学院2年サラサ編 第八十章 深夜の異変② サラサの違和感
~サラサの視点~
目を覚ました時、最初に感じたのは疲労でした。
眠ったはずなのに、まるで一晩中走っていたかのような重さが体に残っているのです。
「……夢、だったのよね」
そう自分に言い聞かせながら、私は布団から起き上がりました。窓の外はいつも通りの朝で、鳥の鳴き声も聞こえます。
何も変わらない日常。そのはずでした。
けれど、立ち上がって足元を見た瞬間、胸の奥がわずかにざわつきました。
靴の向きが、揃っていなかったのです。
私は寝る前、必ず靴をきちんと揃えます。幼い頃からの習慣で、無意識に整えてしまうのです。外履きも室内履きも、きちんと並べてから布団に入る。
それが、今朝は片方だけが斜めにずれていました。
ほんの少しのことです。誰かが見れば気にも留めないでしょう。
けれど、私ははっきり覚えているのです。昨夜、確かに揃えたことを。
「……疲れてたのかしら」
そう思い、気にしないようにしました。夢のせいで落ち着かなかったのだから、記憶違いもあるでしょう。
靴を整え直し、顔を洗い、机に向かいます。
そこで、また違和感に気づきました。
机の上に置いていたはずの本が、少しだけ位置を変えているのです。昨日は左側に寄せて置いたはずなのに、今日は中央に近い位置にある。
栞の位置も、ほんの数頁ずれていました。
「……私、読んだ?」
昨夜、続きを読んだ記憶はありません。眠れずに何度も寝返りを打っただけです。本を開く余裕などなかったはずです。
私は本を手に取り、ぱらぱらと頁をめくりました。
読み覚えのない文章が目に入ります。
……でも、それが本当に読んでいない証拠なのか、自信が持てません。
「考えすぎね」
自分に言い聞かせました。
疲れているだけ。精神的に追い詰められているのだから、些細なことが気になるのです。
部屋を見回しても、大きな変化はありません。窓は閉まっていますし、鍵も掛かったままです。
誰かが入った形跡はない。
私は深く息を吸い込みました。
三人のことを考えすぎて、神経が過敏になっているだけ。そう思うことにします。
今日は見舞いの日です。差し入れを用意しなければなりません。
机の上の違和感を無理やり頭の隅に追いやり、私は身支度を始めました。
けれど、心のどこかに小さな棘のようなものが残っていました。
靴の向き。本の位置。ほんのわずかなズレ。
それが、なぜか胸に引っかかるのです。
私はそれ以上考えないようにして、部屋を後にしました。
その違和感が、偶然ではないと気づいたのは、さらに数日が過ぎた朝のことでした。
その夜も、私はなかなか寝付けませんでした。霧の夢を見て、目を覚まし、またうとうとし、気づけば外が明るくなっている。そんな浅い眠りを繰り返していたはずです。
はず、なのです。
目を開けた瞬間、最初に感じたのは、布団の重さではありませんでした。
「……え?」
自分の腕に触れた布地の感触が、違ったのです。
私は、部屋着ではなく、外出用の服を着ていました。
昨夜は確かに、簡素な寝間着に着替えました。髪も解き、外套も畳み、靴も揃え、いつもの手順で床に就いた。そこまでは、はっきり覚えています。
なのに今、私はきちんとした外出着を身につけ、帯も締められ、上着まで羽織っている。
「……どうして?」
慌てて立ち上がり、姿見の前に立ちました。間違いありません。これは昼間に着る服です。医務室へ見舞いに行く時に着ているもの。
袖口には、微かに外の空気の匂いが残っている気がしました。
頭の奥が、冷たくなります。私は、着替えた記憶がありません。
それどころか、布団に入った後の記憶が、ほとんどないのです。夢の断片だけが、曖昧に残っている。
霧。足音。羽音。
そして、白く閉ざされた視界。
「……夢、よね」
そう呟いてみましたが、声は自分でも分かるほど弱々しかった。
部屋を見回します。昨夜整えたはずの机の上は、また少しだけ物の位置が変わっています。窓の鍵は閉まっている。扉も内側から施錠されたままです。
外から誰かが入った形跡はありません。
ということは……。
「私が、着替えた……?」
自分で口にして、ぞっとしました。
もしそうだとしたら、なぜ覚えていないのでしょう。
寝ぼけて無意識に着替えた? そんなことがあるでしょうか。帯まで締め直して、上着まで羽織るなど。
私は自分の両手を見つめました。震えてはいません。爪も、怪我もない。足の裏も汚れていない。
外に出た形跡は、今のところ見当たりません。
けれど、「外出着を着ている」という事実だけが、確実にそこにある。
心臓が、ゆっくりと早くなっていきます。
三人のことを思い出しました。
夜になると、魔物のように暴れ出すラティス。毒糸を吐くノエル。毒針のような爪を振るうディラド。
私は、あの光景を見ています。
そして、毎晩夢に見ています。
……まさか。
その考えを、私はすぐに振り払いました。
「違う……私は、普通よ」
鏡の中の自分に言い聞かせます。目も、肌も、魔物のような変化はない。魔力の異常を感じることもありません。
それでも、胸の奥に冷たい不安が広がっていきました。
もし、夜の私が、私ではないとしたら。
もし、何かが、私の知らないところで動いているのだとしたら。
私は深呼吸をして、無理やり帯を解き、改めて部屋着に着替え直しました。いつも通りの手順を、わざと丁寧に繰り返します。
そして、心の中で決めました。
今夜は、眠る前の状態を、もっとはっきり覚えておこう。
靴の向きも、机の位置も、服も。すべて確認してから眠る。
これは疲れのせいかもしれない。そうであってほしい。
けれど……。
「何かがおかしい」
その言葉だけが、頭の中で静かに、何度も繰り返されていました。
その日、私は意識的に慎重になっていました。
眠る前、部屋の中を一つ一つ確認します。机の上の本の角度。椅子の位置。窓の鍵。扉の内側の閂。靴はきちんと揃えて、つま先を揃えて壁際に置く。外出着は畳んで、椅子の背に掛ける。
「……よし」
小さく呟き、自分で頷きました。
これで、もし何かが起きれば、分かるはずです。
布団に入り、目を閉じる。けれど、眠りはすぐには訪れませんでした。霧の夢が来るかもしれないと思うだけで、胸がざわつくのです。あの白い世界。音だけが残る空間。仲間が倒れていく光景。
それでも、疲労は確実に蓄積していました。
いつの間にか、意識が落ちていきます。
そして、目を覚ました時、窓から差し込む朝の光が、部屋を照らしていました。
最初にしたのは、靴を見ることでした。
揃っている。
つま先は壁に向いたまま、昨夜の位置にある。
次に机を見る。
本の角度も、椅子の位置も、変わっていない。
「……大丈夫」
ほっと、息を吐きました。
外出着も、椅子の背に掛けたままです。帯も解いたまま。昨夜確認した通り。
けれど、その安堵は長くは続きませんでした。
布団をどけた瞬間、違和感が走ったのです。
足の裏に、わずかな冷たさ。
床に触れた感触が、昨日よりもざらついている気がする。
目を凝らして見ると、シーツの上に、ほんの少しだけ細かな土の粒が落ちていました。砂と呼ぶほどでもない、けれど、部屋の中に自然に落ちるものではない程度の粒。
「……?」
昨日、シーツを取り替えたばかりです。そんなはずはない。
私は自分の足裏を見ました。うっすらと、汚れている。
けれど、靴は動いていない。
窓も、扉も、内側から閉まったまま。
では、どうやって?
記憶を辿ろうとします。
眠る前の確認までは覚えている。布団に入ったことも。そこから先は……。
空白。
夢の断片はあります。霧。音。白い視界。けれど、それが夢なのか、現実なのか、区別がつかない。
「私……外に、出たの?」
声に出してみましたが、答えは返ってきません。
もし外に出たのだとしたら、どうやって施錠をしたのでしょう。鍵は内側にある。窓も、壊れた形跡はない。
それとも、外ではなく、部屋の中で何かをしただけなのでしょうか。
私は胸元に手を当てました。心臓は速いが、魔力の異常は感じません。暴走の兆しもない。あの三人のような変化は、少なくとも今のところない。
けれど……。
「気づかないうちに、何かをしている……?」
その可能性が、じわじわと恐怖に変わっていきます。
三人は、夜になると魔物のように変わる。
私は、変わっていない。
……本当に?
自分の中に、何かが潜んでいるのではないか。夜だけ現れる何かが。
けれど、今の私は、確かに私です。意識も、思考も、はっきりしている。魔力も制御できている。
「考えすぎよ……」
そう言い聞かせます。
討伐訓練の後から、心が疲れているのは確かです。眠りが浅く、夢を繰り返し見ている。だから記憶が曖昧になるだけかもしれない。
けれど、部屋の小さな変化は、偶然にしては続きすぎています。
私は深く息を吸い、ゆっくり吐きました。
今は、確証がない。
ただの疲労かもしれない。気のせいかもしれない。
それでも、胸の奥に残るこの違和感は、簡単には消えてくれませんでした。
私はそっと窓の外を見ました。朝の学院は、いつも通りの静けさに包まれています。
けれど、その静けさの中に、私だけが取り残されているような、そんな感覚が、消えずに残っていました。




