学院2年サラサ編 第七十九章 人間の魔物化⑤ 根治できない現実
翌朝、まだ学院の鐘が鳴り切らない時間に呼び出しが入った。寝起きの頭が完全に覚める前に、胸の奥だけが先に冷たくなる。嫌な予感は、当たるときほど静かだ。
医務室へ向かう廊下は、昨夜と同じ景色のはずなのに、どこか違って見えた。空気が張りつめている。足音がやけに響き、すれ違う教師たちの顔も硬い。扉の向こうから、何かがぶつかる鈍い音が断続的に聞こえていた。
中へ入った瞬間、状況は理解できた。
土魔術で作られた強靭な囲い。その内側で、三人が暴れている。いや、「暴れている」という言葉では足りない。人間の動きではない。目の前にいるのは、昨日まで確かに会話が成立していた生徒たちなのに、今はまるで違う存在に見えた。
ラティスは囲いの内側を殴り、叩き、肩から体当たりするようにぶつかっていた。常人ではありえない勢いと重さで、囲いが低く唸る。息は荒く、喉の奥で唸り声のような音を立てている。目が合っても、そこに会話の入り口がない。視線は敵を探す獣のそれだ。
ノエルは口元から粘ついた糸を吐き出し、囲いの床や壁に絡ませていた。糸は不自然に伸び、絡み、網のように広がっていく。獲物を捕まえるための手つきに見える。本人が何をしているのか理解している様子はなく、ただ「やるべきこと」を繰り返しているだけだった。
ディラドは爪の先が針のように尖って見え、近づくものすべてを刺そうとする。腕を振る動きがやたら速い。壁をひっかく音が耳に残る。教師が距離を詰めようとするたび、反射的に跳ねるように向き直り、獲物に噛みつくような勢いで手を振り抜いた。
三人とも、言葉が通じない。呼びかけても反応は返らない。名前を呼んでも、こちらを人として認識していない。あるのは攻撃性と衝動、それを止められない勢いだけだった。
そして、もう一つ。目に見えないはずのものが、空気を汚しているように感じる。近づくほどに、肌がざわつく。嫌悪感に近い圧が、囲いの内側から滲み出ている。
これはただの混乱じゃない。明らかに、魔力が暴走している。
それも、普通の暴走ではない。暴走の熱量が違う。荒れているというより、別の形に歪められている。人間のはずの器の中で、異質な何かが膨れ上がっているように見える。
教師たちは必死に距離を取り、囲いの外側を固めていた。誰もが疲弊している。止められないのではなく、下手に止めようとすればこちらが傷つく。現場の判断は正しい。囲いを維持し、被害を広げないことが第一だ。
だが、これ以上放っておけば、囲いが持つ保証はない。何度も衝撃が重なる。網が増える。針が振るわれる。やがて誰かが踏み込まざるを得なくなる瞬間が来る。
俺は囲いの手前で立ち止まったまま、三人の動きを一度だけ見渡した。
昨日、落ち着いて話していた姿が脳裏をよぎる。悔しがっていた声。苛立ちを抑えようとしていた視線。震えて助けを求めた言葉。それらが今は、すべて消えている。
朝が来るたびに、こうなるのか。
胸の奥に、嫌な確信が沈む。再発という言葉が軽く感じるほど、これは“繰り返し”の形をしていた。
教師の一人が、唇を噛みながら言った。
「今朝、来た時にはもう……この状態でした。消灯までは普通だったんです。本当に、普通に……」
その「普通」という言葉が、逆に刺さった。普通から、これへ落ちる。境目が見えない。それが一番怖い。
俺は短く息を吐き、囲いの中にいる三人へ視線を戻す。
ここで止めなければならない。
“魔物のような行動”も、“魔力暴走”も、これ以上続かせるわけにはいかない。
俺は一歩、囲いへ近づいた。
囲いの手前で一度だけ目を閉じ、呼吸を整える。焦りは禁物だ。昨日の一時収束を思い出す。あの時は確かに止まった。だが、止まっただけだ。今目の前で起きているのは、その“止めたはずのもの”の再燃だ。
囲いの内側では、ラティスが再び衝突を繰り返している。ノエルの糸は床を覆い、ディラドの爪は空を切り裂く。教師たちは距離を保ち、余計な刺激を与えないようにしている。ここで下手に抑え込めば、余波が外へ出る。
俺は囲い越しに魔力へ意識を向けた。触れすぎないよう、しかし逃さないように。暴走は確かに起きている。そして、その奥に“魔物のような性質”を帯びた波が重なっている。昨日と同じだ。いや、同じに見える。
「いきます」
短く告げ、調律の回路を立ち上げる。
「ハーモニック・リコンストラクション」
流れを整え、歪みを戻す。乱れを均す。荒れ狂う波に対し、静かな律動を重ねる。
最初に反応したのはラティスだった。殴りつける腕が一瞬だけ鈍る。次の衝突が弱くなる。唸り声が途切れ、呼吸が乱れる。暴走していた魔力が、徐々に揺れを小さくする。
続けてノエル。絡みついていた糸が張りを失い、だらりと垂れる。口元の動きが止まり、視線が焦点を失う。糸を吐く衝動が、霧散するように消えていく。
最後にディラド。振り上げた腕が途中で止まり、針のようだった爪先が震える。攻撃の意志が抜け落ちる。代わりに、疲労の重さが全身を襲う。
囲いの内側の音が、急速に減っていく。
魔物のように歪んでいた魔力が、徐々に薄れていくのが分かる。暴走も、同時に鎮まっていく。荒れた流れが、元の形へ戻ろうとする。だが、それは“治った”というより、“押さえ込まれた”感覚に近い。
三人はほぼ同時に力を失い、その場に崩れ落ちた。囲いの中に、ようやく静寂が戻る。教師たちの緊張が一斉にほどけるのが分かった。
俺はすぐに魔力の状態を確認する。魔物のようだった波は消えている。暴走も収まっている。今は、落ち着いている。
だが、昨日と同じだ。
倒れたまま、三人は意識を取り戻さない。眠っているわけではない。消耗による失神に近い。呼吸は安定している。生命の危険はない。だが、自力で目を開ける気配もない。
教師の一人が小声で言う。
「……また、止まりましたね」
また、だ。
昨日も止まった。今日も止まった。止められる。だが、それだけだ。
俺は囲い越しにもう一度魔力を確かめる。整っている。正常だ。少なくとも今は。
だが、明日も同じ保証はない。
「囲いはこのまま維持してください」
静かに告げる。暴走が再発するなら、備えは必要だ。三人は慎重に横たえられ、医務室の中央へ移される。糸は除去され、床の補修が行われる。傷は癒し魔術で処置される。
すべてが、作業のように進む。
止める。落ち着く。眠る。朝になる。再発する。止める。
その循環が、すでに形を持ち始めている気がした。
俺は倒れた三人を見下ろしながら、胸の奥に沈む感覚を押し込める。
今は止められる。だが、治せていない。
その違いが、はっきりと重くのしかかっていた。
翌朝、医務室へ向かう足取りは、すでに重かった。扉を開ける前から、嫌な予感が胸に張りついている。
中に入ると、その予感はすぐに現実へと変わった。
囲いの中で、ラティスが再び暴れている。拳を振るい、土の壁に叩きつける衝撃音が響く。
ノエルは糸を吐き、囲いの内側を覆うように網を張り巡らせている。
ディラドは鋭く変質した爪を振り回し、獣のような呼吸を繰り返していた。
昨日、確かに止めたはずだった。
それでも、朝になると再発する。
教師たちが距離を取りながら俺を見る。言葉はない。だが、期待と不安が混じった視線が集まる。
俺は囲いの手前に立ち、三人の魔力へ意識を向ける。暴走している。魔物のような質を帯びた魔力が、表層を覆っている。昨日と同じ構図だ。
止められる。だが、消せない。
その事実が、静かに胸を締めつける。
「……ハーモニック・リコンストラクション」
声に出して発動する。調律の律動を重ね、乱れた流れへ滑り込ませる。暴れる波を包み込み、強制的に整えていく。
ラティスの動きが鈍る。拳が壁から離れ、膝が揺れる。ノエルの糸が垂れ落ち、張りつめていた緊張が緩む。ディラドの爪が震え、力が抜ける。
暴走が、鎮まる。魔物のような魔力が、霧散する。
三人は同時に崩れ落ちる。囲いの中に静寂が戻る。
俺はすぐに魔力を確認する。整っている。暴走は止まっている。少なくとも今は、完全に。
だが……それだけだ。
原因は消えていない。根は残っている。
昨日と同じ。今日も止めただけ。明日また再発する可能性は高い。
教師の一人が低く呟く。
「これで……本当に大丈夫なのか」
大丈夫ではない。だが、今できるのはここまでだ。
三人は横たえられ、呼吸を整えている。顔から狂気の色は消え、穏やかですらある。その姿は、数分前まで暴れていた人間と同一だとは思えないほどだ。
俺は一歩下がり、囲いを見つめる。
止められる。だが治せない。
調律は、暴走を正常化させ、魔物のような魔力を消失させる。しかし、再発を防ぐことはできていない。根源は別の場所にある。
時間との戦いだ。
もし再発の間隔が短くなったら。もし暴走が強くなったら。もし調律が効かなくなったら。
最悪の想像が、頭をよぎる。
俺は拳を軽く握りしめた。
今は、毎日止め続けるしかない。
それが治療と呼べるのかは分からない。それでも、止めなければ、三人は完全に飲み込まれてしまう。
医務室の窓から差し込む朝の光が、静かに床を照らしていた。
明日も、同じ朝が来る。
そしてまた、同じことを繰り返すのかもしれない。
その予感だけが、確実に重みを増していた。
医務室を出たあとも、思考は囲いの中に置き去りのままだった。
止められる。だが、治せない。
その事実が、頭の中で何度も反響する。
リリィの言葉がよみがえる。魔霧は魔力の弱い者ほど影響を受けやすい……と。
だが、それをそのまま当てはめていいのかは分からない。
ラティスは決して魔力が弱いわけではない。荒々しいが、上位魔術を使いこなす実力はある。ノエルも同様だ。理性的で制御も安定している。ディラドは確かに二人に比べれば劣るかもしれないが、それでも学院に在籍するだけの水準はある。
単純な「強弱」だけでは説明しきれない。
それでも、差はある。
サラサは聖位の癒しと水を持つ。あの霧の中にいたにもかかわらず、何も起きていない。
偶然か。適性か。総魔力量か。それとも精神の在り方か。
魔物化の引き金は、魔力そのものだけではないのかもしれない。
森での恐怖。敗北の瞬間。自分が魔物にやられたという記憶。
ラティスはハイオークに殴られたと言った。ノエルは毒糸。ディラドは毒針。
それぞれが、自分を襲った魔物の影を口にしている。
そして再発時、三人はまるでその魔物をなぞるような挙動を示す。
偶然にしては、重なりすぎている。
恐怖が魔力に影響を与えることはある。強い感情は流れを乱す。暴走のきっかけになることもある。
だが、それがここまで明確な“形”を持つだろうか。
俺は立ち止まり、窓の外を見た。
もし魔霧が、ただ魔力を乱すだけでなく、“型”を刻む性質を持っていたとしたら。
浴びた者の中で、恐怖や記憶と結びつき、魔物のような魔力へと変質する……そんな可能性も、否定はできない。
だが、それは仮説に過ぎない。
証明はできないし、断定もできない。
ただ一つ確かなのは、三人の魔力は再発時、明らかに魔物のような質を帯びているということ。そして、ハーモニック・リコンストラクションでそれを剥がせるということ。
根本原因が、魔霧そのものにあるのか。恐怖にあるのか。魔力の強弱にあるのか。それとも、もっと別の要因か。
まだ見えない。見えないまま、朝は来る。
俺は小さく息を吐いた。考え続けるしかない。
止めることはできる。ならば、止め続ける。
原因を見つけるまでは、それしかない。




