学院2年サラサ編 第八十章 深夜の異変③ 街の中の異変
一方その頃、学院の外でも、静かに異変は広がり始めていた。
ラティスたちの治療が続く中、俺は一週間に一度、イレンティア大聖堂へ報告に赴いている。三人の状態、ハーモニック・リコンストラクションによる一時的な安定、そして翌朝の再発。その繰り返しを、包み隠さず伝えている。
その日も、報告を終えて席を立とうとしたときだった。
大神官が、いつになく低い声で言った。
「ルーメン、もう一つ、気になることがある」
その声音には、単なる世間話ではない重みがあった。俺は向き直る。
「何でしょうか」
「最近な、大聖堂に、妙な症状を訴える者が増えておるのだ」
妙な症状。
大神官はゆっくりと続けた。
「目が見えぬ、と言うのだ。完全に闇というわけではないらしい。目に靄がかかったように、霧がかかったように見えぬ、と」
霧。その言葉に、胸の奥がわずかに反応したが、俺は表情を変えなかった。
「原因は分かっているのですか?」
「分からぬ。神位の癒し魔術を施しても、改善せぬ」
それは異常だった。
癒し魔術の神位は、病や怪我に対してほぼ絶対的だ。視覚の障害であれば、器質的な損傷か、病である可能性が高い。だがそれが効かないとなると……。
「学院では、そのような話は聞いておりません」
俺は正直に答えた。
少なくとも、学院内で視力の異常を訴える者は出ていない。ラティスたちの症状とは、表面的にはまったく異なる。
「そうか。わしも最初は流行り病かと思った。だがな、発症の仕方が妙だ。突然、見えなくなるという」
「突然、ですか」
「うむ。朝から不調だった、という話ではない。ある瞬間から、靄がかかったようになると」
大神官は腕を組み、目を細めた。
「数も、徐々に増えておる。まだ大騒ぎというほどではないが、看過はできぬ」
俺は一瞬、ラティスたちのことを思い出す。
魔物のような魔力。暴走状態。癒し魔術が効かない異常。
だが、すぐに思考を切り替えた。
今ここで、無理に結びつけるのは早計だ。
「もし必要でしたら、魔力の状態を確認いたします」
俺がそう言うと、大神官は静かに頷いた。
「いずれ力を借りるやもしれん。その時は頼んだぞ」
「僕でお役に立てるのであれば、いつでもお呼びください」
そう答えながらも、胸の奥に、得体の知れない違和感が残った。
目に霧がかかる。
神位の癒し魔術が効かない。
増えつつある患者。
まだ断定はできない。だが、偶然が重なりすぎている気がした。
大聖堂を出ると、空は晴れていた。城壁の向こうから吹く風も、いつもと変わらない。
それでも、街のどこかで、何かが静かに動いている。
そんな予感だけが、心に残った。
大聖堂を後にした俺は、その足でリリィの研究室へ向かった。
扉を開けると、机の上には相変わらず魔導具の部品や、解体された魔物の資料が整然と並べられている。散らかっているように見えて、あれはあれでリリィなりの秩序があるのだ。
「リリィ、少し相談があります」
そう声をかけると、リリィは手を止め、こちらを向いた。
「どうしたのですか、ルーメン。珍しく真面目な顔ですね」
「真面目なのはいつもです」
軽く返しながら、大神官から聞いた話をそのまま伝える。最近、大聖堂に目が見えなくなる人が増えていること。神位の癒し魔術でも改善しないこと。発症は突然であること。
話し終えると、リリィは少しだけ眉を寄せた。
「目が見えなくなる……ですか」
「はい。完全な失明ではなく、霧がかかったように見えない、と」
リリィは指先で顎に触れ、思案する。
「流行病の可能性はありますね。ですが、もし病であれば、癒し魔術で改善するはずです。神位でも効かないとなると……」
そこまで言って、首を小さく横に振る。
「病ではない可能性もあります」
「呪い、ですか?」
「断定はできません。ですが、呪いであれば、神位の癒し魔術で完全に効かないというのも不自然です。多少なりとも反応があるはずですから」
なるほど、と俺は内心で整理する。
病ではない。呪いとも断定できない。
では、何か別の“作用”か。
「学院では、そのような話は聞いていません」
「発症場所が限定されている可能性もありますね。大聖堂に来る人が偏っているのかもしれません」
リリィはそう言いながらも、はっきりとした結論は出していない。
それが逆に、不安を強める。
「ルーメンは、その方々の魔力を確認したのですか?」
「まだです。今日は話を聞いただけです」
「そうですか。もし魔力に異常があるのであれば、調律の余地があるかもしれませんが……」
そこまで言って、リリィは小さくため息をついた。
「正直なところ、情報が足りません。原因が分からなければ、対処の方向性も定まりません」
珍しく、リリィが明確に「分からない」と言った。
それだけ、異質なのだ。
「大聖堂の方でも、まだ決定的なことは掴めていないようです」
「神位の癒しが効かないという一点だけでも、十分に異常です」
リリィの声は静かだが、重い。
城壁に囲まれ、警備も厳重なこの街で、原因不明の視覚障害が増えている。
それは単なる病の問題ではない。
「様子を見て、協力要請が来たら動きます」
俺がそう言うと、リリィはゆっくり頷いた。
「はい。ルーメンが動く時は、必ず私にも共有してください。一人で抱え込まないでくださいね」
その言葉に、少しだけ肩の力が抜ける。
ラティスたちのこともある。
今はまだ、点と点だ。
だが、どこかで繋がっている可能性を、俺は否定できずにいた。
最初は数人だったと聞いていた。
目が見えない、目に靄がかかったようになる。そんな訴えを持って大聖堂を訪れる者が現れたのは、ほんの数日前のことだという。
だが、その数は日を追うごとに増えていった。
大神官から正式に協力を求められ、俺が大聖堂へ向かった時には、正面の石段にまで人が溢れていた。昼だというのに、人々の顔には活気がない。付き添いに肩を支えられながら歩く者、壁伝いにゆっくりと進む者、目を細め、何度も瞬きを繰り返す者。
中に入ると、空気は張り詰めていた。
神官たちは次々に患者を奥へと案内し、名前を書き留め、症状を聞き取っている。椅子は足りず、廊下の壁際に座り込む人もいる。静かに不安が広がっているのが分かった。
「目が見えなくなるなんて、聞いたことがない」
「昨日までは何ともなかったんだ」
「急に霞んで……」
あちこちから、そんな声が漏れる。
混乱はまだ暴動にはなっていない。だが、明らかに大聖堂の処理能力を超え始めている。神官の数に対して、患者が多すぎるのだ。
大神官が俺のもとへ歩み寄った。
「ルーメン、手を貸してくれぬか。増え続けておる。このままでは対応しきれぬ」
その声には、焦りよりも重責が滲んでいた。神官たちは懸命に癒しを施している。だが、次々と運び込まれてくる以上、追いつかない。
俺は大聖堂の奥へと視線を向ける。
まだ原因は分からない。だが、これは偶発的な個別事例ではない。明らかに、何かが街の中で起きている。
「分かりました。状況を見せてください」
そう答えながら、俺は患者の一人に近づいた。
事態は、確実に拡大している。
まだ全貌は見えない。だが、このまま放置できる段階ではないことだけは、はっきりしていた。




