学院2年サラサ編 第八十章 深夜の異変④ 大聖堂の混乱
奥へ進むにつれて、事態の深刻さがはっきりしてきた。
大聖堂の広間には、すでに相当数の人々が集められていた。椅子に座る者、床に横になる者、家族に支えられている者。視線はどこにも定まらず、空を掴むように手を伸ばしている者もいる。
ざっと見ただけでも、かなりの人数だ。
百人近い。
全員が同じことを口にしていた。
「目が見えない」
「霧がかかったように何も見えない」
「光はあるのに、輪郭が消える」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に小さな引っかかりが生まれた。
霧、という表現。
だが、今は考えを広げない。まずは目の前の事実だ。
大神官が歩み寄る。
「神位の癒し魔術を施しておるが、効果は確認できておらぬ」
その言葉は短いが、重い。
神位が効かない。聖位ではない。神位だ。
大聖堂で扱える最高位の癒し。それでも変化がないという事実は、単なる流行病ではないことを示している。
広間の中央では、神官が一人に向けて詠唱を終えたばかりだった。聖水が額に落ち、光が一瞬だけ広がる。だが、施術を受けた男は目を開けたまま、虚空を見つめている。
「……見えぬままだ」
周囲にざわめきが広がった。
まだ癒しを受けていない者たちが、焦燥を募らせる。
「早くしてくれ」
「次は私だろう?」
「お願いだ、光をくれ」
神官たちは冷静を保とうとしているが、明らかに余裕はない。癒しても癒しても、効果がない。人数は増える一方。
俺は静かに息を吐いた。
神位が効かない。百人規模。同一症状。偶然ではない。
俺は一人の患者の前に膝をついた。
「少し、魔力を確認させてください」
ここからは、目で見るのではなく、触れて確かめるしかない。
俺は患者の前に膝をつき、そっと魔力に触れた。
目を閉じる。視覚ではなく、感覚で探る。
魔力そのものは、人間のものだ。構造も質も、間違いなく人の魔力。しかし、その一部に、わずかな歪みがある。
異物のような、薄い混濁。魔物の気配に近い、何か。
完全な侵食ではない。だが、触れれば分かる程度には、はっきりとした違和感がある。
残滓。何かの影響を受け、その痕跡が残っている。
さらに注意深く観察する。
魔力の流れは安定していない。暴走と呼ぶほど激しくはないが、正常とも言えない。波打つように、不規則な揺らぎが続いている。
その揺らぎが、視覚に関わる感覚領域を圧迫しているのかもしれない。
俺はゆっくりと手を離した。
別の患者にも触れてみる。同じだ。
構造は人間。だが、微弱な異質の混入。軽度の魔力の乱れ。
症状は同一。魔力状態もほぼ同じ。
魔物化の兆候はない。人格も保たれている。理性もある。ただ、視界だけが奪われている。
俺は立ち上がり、広間を見渡した。
これは病ではない。だが、完全な呪いとも違う。
そして何より、神位の癒し魔術が作用しないという事実。
原因は、まだ分からない。だが、治す方法が一つだけ思い浮かぶ。
個別に施すには、人数が多すぎる。
俺は大神官の方へ向き直った。
「方法があります。ただし、少し場所をお借りしたいです」
俺は広間を見渡しながら、頭の中で計算する。
一人に対してハーモニック・リコンストラクションを施すだけでも、相応の魔力を消費する。それをこの人数に繰り返せば、確実に限界が来る。途中で倒れれば、残された者たちはどうなる。
現実的ではない。
「……一人ずつでは、魔力が持ちません」
俺は正直にそう告げた。
大神官が静かに頷く。
「無理はするな。だが、策はあるのだな」
「あります」
俺は続ける。
「個別ではなく、空間単位で調律します。対象を一定人数ずつ奥の部屋に移してください。扉を閉め、外界から遮断します。その空間そのものに魔力を流し込み、内部の魔力を同調させます」
神官たちが顔を見合わせる。
「空間ごと、ですか」
「はい。今回の症状は魔力の乱れ方が似ています。構造が共通しているなら、まとめて整えられるはずです」
個別より精度は落ちる。だが、この規模ではそれしかない。
大神官は短く言った。
「よかろう。奥の部屋を使え」
神官たちが動き始める。
俺は深く息を吸った。
一人ずつでは無理だ。だが、まとめてなら……可能だ。
大聖堂の広間は混乱寸前だった。視界を奪われた者たちの不安は連鎖し、空気そのものが張り詰めている。ここで感情に引きずられれば、二次的な事故が起きかねない。
俺は一歩前へ出て、神官に向き直った。
「このまま一斉に処置するのは危険です。二十人ずつに分けてください」
声は抑えたが、はっきりと届くように。
「歩ける方から順番に、奥の部屋へ。混乱させないよう、必ず一人ずつ支えて誘導してください」
神官が即座に動く。統率の取れた動きだ。さすがは大聖堂というべきか、指示の伝達は早い。
俺は続けた。
「それと、もう一つ」
神官たちがこちらを見る。
「症状が回復した場合でも、すぐには帰さないでください」
一瞬、驚いたような表情が浮かぶ。
「目が見えるようになったら、安心して帰ろうとするでしょう。しかし今回は、原因が不明です。全員に聞き取りを行ってください。目が見えなくなった直前、どこにいたのか、誰といたのか、何をしていたのか、できるだけ詳細に」
広間のざわめきの中で、その言葉だけははっきりと響いた。
「症状が出た時刻も必ず確認してください。些細なことでも構いません。共通点があるはずです」
俺は一人一人の顔を見るように、ゆっくりと視線を巡らせる。
治すことはできる。だが、それだけでは終わらない。原因を突き止めなければ、また同じことが起きる。
「症状が取れても、取れなくても、全員です。帰宅許可は聞き取りが終わってからにしてください」
神官の一人が深くうなずいた。
「承知しました」
奥の部屋の扉が開かれる。石壁に囲まれた静かな空間。外の喧騒を遮断できる場所だ。
二十人が、神官に支えられながら移動していく。俺はその様子を確認し、最後にもう一度だけ念を押した。
「急がなくていい。混乱させないことを最優先で」
自分の中に焦りはある。百人近い魔力を前にして、悠長でいられるはずがない。それでも、表に出す必要はない。
冷静でいることが、今できる最大の支援だ。
二十人が部屋に入りきる。扉が閉まる。




