学院2年サラサ編 第七十九章 人間の魔物化⓻ 人間の魔物化という現実
囲いの中で眠る三人を見ながら、俺は改めて思い知らされる。
魔物化。
その言葉の重さが、胸の奥に沈んでいく。
これまで俺たちは、魔物と戦う側だった。
人間は人間、魔物は魔物。
境界は明確で、揺らぐことはないと、どこかで信じていた。
だが、今回の現象は違う。
人間の魔力が、魔物のように変質する。
理性を失い、暴力的になり、意思疎通ができなくなる。
それは、単なる魔力暴走とは違う。
暴走は歪みだ。
だが今起きているのは、変質だ。
しかも原因は、魔霧。
視界を奪うだけの現象だと思っていた霧が、実際には人間の内側へ侵食し、性質そのものを変えていく。
魔力の弱い者ほど、影響を受けやすい。
リリィの言葉が頭の中で繰り返される。
もしこれが広範囲に広がればどうなる。
魔霧が街に流れ込めば?
森以外で発生したら?
魔力の弱い者たちは?
子どもは。一般市民は。非戦闘員は。
人間が、人間のままでいられなくなる可能性。
それは、単なる病や呪いよりも恐ろしい。
なぜなら、それは“敵”を外に求められなくなるからだ。
魔物と戦うのは簡単だ。
だが、人間が魔物のようになった時、剣を向けられるのか。
学院の教師たちが三人を囲いに閉じ込めた時の顔が、脳裏に浮かぶ。
恐怖と、迷いと、責任。
彼らは生徒だ。昨日まで一緒に学んでいた仲間だ。
それが一晩で、魔物のような存在になる。
この現象が広まれば、世界の前提が崩れる。
人間は安全圏にいるという幻想が、壊れる。
俺は静かに拳を握る。
だからこそ、止めなければならない。
魔霧の研究。
調律の可能性。
原因の特定。
どれも、まだ途中だ。だが、確実に一歩ずつ進まなければならない。
三人は、今は眠っている。
だが、この問題は眠らない。
魔物は森にいる。
そう思っていた常識が、今、静かに崩れている。
人間が、魔物に近づくという現実。それを否定できる材料は、まだ何一つない。
朝は、いつも通りやってくる。鳥の声が遠くで聞こえ、学院の鐘が鳴り、生徒たちが目を覚ます。世界は何も変わっていないように動き出す。
だが、医務室の奥にある土魔術の囲いの中では、同じことが繰り返される。
俺が足を踏み入れた時、既に異変は始まっていた。
ラティスの身体が震え、筋肉が不自然に膨れ上がる。
ノエルの口元から糸のようなものが滲み、視線が鋭くなる。
ディラドの指先が硬く変質し、囲いの壁を引っ掻く。
理性の色は消え、魔物のような行動が始まる。
魔力に触れなくとも分かる。空気が重く、荒れた気配に満ちている。
俺は一歩前に出る。昨日も、今日も、同じ光景。
「……ハーモニック・リコンストラクション」
静かに名を告げ、調律を流し込む。荒れ狂う魔力に、均衡を重ねる。歪んだ流れを整え、暴走を抑え込む。
ラティスの動きが止まる。ノエルの糸が消える。ディラドの爪が元に戻る。
三人はその場に崩れ落ち、静かになる。
魔物のような魔力は消え、魔力暴走も収まっている。
だが……それだけだ。意識は戻らない。
そして、俺は知っている。明日の朝、また同じことが起きる。
止められる。だが、終わらせられない。
繰り返し。
朝が来て、魔物化し、調律し、眠る。
解決していない問題を抱えたまま、時間だけが進んでいく。
囲いの外で、サラサが静かに立っている。
今日も差し入れを持ってきているのだろう。
何も知らない顔で、ただ仲間の無事を願っている。
俺は囲いの中の三人を見つめ、そして窓の外を見る。
朝日は変わらず差し込んでいる。だが、この朝は、どこか冷たい。
終わらない循環。止める術はある。だが、救う術は、まだ見えない。
それでも、明日も来る。
そして俺は、また同じ言葉を口にするだろう。
「……ハーモニック・リコンストラクション」
解決しないまま、朝は繰り返される。
医務室の灯りが落ち、学院が静まり返る頃。昼間の喧騒は消え、廊下には夜番の足音だけが響く。
土魔術の囲いの中では、ラティス、ノエル、ディラドが穏やかな寝息を立てていた。
日中は正気だ。記憶もない。会話も成立する。
だが、朝になれば必ず崩れる。
その繰り返し。
その夜も、サラサは医務室の前まで来ていた。
毎日来ている。差し入れを持ち、花を替え、短い祈りを捧げる。
「……今日も、変わりありませんように」
小さな声で呟く。
自分のせいではないと何度言われても、胸の奥に沈む罪悪感は消えない。
リーダーとして連れて行った森。引き返す判断。救難信号。
それでも三人は倒れた。
その事実が、彼女の中で終わっていない。
夜の医務室は、静かすぎるほど静かだった。
囲いの中を見つめるサラサの視線は、優しい。恐れているというより、守ろうとしているようにも見える。
ほんの一瞬。彼女は眉を寄せた。
自分でも気づかないほど、わずかに。
「……あの霧……」
思い出しかけて、首を振る。
霧の中の音。白く閉ざされた視界。仲間が倒れていく瞬間。
記憶は途切れている。自分は何もされなかったはずだ。
だが、どうして自分だけなのか。
その問いは、何度も浮かび、何度も押し込めている。
サラサは囲いの近くまで歩み寄る。
三人の寝顔を、静かに見つめる。
「……ごめんなさい」
それは、誰にも届かない声。
彼女は長くは留まらない。いつもそうだ。
しばらく立ち、そして静かに去る。
夜番の教師が軽く会釈する。サラサは丁寧に頭を下げる。
何も起きていない夜。何も異変のない時間。
それでも……囲いの中の三人の魔力は、まだ静かなままだった。
そして夜は、ゆっくりと更けていく。
誰も知らない。朝が来れば、また同じことが起きることを。
サラサは知らない。自分が何もしていないことも、何かをしているかもしれないことも。
ただ、仲間を思い、毎夜ここに立つだけだ。
静かな夜。だがその静けさは、どこか、不自然だった。




