学院2年サラサ編 第七十九章 人間の魔物化⑥ 調律の限界
翌朝、俺はいつもの時間に医務室へ向かった。廊下はまだ静かで、朝の光が長く床に伸びている。
ここへ通うのも、もう何日目になるのか分からない。三人の状態を確認し、暴れていれば鎮め、静かであれば様子を見る。その繰り返しだ。
扉を開けると、今日も囲いの中は落ち着いていた。ラティスは腕を組んで横になり、ノエルは壁に背を預け、ディラドは丸くなって眠っている。昨日の夜まであれほど荒れ狂っていたとは思えないほど、人間らしい寝息だった。
囲いの外に、先に来ている人影があった。
サラサだ。
今日も手には小さな包みと花束を持っている。花は昨日と違う種類だ。毎回選び直しているのだろう。差し入れも簡素だが、丁寧に包まれている。
「おはようございます、ルーメンさん」
静かな声だった。だが、その奥には疲労が滲んでいる。目の下にはわずかに影があり、昨夜もあまり眠れていないのだろうと分かる。
「おはようございます。今は落ち着いています」
そう答えると、サラサは胸に手を当てて、ほっと息をついた。
「よかった……本当に、よかったです」
囲いの内側を見つめる視線は、責任と後悔と祈りが混ざり合ったものだった。彼女は一歩近づき、囲い越しに三人を見守る。
「今日は穏やかな顔をしていますね」
「はい。今は魔物のような行動もありません。魔力暴走も起きていません」
それを聞いて、サラサは小さく頷く。
「私、昨日も来ました。お昼にも、夕方にも……夜は、先生方がいらっしゃるので邪魔にならないようにしましたけれど」
言いながら、ほんのわずかに言葉が揺れた。
だが、それは罪悪感から来るものなのか、疲労からなのか、判断はつかない。
「毎日、来ているのですね」
「はい。リーダーですから」
その言葉は強い。だが、強さの奥に、折れそうな細さがある。
「三人が苦しんでいるのに、何もしないでいることが……どうしてもできなくて」
囲いの中で眠る三人を見つめるその横顔は、真剣で、どこまでも真面目だった。
ふと、その瞬間だった。
サラサの魔力が、ほんの一瞬だけ揺れたように感じた。
強い変動ではない。異質でもない。澄んだ水面に、指先で触れたような、ごく微細な波紋。
俺は無意識に視線を向ける。
しかし次の瞬間には、いつも通りの安定した魔力に戻っていた。
「……どうかしましたか?」
サラサが不思議そうに俺を見る。
「いえ、何でもありません」
俺は首を振る。
きっと疲労だろう。何日も通い続けている。精神的な負担も大きいはずだ。わずかな揺らぎがあっても不思議ではない。
そう判断して、俺は囲いの中へ意識を向け直した。
三人は今、静かだ。
だが、この静けさは仮のものだと、もう分かっている。朝はいつも穏やかで、そして夜が来る。
サラサは、今日も花を囲いの外にそっと置いた。
「また来ますね」
その言葉は、誓いのようだった。
俺は頷きながら、胸の奥に小さな違和感を残したまま、医務室を後にした。
静かな朝は続いている。だが、何かが、確実に、積み重なっている気がしてならなかった。
日が重なるごとに、医務室の前を通る生徒の足取りは変わっていった。最初は心配と好奇心が混ざった視線だったものが、次第に警戒へと変わっていく。
囲いの中で暴れる姿を見た者もいれば、噂だけを聞いた者もいる。だが、内容がどうであれ、「三人が異常を起こした」という事実だけは学院中に広まりつつあった。
公式な発表はない。教師陣も詳細は伏せている。それでも、抑え込まれた情報ほど、形を変えて広がるものだ。
「あの森は危険なんじゃないか」
「何か呪いを持ち帰ったらしい」
「癒し魔術が効かないらしい」
断片的な言葉が、廊下や食堂の隅でささやかれている。事実とは微妙にずれながら、不安だけが膨らんでいく。
学院は“安全”であるはずの場所だ。魔術を学び、技を磨き、力を高めるための場。その内部で、しかも正式な訓練の後に、生徒が魔物のような行動を繰り返すとなれば、それは単なる事故では済まされない。
もしこれが公に「人間の魔物化」として認識されたら、どうなるか。
王都に報告が上がるかもしれない。訓練の中止、森の封鎖、責任の所在の追及。学院の評価にも関わるだろう。そして何より、当事者である三人は、単なる被害者ではなく“危険な存在”として見られる可能性がある。
それだけは避けなければならない。
今はまだ、医務室の中で収まっている。俺がハーモニック・リコンストラクションを施せば、魔物のような魔力は消え、魔力暴走も正常化する。だが、それはあくまで“朝の状態”に戻しているに過ぎない。
夜が来れば、再び崩れる。
この循環が続く限り、いつかは隠しきれなくなる。
俺は医務室の前に立ち止まり、扉越しに中の気配を感じ取った。今は静かだ。三人は人間の魔力を保ち、暴走もない。
だが、魔霧という存在を知ってしまった以上、単なる偶発ではないことは明らかだ。人が魔物に近づく現象。それが学院内で起きているという事実は、あまりにも重い。
教師陣も疲労の色を隠せていない。剣術教師は囲いの強度を何度も確認し、魔術教師は記録を取り続けている。大神官も表情を曇らせたままだ。
まだ、原因は確定していない。まだ、解決もしていない。
だが、確実に学院全体の空気は変わりつつある。
誰も口には出さないが、皆が感じている。
これは、ただの後遺症ではない。
俺は静かに息を吐いた。
今は抑えられている。だが、もし抑えきれなくなったら……。
その先を考えるのは、まだ早い。
それでも、不安は確実に積み重なっていた。
朝が来るたびに、同じ光景が繰り返される。
囲いの中で暴れ回る三人。魔物のような動き。理性を欠いた視線。そして、魔物のように変質した魔力。
俺は静かに囲いの前へ立ち、深く息を吸う。
「――ハーモニック・リコンストラクション」
声に出して発動させる。魔力が空間を震わせ、三人の内側へと干渉する。
ラティスの腕から力が抜ける。
ノエルの毒糸が止まる。
ディラドの爪が震え、動きを失う。
魔物のような魔力が、霧が晴れるように消えていく。
同時に、暴走していた魔力の流れが整う。
そして、三人は倒れる。
毎回、同じだ。
魔力は正常化する。暴走は止まる。魔物のような挙動も消える。
だが……。目覚めた後に、根本が消えているわけではない。
翌朝になれば、また同じ現象が起きる。
止められる。抑えられる。だが、治せてはいない。
俺は囲いの前で立ち尽くしながら、冷静に事実を整理する。
魔霧の影響。魔物化という現象。魔物のような魔力。魔力暴走。
それらは、ハーモニック・リコンストラクションで“剥がす”ことはできる。
だが、根の部分に残る何かまでは消えていない。
調律は、整える魔術だ。
歪みを正すことはできる。
だが……。“変質”そのものを消しているのか。それとも、ただ上書きしているだけなのか。
分からない。
神位の癒し魔術ですら効かない。聖水でも変化はない。
今、確実に言えるのは一つだけだ。
俺は、毎朝、止めることはできる。だが、終わらせることはできていない。
調律の限界が、そこにあった。
それでもやるしかない。
三人が完全に魔物になってしまう前に、少しでも時間を稼ぐしかない。
俺はゆっくりと目を閉じ、次の朝もまたここへ来る覚悟を固めた。
終わりは、まだ見えない。




