学院2年サラサ編 第七十九章 人間の魔物化④ サラサとの会話
三人の話を一通り聞き終え、俺は囲いの外から改めて彼らを見渡した。
ラティスは腕を組み、苛立ちを隠そうともせず天井を睨んでいる。
ノエルは背筋を伸ばし、状況を受け入れようと理性的に振る舞っている。
そしてディラドは、いまだに肩をすぼめ、不安げに視線を落としている。
同じ森に入り、同じ霧に包まれ、同じように倒れたはずの三人だが、今ここにある表情はまるで違っていた。
ラティスは力を誇る者らしく、自分が魔物に打ち負かされたという事実が許せないのだろう。
ノエルは冷静さを保ちながらも、癒し魔術が効かないという不可解さに怒りを覚えている。
一方でディラドは、ただ恐怖を引きずっている。三者三様、性格も反応もばらばらだ。
共通しているのは、あの霧の中で倒れたという事実と、夜に“異変”を起こしたという結果だけだ。
「三人とも、暴れていた時の記憶はないんだな」
念のために確認すると、ラティスは不機嫌そうに「そんなもん覚えてたらもっと腹立つだろ」と吐き捨て、ノエルは小さく首を振り、ディラドは顔を青くして「覚えてない」と呟いた。そこに嘘の気配はない。少なくとも今は、意識も言動も正常だ。
俺は慎重に魔力を感じ取る。表面に見える範囲では、昨日のような異質な波立ちはない。魔物のような荒れた気配も、魔力暴走の兆候も、今は沈んでいる。ただ、完全に消えたと断言できるほど、俺は楽観できなかった。昨日も夜までは問題がなかったのだ。
三人の言葉を並べてみても、直接的な共通点は見つからない。ラティスは力への執着、ノエルは理性的な疑問、ディラドは純粋な恐怖。それぞれが違う方向を向いている。魔物化の引き金が精神状態にあるのか、魔力の強弱にあるのか、それとも別の要因なのか、今の情報だけでは判断できない。
「今日はもう無理せず休んでいろ」
そう告げると、ラティスは不満そうに舌打ちし、ノエルは小さく頷き、ディラドはほっとしたように息をついた。囲いの外に立つ教師と目を合わせ、現状に変化がないことを確認する。
少なくとも今は、三人とも魔物化していない。魔物のような行動もなく、魔力暴走も見られない。だが、それが安心材料になるとは限らない。昨夜も、消灯までは何事もなかったのだ。
「また来るよ」
そう言って踵を返す。扉に手をかけた、その時だった。
背後で、静かな足音が止まる。
振り向いた先に立っていたのは、サラサだった。
両手には、包みに入った僅かな差し入れと、小さな花束。派手さはないが、丁寧に選ばれたことが分かる控えめな色合いの花だ。医務室という場所には不釣り合いなほど、静かで柔らかな空気をまとっている。
「……お見舞い?」
俺がそう声をかけると、サラサは一歩前に出て、深く頭を下げた。
「ルーメンさん。この前は、命を救っていただき、本当にありがとうございました」
その礼は形式的なものではなかった。背筋を伸ばしたまま、しばらく頭を下げ続ける姿に、彼女の誠実さが滲んでいる。
「礼はもういいよ。あの時は、俺が近くにいただけだ」
そう言っても、サラサはすぐには顔を上げなかった。
「いえ……それでも、助けていただいた事実は変わりません。きちんとお礼を申し上げたかったのです」
ようやく顔を上げたその瞳には、疲労と、そして消えない自責の色が混ざっていた。
「三人とも、まだ魔物化はしていないよ。今は落ち着いている」
俺が状況を伝えると、サラサは小さく安堵の息を漏らした。しかし、その安堵は長くは続かない。すぐに視線を囲いの中へ向け、唇を引き結ぶ。
「……毎日、来ています」
ぽつりと、そう言った。
「せめて、顔だけでも見ようと思いまして。差し入れも……本当に、ささやかなものですが」
花束を胸に抱く手に、力がこもる。
三人がそれぞれ違う反応を示していたのに対し、サラサは静かに、しかし確実に責任を背負い込んでいる。その在り方は、どこか彼女らしい。強さは声を荒げることではなく、こうして毎日足を運ぶことなのかもしれない。
「リーダーだったのは、私ですから」
その一言に、重みがあった。
森で引き返す判断をしたのも、救難信号を出したのも、彼女だ。だが結果として三人は倒れ、夜には異常を起こした。その事実が、彼女の中で繰り返し反芻されているのだろう。
囲いの中では、ラティスが不満そうに横を向き、ノエルは静かに様子を見つめ、ディラドは視線を伏せている。三人の姿と、入口に立つサラサの姿が、妙に対照的に見えた。
「……サラサさん」
俺はゆっくりと呼びかける。
彼女はすぐに姿勢を正した。
「はい」
声はしっかりしている。だが、その奥にある張り詰めたものは、まだ解けていない。
医務室の空気は、穏やかでいて、どこか重かった。暴走も、魔物のような行動も、今はない。それでも、この静けさがいつまで続くのか分からないという事実が、全員の胸の奥に残っている。
サラサは花を小さな卓の上に置き、三人の方へ静かに歩み寄った。
その背中を見ながら、俺は改めて思う。
この異常は、三人だけの問題ではない。だが、今この場で一番、自分を責めているのは……間違いなく、彼女だった。
サラサは、花束を静かに机に置いたあと、両手を胸の前で重ねた。その仕草はいつも通り丁寧だったが、その指先には力が入りすぎている。白くなるほど握り締めているのが分かった。
「……私が、もっと早く判断できていれば」
ぽつりと落ちた言葉は、誰に向けたものでもない独り言のようだった。
「もっと強く制止していれば。もっと警戒を徹底していれば。もっと……」
言葉が続かない。喉の奥で詰まり、呼吸が浅くなる。
「私はリーダーでした。皆をまとめる立場でした。それなのに、三人を守ることができませんでした」
視線は床に落ちたままだ。強い者が弱さを見せる時の、それでも崩れない姿勢が、かえって痛々しい。
「毎日、考えてしまうんです。あの時、私が中央に近づかせなければ。霧が出た瞬間にもっと違う指示を出していれば。救難信号をもっと早く出していれば……」
彼女の中では、何度も何度もあの日がやり直されているのだろう。
だが、どの分岐を辿っても、結果は変わらない。そう理解しているからこそ、余計に苦しい。
「先生方から……治らない可能性もある、と言われました」
その一言で、空気が重くなる。
「もし、本当に戻らなかったら。ラティスさんも、ノエルさんも、ディラドさんも……将来が閉ざされるかもしれません」
震える声を抑え込もうとして、唇を強く噛んでいる。
「その時、私はどうやって、ご家族に顔向けをすればいいのでしょうか」
男爵令嬢として育ってきた彼女にとって、責任という言葉は重い。ただの言葉ではなく、実際に背負うべきものとして教育されてきたはずだ。
「私は、毎日ここに来ています。少しでも罪を償えるならと……」
花束を持ってくることも、差し入れを用意することも、本当は何の解決にもならないと分かっているのだろう。それでも、何もしないでいることができないのだ。
「申し訳ない気持ちで、いっぱいなんです」
その言葉に嘘はない。
自分が助かったことすら、彼女にとっては重荷になっている。
なぜ自分だけ無事だったのか。
なぜ三人はああなってしまったのか。
答えのない問いを抱えたまま、彼女は立っている。
俺はすぐには言葉を返さなかった。
否定するのは簡単だ。
「君のせいじゃない」と言えば、表面上はそれで済む。
だが、今の彼女に必要なのは、軽い否定ではない。
「……怖かったんだよな」
そう言うと、サラサはわずかに顔を上げた。
「霧の中で、仲間が倒れていくのを見て。自分ではどうにもならなくて。あの状況で冷静でいられる人間の方が、少ない」
彼女は何も言わない。ただ、じっと聞いている。
「責任を感じるのは、ちゃんとリーダーだった証拠だと思う」
俺は静かに続ける。
「何も感じなかったら、それこそ問題だ」
サラサの目に、かすかな揺れが走る。
「だから……その気持ちは否定しない」
ここで初めて、彼女の視線が俺に向いた。
「でも、それを一人で全部背負う必要はない」
それ以上は言わない。学院の責任だとか、教師の判断だとか、理屈は今は出さない。
ただ、彼女の感情を受け止める。
「責任を感じるのは、普通だ。間違ってない」
そう言うと、サラサはゆっくりと息を吐いた。張り詰めていた糸が、わずかに緩む。
「……ありがとうございます」
その声は小さいが、少しだけ重さが減っていた。
まだ何も解決していない。
三人の状態も、原因も、分からないままだ。
それでも、この瞬間だけは、彼女の肩に乗っていた重さが、ほんの少しだけ軽くなった気がした。
サラサの肩の震えが、ゆっくりと収まっていくのを見届けてから、俺は改めて言葉を選んだ。
「さっきも言ったけど、あの状況は誰にも予測できなかった」
静かに、断言する。
「あの霧も、あの数の魔物も、通常の訓練ではありえない。君は規則通り中央で引き返そうとしたし、救難信号も出した。やるべきことは、全部やっている」
サラサは小さく視線を伏せた。
「ですが、結果が……」
「結果まで一人で背負うのは、違う」
少しだけ語調を強める。
「あれは学院全体の管理下で行われた訓練だ。異常事態が起きたなら、学院が対応すべきことだ。個人が責められる話じゃない」
彼女はすぐには頷かなかった。それでも、反論もしなかった。
自責の念は、理屈だけでは消えない。それは分かっている。
だからこそ、話題を少しだけずらした。
「……そういえば、サラサさん」
彼女が顔を上げる。
「職業判定って、どういう結果だった?」
唐突に聞かれたようで、一瞬だけきょとんとした顔をした。
「職業判定、ですか?」
「うん。リーダーを任されるくらいだから、相当だとは思ってたけど」
ほんの少し、場の空気を和らげるつもりで言うと、サラサは控えめに答えた。
「宮廷魔術師、と判定されました」
淡々とした口調だが、その内容は決して軽くない。
宮廷魔術師。王都直属の魔術師団に連なる、選抜された資質の証だ。
「魔術の階位は?」
「癒し魔術と水魔術が聖位です。他は上位止まりですが……」
そこまで言って、彼女は不安げに俺を見る。
「それが、何か関係しているのでしょうか」
俺はすぐに答えなかった。
癒し聖位、水聖位。しかも宮廷魔術師判定。
魔力量も質も、学院内では上位に位置するはずだ。
三人はどうだったか。
ラティスとノエルは冒険者判定。
ディラドは魔導具師判定。
単純な優劣の話ではない。だが……。
「……可能性の話だよ」
そう前置きしてから、ゆっくりと言う。
「今回の現象が、何らかの魔力干渉だとしたら、影響の受け方に差が出ることはあるかもしれない」
断定はしない。確証はない。
ただ、事実として、三人は異常を起こし、サラサは起こしていない。
「でも、それが理由だとは言い切れない。まだ分からないことだらけだ」
俺ははっきりと付け加えた。
サラサは少しだけ考え込む。
「……私は、特別なことは何もしていません。ただ必死で魔術を使っていただけです」
「それで十分だよ」
聖位の癒しと水。
それを“何でもないこと”のように言えるのは、積み重ねてきた努力があるからだ。
俺は内心で一つの仮説を浮かべる。
魔力の総量か。
魔術の階位か。
それとも、精神の安定か。
だが、それを口にすることはしなかった。
今はまだ、材料が足りない。
「……少し、気持ちは軽くなりました」
サラサが小さく言う。
「でも、完全には消えませんね」
「それでいいと思う。消そうとしなくていい。抱えたままでも、前に進めればそれでいい」
彼女は、ようやくほんの少しだけ微笑んだ。
強い。本当に強い人間は、泣かない人間じゃない。
揺れながら立ち続けられる人間だ。
三人とサラサ。同じ霧の中にいた四人。
だが、今の立ち位置はまるで違う。
その差が何によるものなのか……。
まだ、答えは出ない。だが、確かに何かがある。
俺はその曖昧な輪郭を胸に留めたまま、次に起こるであろう変化を待つしかなかった。
医務室を出て廊下を歩きながら、さきほどの会話を頭の中で反芻していた。宮廷魔術師判定、癒しと水が聖位。他は上位。それだけの情報で結論を出すのは早計だが、無視できない差ではある。
三人とサラサは、同じ霧の中にいた。同じ魔物の群れに囲まれ、同じ時間を共有していた。それなのに、結果は明確に分かれている。三人は魔物のような行動と魔力暴走を繰り返し、サラサにはその兆候が一切ない。
単純に魔力量の差だろうか。聖位を二属性持つということは、魔力の総量も質も高い可能性がある。魔霧が魔力に干渉する現象だとすれば、影響の深さに差が出てもおかしくはない。だが、それだけで説明できるだろうか。
ラティスもノエルも、決して魔力が弱いわけではない。冒険者判定を受けている時点で、一定以上の資質はあるはずだ。ディラドは中位止まりの属性もあるが、上位を扱える魔術もある。極端な差とは言い難い。
それなら、魔術の適性か。癒し属性や水属性は、魔力の循環や浄化に関わる性質が強い。もし魔霧が外部からの干渉であるなら、内側から整える力を強く持つ者は、侵食を受けにくい可能性もある。だが、それも仮説に過ぎない。
あるいは、精神の在り方か。恐怖、焦燥、後悔。霧の中で何を強く抱いたかが、影響に関わった可能性も否定できない。ディラドの怯え、ラティスの苛立ち、ノエルの自尊心。それぞれの感情が、魔力の揺らぎと結びついたのかもしれない。
だが、どれも決定打ではない。確証がない以上、口にするべきではないし、まして本人たちに示唆するべきでもない。
ただ一つ、はっきりしていることがある。三人の中で起きているのは、単なる精神異常でも、通常の魔力暴走でもない。魔物のような魔力と行動を伴う異常だ。
そして、それを一時的に止められるのは、今のところハーモニック・リコンストラクションだけだ。
止められる。だが、治せてはいない。
その事実が、静かに重くのしかかる。
原因は外にあるのか。すでに内側に根を下ろしているのか。それとも、まだ解明していない別の要因があるのか。
答えは見えない。それでも、何も考えずに繰り返すだけでは、いつか手遅れになるかもしれない。
仮説はまだ種の段階だ。形にもなっていない。ただ、差があるという事実だけが、確かに存在している。その差を見落とさないことだけは、忘れてはいけないと感じていた。
廊下の窓から差し込む光が、やけに白く見えた。霧は晴れているはずなのに、頭の中だけがまだ薄く霞んでいるようだった。




