学院2年サラサ編 第八十章 深夜の異変① サラサの眠れない夜
第八十章 深夜の異変
~サラサの視点~
私、サラサ・ダランティスは、あの魔物討伐訓練の日から、心が静まることがありません。
あの森に足を踏み入れた時、私はリーダーでした。成績優秀者として選ばれ、冷静であれと期待され、仲間を導く役目を任された立場でした。
宮廷魔術師と判定された以上、それに相応しい振る舞いをしなければならない。そう思っていましたし、そうあるべきだと信じてもいました。
森は最初、穏やかでした。魔物も想定内の範囲で、討伐も順調でした。ラティスとノエルは余裕を見せ、ディラドは緊張しながらもついてきていました。
私は全体を見ながら、無理をさせないように、規則を守るように、それだけを考えていました。
中央の大木が見えた時、私は引き返す判断をしました。
あれは間違っていなかったと、頭では分かっています。規則通りでしたし、あの先へ進む理由はありませんでした。
けれど、振り向いた瞬間、霧がありました。
あの濃い霧。視界を奪い、音を歪め、距離を狂わせる霧。
私は救難信号としてファイヤーボールを空へ放ちました。上位魔術で応戦し、仲間を守ろうとしました。
霧の中にさらに濃い箇所を見つけ、そこを発生源と推測し、打開を試みました。
けれど、結果はあの通りです。
ラティスは殴られ、ノエルは絡め取られ、ディラドは恐怖に縛られ、私は背後から打たれました。
私の判断も、私の魔術も、誰も救えなかった。
助けに来たのは、ルーメンさんでした。
学院で有名な存在。魔術の才能において群を抜いていると噂される人。その人が来てくれなければ、私たちは確実に命を落としていたでしょう。それは誇張ではなく、事実です。あの状況で四人だけでは、生き残れなかった。
感謝はしています。本当に、心から。
けれど、その感謝と同じだけ、胸に刺さる思いがあります。本来、あの場で仲間を守るのは、私であるべきでした。
リーダーとして選ばれたのは私です。救われる側ではなく、救う側であるべきだったのです。
三人が医務室で暴れ回る姿を見た時、私は凍りつきました。
まるで魔物のような挙動。意思の通じない目。力任せに暴れる姿。
その光景を目にした瞬間、頭に浮かんだのは原因でも分析でもありませんでした。
「私のせいだ」
ただそれだけでした。
私がもっと慎重であれば。もっと強ければ。もっと早く異変に気づけていれば。霧の中で判断を誤らなければ。あの濃い部分へ攻撃する前に、何か別の方法を選べていたなら。
後悔は際限なく湧きます。
誰も直接私を責めてはいません。教師も、神官も、ルーメンさんも、誰一人として私を非難しませんでした。それでも、自分の中の声だけは止まりません。
「私がリーダーだった」
その事実が、何より重いのです。
昼も夜も、その思考から逃れられません。食事をしていても、授業に出ていても、ふとした瞬間に霧の白さが脳裏に広がります。足音、羽音、擦れる音。仲間が倒れる瞬間。伸ばした手が届かなかった感覚。
私は、あの場で何を守れたのでしょうか。
助かったという事実だけが、逆に胸を締めつけます。守れなかったのに、生きている。三人は今も苦しんでいるのに、私はこうして立っている。
それが、何よりも耐え難いのです。
そして今日もまた、私は三人の顔を思い浮かべています。彼らがどんな表情で、どんな思いでいるのか。それを想像するたびに、胸の奥が重く沈んでいきます。
私は、リーダーだったのです。その責任は、消えません。
医務室で初めて三人の異変を目にした時のことは、今でも鮮明に覚えています。
土魔術で作られた強靭な囲いの中で、ラティスは唸るような声を上げながら壁を殴っていました。
その拳が当たるたびに、鈍い衝撃音が響きます。人間の力とは思えない、荒々しく制御のない動きでした。
彼の目は焦点が合わず、こちらを見ているはずなのに、何も認識していないようでした。
ノエルは床を這うように動き、口元から糸のようなものを吐き出していました。
整然としていた彼女の姿からは想像もできない様子で、近づこうとする教師に対して攻撃的な反応を見せていました。
その目に宿る理性は、まるでどこかへ消えてしまったかのようでした。
ディラドは怯えたように震えながらも、突然、無差別に腕を振り回しました。
彼の表情は恐怖に歪み、何かに追われているかのようでした。
まるでまだ霧の中にいるかのように、見えない何かと戦っているようでした。
あの瞬間、私は何も言えませんでした。
あの森で共に歩き、共に戦い、共に帰るはずだった仲間たちが、囲いの中で魔物のように暴れている。その光景を前にして、私の頭は真っ白になりました。
「どうして……」
そう呟いたのか、それとも声にもならなかったのか、今では分かりません。
教師たちは懸命に対応していました。癒し魔術も施されました。けれど、効果は見られませんでした。
神位の癒し魔術ですら、彼らの状態を変えることはできなかったと後に聞きました。
その事実が、私の胸をさらに締めつけました。
あの日、森で起きたことは一時的な事故ではなかった。後遺症として、形を変えて三人を蝕んでいる。それが現実でした。
私はその日から、毎日医務室へ通うようになりました。
最初は義務のようなものでした。リーダーとして当然の行動だと、自分に言い聞かせていました。
けれど、本当は違います。私は確かめずにはいられなかったのです。三人がまだそこにいることを。目を閉じていないことを。息をしていることを。
暴れている姿を見るのは辛い。それでも、見なければならないと思いました。目を逸らしたら、完全に逃げることになる気がしたのです。
囲いの外に立ち、私は何度も頭を下げました。聞こえていないと分かっていても、「ごめんなさい」と心の中で繰り返しました。
もしあの時、霧の中で別の判断をしていれば。もし私がもっと強ければ。もし、救難信号を出す前に別の方法を選んでいれば。
答えのない仮定が、延々と頭を巡ります。
三人が一時的に正気を取り戻した日もありました。落ち着いた状態で会話ができる時間もありました。
けれど、そのたびに私は安心できませんでした。夜になると再び暴れるかもしれないという不安が、常に付きまとっていたからです。
ラティスは悔しそうに拳を握り、ノエルは理性的に状況を問い、ディラドは怯えたまま声を震わせていました。
三人とも、あの森での出来事を断片的にしか覚えていないようでした。けれど、負けたという事実だけは、それぞれの胸に残っていました。
その姿を見るたびに、私は胸が痛みました。
彼らは自分を責めています。けれど、本当は私が責められるべきなのではないか。リーダーとして選ばれたのは私だったのですから。
誰も口にしません。教師も、神官も、ルーメンさんも。
それでも、私は知っています。
あの日、最前に立っていたのは私だったのだと。
そして今日もまた、私は医務室へ向かいます。
謝るためではなく、逃げないために。
けれど、その足取りは、いつも少しだけ重いのです。
夜になると、昼間とは違う静けさが部屋を満たします。寮の廊下を歩く足音もやがて消え、窓の外には月明かりだけが残ります。
それなのに、私の胸の奥は、まるで霧の中に取り残されたままのように落ち着きませんでした。
布団に横になって目を閉じると、あの森が浮かびます。中央の大木の影。足元を這う白い霧。そして、遠くから聞こえる足音と羽音。
カサカサと、地面を擦る音。
重たい足取りの振動。
耳元をかすめる羽ばたき。
どれも、現実に聞こえるほど鮮明です。
「最大級に警戒してください」
あの時の自分の声まで思い出します。冷静に指示を出していたつもりでした。けれど、本当は恐怖で喉が乾いていました。
ラティスが吹き飛ばされる瞬間。ノエルが糸に絡め取られた姿。ディラドの悲鳴。
そして、自分の後頭部に走った衝撃。
そこで記憶は途切れます。
目を覚ましたのは医務室でした。けれど、眠りに落ちる直前には、いつもあの霧の中に戻ってしまうのです。
私は何度も寝返りを打ちました。汗ばんだ額を手の甲で拭い、天井を見つめます。
「私が、もっと強ければ……」
小さく呟いても、答えは返ってきません。
昼間は、気丈に振る舞えます。医務室では姿勢を正し、三人の前では弱さを見せないようにしています。
けれど、夜になると、心の隙間が広がっていきます。
あの日の光景は、夢と現実の境目を曖昧にしていました。
何度も同じ場面が繰り返されます。救難信号として放った炎が霧を突き抜ける瞬間。浮かび上がる無数の影。数え切れないほどの気配。
私は戦いました。けれど、守れなかった。
目を開けると、部屋は静まり返っています。
それでも、耳鳴りのように残るのです。あの足音と羽音が。
私は枕元に置いた水を飲み、深く息を吐きました。
眠らなければ。明日も医務室に行くのだから。そう思って目を閉じても、心は休まりません。罪悪感は、昼よりも夜の方が強くなるのです。
「リーダーとして……」
その言葉だけが、胸の中で重く沈みます。
誰も私を責めていません。けれど、自分自身が許していないのです。
やがて浅い眠りに落ちますが、それは休息とは呼べないものでした。
夢の中でも、私は霧の中に立っています。
白い世界で、何かを探している。けれど、何を探しているのか分からない。
ただ、焦りだけが募る。
目を覚ました時、胸の鼓動は早く、呼吸は浅くなっていました。
朝の光が差し込んでいるのに、体は重い。
それでも、私は起き上がります。今日も医務室へ行くからです。そうして、また一日が始まります。
けれど、夜が来ることを思うと、胸の奥に小さな影が落ちるのでした。




