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学院2年サラサ編 第七十九章 人間の魔物化③ 医務室訪問

俺は毎朝医務室へ足を運ぶことにした。昨日の再発を受けて、学院側も警戒を強めているはずだが、廊下を歩く生徒たちの様子は普段と変わらない。笑い声も、授業の準備に急ぐ足音も、何事もなかったかのように響いている。その日常の中に、三人だけが切り離された存在として置かれているのだと思うと、胸の奥がわずかに重くなった。


医務室の前には、念のため配置された教師が一人立っていた。軽く会釈を交わし、扉を開ける。中には薬草の匂いと、昨夜の緊張をまだ引きずっているような静けさがあった。


土魔術で作られた強靭な囲いは、そのまま残されている。内側には三つの寝具と簡素な机。まるで簡易の隔離室だ。だが、その中にいる三人の様子は、昨日見たあの狂気じみた姿とはまるで違っていた。


ラティスは壁にもたれ、腕を組んでいる。ノエルは椅子に腰掛け、窓の外を見ている。ディラドは膝を抱えるようにして座っていた。いずれも、目に理性の光がある。荒い呼吸も、意味不明な叫び声もない。


「おはよう」

俺が声をかけると、三人は同時にこちらを見た。

「……ルーメンか」

ラティスが低く言う。その声は、確かに人間の声だった。


まずは状況の確認だ。囲いの縁に近づきすぎない距離で立ち、魔力の気配を探る。今この瞬間、魔物のような異質な膨張は感じられない。魔力暴走の兆候もない。少なくとも表面上は、安定している。


「体調は?」

「別に悪くない。普通だ」

ラティスは苛立ちを含ませながら答える。

ノエルも肩をすくめた。「熱もないし、頭もはっきりしてるわ。ただ、出してもらえないだけ」

ディラドは小さく頷くだけだが、昨日のような怯えきった瞳ではない。


「昨日のこと、どこまで覚えてる?」

問いかけると、三人は互いに顔を見合わせた。

「森で霧が出て、囲まれたところまでは覚えてる」

ラティスが言う。

「そのあと……ハイオークに殴られたのは覚えてる。でも、それから先がない」

ノエルも続ける。「私もよ。毒糸に絡まれたところまで。それ以降は、気づいたら医務室だった」

ディラドは震える声で言った。「僕は……キラービーに刺されたところで……そこからは、何も」


三人とも、暴れていた時間の記憶はないらしい。自分たちが人間離れした力で暴れ回ったことも、毒糸を吐いたことも、毒針のような爪で襲ったことも、すべて空白だ。


「暴れたって聞いたけど……本当なのか?」

ラティスが眉をひそめる。

「俺が?そんなこと、するわけないだろ」

否定の色はあるが、強がりではない。本当に知らない顔だ。


医務室の空気は静かだ。昨日の惨状を思えば、あまりにも穏やかすぎる。だからこそ不気味でもある。

三人の様子を改めて観察する。瞳の焦点、手指の動き、呼吸のリズム。異常は見当たらない。魔物化している兆候も、魔力暴走も、今はない。


「今のところは、落ち着いてるみたいだね」

俺がそう言うと、ノエルが鋭くこちらを見た。

「“今のところは”って何?」

その問いに、はっきりとした答えは出せない。

「念のためだよ。原因が分かっていない以上、慎重になるしかない」


三人とも黙り込む。囲いの内側にいるという現実が、静かに圧し掛かっているのだろう。

だが少なくとも、この瞬間、彼らは人間だ。会話が成立し、思考も整っている。

それを確認できただけで、今日の訪問には意味があった。


「また様子を見に来るよ」

そう告げて踵を返す。背後からラティスの不満げな舌打ちが聞こえ、ノエルの小さな溜息が続き、ディラドのか細い「……うん」という声が重なった。

扉を閉める直前、もう一度振り返る。囲いの中で、それぞれがそれぞれの表情を浮かべている。

今はまだ、静かな時間だ。

だがこの静けさが、いつまで続くのかは、誰にも分からない。


医務室に足を運んだ二日目も、三人は落ち着いていた。囲いの内側にいるという状況は変わらないが、暴れる様子もなく、魔力の異様な膨張も見られない。昨日と同じように会話は成立し、意識も明瞭だ。


だが、その「普通さ」が、逆にラティスの苛立ちを強めていた。

「なあ、いつまでここに閉じ込められるんだ?」

囲い越しに、ラティスが俺を睨む。声は荒く、抑えきれない焦燥が滲んでいる。

「俺は冒険者を目指してるんだ。あんな森の訓練で終わるわけないだろ」

その拳が、膝の上で強く握られているのが見えた。暴走している時の異様な力ではない。だが、悔しさを噛み締める若者の、真っ直ぐな怒りだ。


「あんな魔物に負けたんだぞ。ハイオークなんかに、殴られて気絶して、それで終わりだなんて……」

歯を食いしばる。視線は床に落ち、すぐにまた上がる。

「悔しいんだよ」

その言葉は、嘘のない本音だった。

魔物化して暴れ回ったことは覚えていない。だが、森で倒された事実は残っている。自分の力不足を突きつけられた瞬間の記憶は、消えていないのだ。


「それに、何で癒し魔術で治らないんだ?」

ラティスは囲いの外に立つ教師へと視線を向け、それから俺を見る。

「聖位だの神位だの、すごいって言われてる魔術があるんだろ?だったらさっさと治せよ。今の俺は普通だ。頭もはっきりしてるし、体も動く。なのに出してくれない」

苛立ちの矛先は、状況そのものに向いている。閉じ込められていることへの反発。無力感への怒り。


「俺は魔物じゃない」

低く、強く言い切る。

その言葉に、俺は返答を選ぶ。

「分かってるよ。今は、ね」

「“今は”って何だよ」

すぐさま噛みつくような反応が返ってくる。


「一昨日のこと、覚えてないんだろ?」

「覚えてない」

「でも、それが俺じゃないってことぐらい分かる。俺が理由もなく暴れるわけない」

ラティスは力を誇る性格だ。強い相手と戦い、勝ち、実力を示したい。その欲求は隠そうともしない。だが、それは正面からの勝負への欲求であって、無差別に暴れることとは違う。


「俺は、あんなふうにはならない」

言葉に、自尊心が宿っている。

囲いの内側にいることが、彼の誇りを傷つけているのだ。仲間と同じように学院を歩き、鍛錬を続け、次の試験に備えるべき立場のはずなのに、今は隔離されている。その事実が、何より耐え難いのだろう。


「早くここから出してほしい」

最後は、怒鳴るのではなく、押し殺した声だった。

その一言に、焦りと不安が混ざる。

冒険者を目指す者にとって、立ち止まる時間は恐怖だ。置いていかれるのではないかという焦り。評価が下がるのではないかという不安。仲間に遅れるのではないかという恐れ。

今のラティスは、魔物のような挙動を見せる存在ではなく、ただの青年だ。悔しさに震え、未来を急ぎ、囲いの中にいる自分を認めたくない青年。


俺は囲いの縁から一歩距離を取り、静かに言った。

「すぐに出せるかどうかは、俺の判断だけでは決められない。でも、様子は毎日見に来る」

「……毎日?」

「ああ」

ラティスはしばらく俺を睨んでいたが、やがて視線を逸らした。

「だったら、ちゃんと見ろよ。俺が普通だってこと」

その言葉に、強がりと期待が混ざっているのを感じる。


囲いの中にいる三人のうち、ラティスは最も声が大きい。最も怒りを表に出す。だが、それは魔物化とは無関係の、彼自身の気質だ。

焦り。誇り。負けず嫌い。

その性格が、今はただ、閉じ込められている状況に向けられているだけだ。


俺はもう一度、彼の魔力の気配を確かめる。今は安定している。異質な濁りもない。

だが、朝が来れば……。

その先は、まだ考えないことにした。


ラティスの荒々しい感情が医務室に残る中、もう一人は対照的だった。

ノエルは囲いの内側の椅子に腰かけ、背筋を伸ばして座っている。ラティスのように拳を握り締めることも、苛立ちを露わにすることもない。だが、その瞳の奥には、静かな怒りが宿っていた。


「ルーメン」

彼女は落ち着いた声で俺を呼ぶ。


「あなたは、一昨日の私たちを見たのでしょう?」

「見た」

短く答える。

「なら、分かるはずよ。あれは私の意思じゃない」

その言葉には強い自負があった。

「私は自分の魔術を制御できる。感情に任せて暴れるような真似はしない」

声は穏やかだが、言い切り方に迷いはない。


ノエルは理性的な性格だ。戦いにおいても感情を前面に出すタイプではなく、状況を見極め、最適解を選ぶことを重視する。冒険者を志望しているとはいえ、ラティスのような直情型ではない。

「なのに、神位の癒し魔術まで効かないなんて……」

そこで初めて、わずかな揺らぎが見えた。

「理由が分からないのが、一番嫌なの」

彼女は両手を膝の上で組み、視線を落とす。


「何が起きているのか説明されないまま、囲われて、隔離されて、様子を見ると言われるだけ。理屈がないのは不安になるわ」

それは怒りというより、納得できないことへの反発だった。


「もし私に異常があるなら、はっきり言ってほしい。治らないなら治らないで、対処法を示してほしい」

目が真っ直ぐ俺を射抜く。

「でも、今の私は普通でしょう?」

その問いに、俺は返答できない。


「今は、そうだ」

慎重に言葉を選ぶ。

ノエルは小さく息を吐いた。

「だったら、早く外に出たい」

声は強くない。だが、揺らがない。

「冒険者を目指しているのに、訓練もできないなんて、本末転倒だもの」

彼女にとって重要なのは、誇示ではない。積み重ねだ。経験を積み、実力を高め、正当に評価されること。その道筋が断たれることが耐えられないのだ。


「それに……」

わずかに言葉を区切る。

「魔物に負けたこと自体は、悔しいけれど、受け入れられる。実力不足なら、鍛えればいい。でも、自分でも覚えていない“何か”で暴れたと言われるのは、納得できないわ」

そこにあるのは、恐怖よりも理性だ。

ラティスは感情を爆発させるが、ノエルは理屈で状況を整理しようとする。理解できない現象を、そのままにしておけない性格。


「私は、私でありたいの」

ぽつりと落ちた言葉は、静かだった。

囲いの内側にいるという事実は、彼女の自尊心を傷つけている。だが、それ以上に、説明のつかない現象に巻き込まれていることが許せないのだろう。


俺は囲いの外から、魔力の気配を探る。今は安定している。暴走も、異質な膨張も見られない。

「記憶は?」

念のため確認する。

「森で霧が出て、魔物に囲まれて、それぞれ戦ったところまでは覚えているわ。その後は……途切れてる」

淡々とした報告。

そこに嘘は感じない。

ノエルは魔物化していた間の記憶を持っていない。それはラティスと同じだ。暴れ回った事実だけが、外側から語られている。


「私はあんなこと、望んでいない」

静かな断言。

その姿は、今この瞬間に限れば、まったく“魔物”とは結びつかない。冷静で、理性的で、誇りを持った一人の魔術師だ。

だが、朝が来ればどうなるのか。

その答えを、俺はすでに知っている。

だからこそ、今は何も言わない。

ノエルの理性は、まだ保たれている。

それがいつまで続くのか……それを確かめるのが、俺の役目だった。


ラティスの苛立ち、ノエルの理性。そのどちらとも違う空気が、部屋の隅にあった。

ディラドはベッドの端に腰かけたまま、両腕で自分の身体を抱きしめるように丸まっている。視線は床に落ち、時折びくりと肩が跳ねる。誰かに話しかけられることを待っているようで、同時に、話しかけられるのを恐れているようでもあった。


「ディラド」

俺が声をかけると、彼ははっと顔を上げた。

「……ルーメン?」

安堵と不安が入り混じった目。

「体調はどうだ」

「……分からない」

小さな声だった。

「今は……今は、普通だと思う。でも……」

そこで言葉が途切れる。喉がひくりと動く。


「霧の中でさ……あれ、覚えてるんだ」

ラティスやノエルと違い、彼は“戦闘の断片”を強く覚えているらしい。

「音がいっぱいして……足音とか、羽音とか、何かが地面を擦る音とか……どこから来るのか分からなくて」

指先が震えている。


「あんな数、聞いたことないよ。前も後ろも、右も左も、全部敵でさ……」

視線が遠くを見つめる。

「僕、動けなかった」

その一言に、全てが込められていた。

「怖くて……怖くて、魔術を撃つことも忘れて、頭が真っ白になって……」

ディラドは魔導具師志望だ。戦闘を主軸にする職ではない。土魔術と癒し魔術は中位止まり、他は上位まで届いているとはいえ、実戦経験は浅い。


「キラービーが来たのも覚えてる。針が刺さって……身体が熱くなって……」

喉が詰まり、言葉が途切れる。

「その後は、覚えてない。でも、みんなが言うんだ。僕が暴れてたって」

恐る恐る俺を見る。


「本当なの?」

嘘をつく理由はない。

「ああ」

正直に答える。

ディラドの顔から血の気が引いた。

「僕が……?」

「今は普通だ。今は魔力も安定している」


それを聞いても、彼の震えは止まらない。

「嫌だよ……」

ぽつりと漏れた声は、子供のようだった。

「もう森なんて行きたくない。あんな訓練、二度と嫌だ」

その言葉に、強がりはない。冒険者としての矜持も、理性的な分析もない。ただ純粋な恐怖だけがある。


「怖いんだ」

彼は繰り返す。

「大群が襲ってきて、霧で何も見えなくて……自分が何してるか分からなくなって……」

両手で頭を押さえる。

「またああなるんじゃないかって思うと、眠れない」

医務室の静けさの中で、その声だけが重く響く。


ラティスは悔しさを前に出し、ノエルは理性を保とうとする。だがディラドは違う。彼は恐怖を隠せない。

俺はふと、リリィの言葉を思い出す。

魔力の弱い者ほど、影響を受けやすい。

それは単純な総量の話なのか。それとも、精神の揺らぎも含まれるのか。


断定はできない。

だが、三人の中で最も恐怖を引きずっているのは、明らかにディラドだった。

「今は安全だ」

そう告げる。

「ここには教師もいる。囲いもある。魔物は来ない」

ディラドはゆっくりと頷くが、その目の奥に残る影は消えない。


今は魔物化していない。魔力も落ち着いている。だが、朝が来ればどうなるかは分からない。

三者三様。悔しさ、理性、恐怖。

そこに共通するものは見えない。それでも、同じ現象が起きる。

俺は囲いの外で、静かに息を吐いた。まだ、何も掴めていない。


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