学院2年サラサ編 第八十章 深夜の異変⑤ 街の異変への調律
奥の部屋は静まり返っていた。石壁に囲まれた空間は広間よりも狭く、二十人が入ると空気が重くなる。
目を細め、あるいは閉じたまま、不安げに立つ者、壁に手をつく者、床に座り込む者。誰もが同じ言葉を繰り返している。
「目が……見えない」
「霧が……かかっているみたいだ」
「暗くはないのに、霞む……」
その言葉に、胸の奥がわずかに軋む。
霧。森で聞いたあの単語と同じだ。だが今は結びつけない。ただ事実として受け止める。
俺は部屋の中央に立ち、目を閉じる。二十人分の魔力が、空間に満ちている。完全に乱れているわけではない。だが、均衡が崩れている。わずかに濁り、わずかに揺れ、波打つように不安定だ。
一人ずつに触れれば、確実に整えられる。だが百人近い人数を考えれば、それは不可能だ。魔力量の消耗が大きすぎる。途中で力尽きれば、混乱はさらに広がる。
ならば、空間ごと整える。
俺は静かに息を吸い込み、掌を胸の前で合わせた。
「ハーモニック・ジェネシス」
声に出した瞬間、空間に自分の魔力を解き放つ。床、壁、天井……この部屋そのものを媒体にして、均衡を再構築する。二十人の魔力が、細い糸のように俺の魔力と接続される。
暴力的に抑え込むのではない。乱れた波を、同じ高さに揃える。揺らぎを、同じ流れに戻す。
空間が微かに震える。目に見えない振動が、部屋を満たす。
最初に声を上げたのは、壁にもたれていた老人だった。
「……あれ?」
次に、若い男が目を瞬かせる。
「見える……?」
一人、また一人と、顔が上がる。
「見えるぞ!」
「本当に……見える!」
「霧が晴れた……!」
ざわめきが歓声に変わる。閉じられていた瞼が次々と開き、焦点を結ぶ。先ほどまでの不安が嘘のように、部屋の空気が軽くなる。
俺はまだ魔力を流し続ける。焦って切れば、取りこぼしが出る。慎重に、均衡が完全に安定するまで。
やがて、揺らぎはほとんど感じられなくなった。
魔力は落ち着いている。暴走の兆候もない。
俺はゆっくりと手を下ろした。
「どうですか。違和感はありませんか」
数人が目を擦りながら頷く。
「大丈夫だ……」
「ちゃんと見える……」
その安堵の声に、わずかに肩の力が抜ける。だが、油断はしない。これは一時的な収束に過ぎない可能性がある。
扉の向こうで待機していた神官が駆け寄る。
「回復しております……!」
「まだ帰さないでください」
俺は即座に言った。
「全員、順番に聞き取りを。目が見えなくなった瞬間のことを、細かく」
神官は強く頷き、外へ指示を飛ばす。
二十人は、まだ混乱と安堵が入り混じった表情のまま、部屋を出ていく。
俺は小さく息を吐いた。まだ、あと八十人近くいる。
この調律を、何度も繰り返さなければならない。
魔力の消耗は、確実に積み重なる。それでも……止めるわけにはいかない。
「次の二十人を」
扉が再び開いた。
五組目までの空間調律を終えた時点で、大聖堂の奥の部屋には、いったん静かな安堵が広がっていた。多くの者が「見える」「助かった」と涙を浮かべている。だが、俺はそれで終わりとは思わなかった。
全員が完全に回復したとは限らない。
神官たちに合図を送り、俺は確認を依頼する。
「視界が完全に戻っていない方がいれば、もう一度こちらへ集めてください」
神官たちは迅速に動いた。回復した者たちを一度外へ出し、まだ違和感を訴える者だけを奥の部屋へ再び誘導する。
集まったのは、十数名だった。
「霞みが少し残っています」
「遠くがまだぼやける気がする」
「さきほどよりは良いが、完全ではない」
声は落ち着いているが、不安は消えていない。
俺は改めて彼らの魔力に触れた。
全体調律によって大部分は整っている。だが、奥深くに微細な歪みが残っている者がいる。ほんのわずかな偏りだが、それが視界に影響しているのだろう。
最後の空間調律をする。
俺は症状が治っていない十数人を集めた立たせる。
「ハーモニック・ジェネシス」
声に出し、掌をかざす。空間ではなく、対象に直接流し込む。乱れた魔力の流れを、丁寧に撫でるように整えていく。
一人、また一人。
「……見える」
「今度ははっきりと」
「完全に戻りました」
部屋にいる全員の視線が、確かに焦点を結んでいることを見届けて、俺は手を下ろした。
神官が慎重に問いかける。
「異常はありませんか」
全員が首を横に振る。
これで、ようやく全員の視力は回復した。
だが俺は、安堵だけでは終われなかった。
全体調律で大半は回復した。だが一部には深く残滓が入り込んでいた。完全な浄化ではなく、あくまで均衡への引き戻しだ。
つまり……原因は、まだどこかに残っている。
俺は静かに息を吐いた。
百人分の魔力に触れた消耗は、確実に体に響いている。それでも、まだ戦える。
大神官がゆっくりと歩み寄る。
「……全員、回復したようだの」
「はい。現時点では問題ありません」
“現時点では”。
それ以上の言葉は、まだ持てなかった。
神官たちが聞き取り調査の準備を始める。
俺はその様子を見つめながら、胸の奥に残るわずかな違和感を押し込めた。
全員の視力が回復したことを確認し、大聖堂の空気はようやく落ち着きを取り戻しつつあった。先ほどまで響いていた不安と焦燥の声は消え、代わりに安堵の吐息が広がっている。
大神官はゆっくりと俺の前に歩み寄った。
その表情は穏やかだが、奥には重い思索が宿っている。
「さすがじゃ、ルーメン」
低く、静かな声だった。
「神位の癒し魔術をもってしても効果が見られなかった者たちを、そなたは調律によって整えた。これは奇跡に等しい」
俺は首を横に振る。
「奇跡ではありません。ただ、魔力の流れが乱れていただけです。整えれば戻ります」
だが、それは半分だけ本当だ。
乱れていたのは事実だ。しかし、その“乱れ”がどこから来たのかは、まだ分かっていない。
大神官は頷きながら続ける。
「それでも、救われた命がある。大聖堂を代表して感謝する」
周囲の神官たちも深く頭を下げる。
感謝されるのは悪い気分ではない。だが、俺の胸の奥にあるのは達成感ではなかった。
神位の癒しが効かなかった。
それは単なる魔力暴走ではない可能性を示している。
調律で整ったということは、構造的な崩壊ではなく、外部からの歪みだ。
だが、その外部が何なのかは、まだ見えていない。
大神官が小さく息を吐いた。
「治ったとはいえ、原因が分からぬままでは不安は残る。聞き取りの結果を待つとしよう」
俺も同意する。
「はい。発症のきっかけが分かれば、対策も立てられます」
今は“治せた”という事実よりも、“なぜ起きたか”の方が重要だ。
大神官は最後に言った。
「もしまた同様の症状が出れば、再び頼む」
「もちろんです。僕にできることなら」
形式的なやり取りに聞こえるかもしれない。だが、その言葉の裏には、確実に危機感がある。
百人規模で発生した。しかも神位が効かない。
これは偶発ではない可能性が高い。
聞き取りが始まる。
大聖堂の奥で、神官たちが順に質問を重ねていく。
俺は壁にもたれながら、その様子を静かに見つめていた。
回復はした。だが、解決はしていない。
その感覚だけが、胸に重く残っていた。




