ふと、彼女が首を振る。
「魔物だと決めるのは危険です。残滓の“気配”が似ているだけで、別の何かかもしれません」
「……はい」
「例えば、魔術で魔物に似せた影響を与えることも理論上は可能です。あるいは、魔物由来の素材を使った道具。闇魔術のような、人の目や感覚に干渉する術……。街の中なら、魔物そのものより、そういう方向の方が現実的です」
彼女の言葉は落ち着いていた。だが、その落ち着きは「安心」のためではない。考えられる可能性を増やすことで、“この街で起きている事態”を理屈の枠内に戻そうとしている。研究者の癖にも見えたし、同時に、恐怖を押し込めるための整理にも見えた。
「ただ……」
リリィはそこで一度、言葉を区切る。視線が俺に戻る。
「城壁の中で、百人が同時期に、同じような症状を訴える。それ自体が異常です。警備が手厚いからこそ、余計に不気味です。普通なら、原因は外にあるはずなのに、外に探せない。内側で起きているのに、誰も気づいていない」
“気づいていない”という言葉が、胸の内側に小さな棘を残した。
「……リリィ」
俺は低く呼ぶ。呼び捨てにしたのは、距離を詰めるためだ。疑問を誤魔化さないためでもある。
「もし、警備の目に映らない形で起きてるとしたら?」
リリィはすぐには答えない。否定も肯定もしないまま、ほんの少し唇を結んで、机の上の資料に目を落とした。
「……そういう可能性も、ゼロじゃありません」
やっと出た声は、いつもの丁寧さを保っていた。けれど、その丁寧さの奥に、言いたくない結論が混じっているのが分かった。
「だからこそ、軽々しく“魔物が街にいる”とは言えません。でも、同時に……何かが潜んでいると考えないと、辻褄が合わないのも事実です」
俺は息を吐いた。否定したはずなのに、否定だけでは終わらない。リリィの言葉は、そのまま違和感を濃くしていく。
城壁。巡回。門。警備。要所である中央通り。
守られているはずの条件が揃っているほど、“守られていない何か”がいるように感じてしまう。
「……嫌な話だですね」
思わず漏れた俺の呟きに、リリィは小さく頷いた。
「ええ。本当に、嫌な話です」
それだけ言って、彼女はもう一度、机の上の資料へ視線を落とした。冷静になろうとしているのに、冷静でいるほど、輪郭のない不安が形を持ってしまう。そんな空気が、研究室の中に薄く広がっていた。




