学院2年サラサ編 第七十九章 人間の魔物化② リリィの発見
研究室の扉を開けた瞬間、空気の温度がいつもと違うことに気づいた。静かなはずの部屋に、張り詰めた熱がある。
「ルーメン、ルーメン!」
呼びかけは弾んでいた。振り向いたリリィの瞳は、子供のように輝いている。
「大発見ですよ」
その声には抑えきれない興奮が混じっていた。
俺は一瞬、三人の件かと思ったが、リリィは机の上に置かれた小さな死骸を指差した。あの、虫のように小さな魔物……森で回収した個体だ。
「ミスティムーアに残されていた魔霧の発生部位を詳しく調べました」
白布の上に広げられた個体は、乾き、縮み、しかし確かに異質な構造を持っていた。背部の微細な器官。そこに残る、薄く濁った魔力の残滓。
「この魔霧には、視覚を奪う効果だけではありません」
リリィは一呼吸置き、はっきりと言った。
「人間を魔物化する力があります」
その言葉は、研究室の静寂を裂く。
魔物化。
俺の背筋が冷たくなる。
「小さな個体ですから、影響は限定的だと思います。ただし……」
リリィの声は落ち着いているが、その内容は穏やかではない。
「魔力の弱い人間ほど、影響を受けやすいようです。魔力構造が不安定な者ほど、侵食が進みやすいと考えられます」
その瞬間、霧の中で見た光景が脳裏に浮かぶ。
暴れ回るラティス。
毒糸を吐くノエル。
毒針のような爪を振るうディラド。
魔物みたいな……ではない。
魔物化。
「……そういうことか」
胸の奥で、何かが噛み合う。
あれは“似ている”のではなかった。変質していたのだ。
俺は、静かに息を吐いた。
森で起きた異常と、学院での暴走。それが一本の線で繋がる。
霧は、ただの視界妨害ではなかった。それは……侵食だった。
「……魔物化、ですか」
自分の口から出た言葉が、どこか遠く感じられた。
研究室の窓から差し込む光は穏やかだ。外ではいつも通りの学院の時間が流れているはずなのに、この部屋の中だけが別の世界に切り取られたように静まり返っている。
机の上には、解体されたミスティムーアの小さな器官。そこから抽出された、かすかな魔霧の残滓。目には見えないほどの量だが、確かにそこにある。
「あの三人は……」
言いかけて、言葉が止まる。
魔物のように暴れ、理性を失い、意思疎通もできなかった。だが、魔力に触れたとき、完全な魔物のそれとは違う感覚があった。人間の魔力を土台にした、歪んだ状態。
「じゃあ、魔物化した人間は……魔物と区別がつかなくなるんですか?」
自分でも声がわずかに低くなっているのが分かる。
もし完全に区別がつかなくなるのなら……それは、もはや討伐対象と変わらないということだ。
リリィは少しだけ目を伏せ、理論を整理するように言葉を選んだ。
「進行度によりますが、外見や行動が魔物に近づく可能性はあります。理性が崩れ、魔力構造が変質すれば、判別は困難になるでしょう」
淡々とした説明だが、その意味は重い。
「……治す方法はありますか?」
俺は一歩踏み込む。
「魔物化した人間を元に戻す魔術とかは」
それがあるなら、まだ救いはある。
だが、リリィは静かに首を横に振った。
「存在しません。癒し魔術の神位でも無理ですね」
言葉は丁寧だが、断定的だった。
神位でも、無理。その事実が、胸の奥に沈む。
「じゃあ……魔物化の途中だったらどうですか?」
完全ではない、進行途中なら。
まだ人間の部分が残っている段階なら。
リリィは迷いなく答えた。
「それも同様です。元には戻らず、魔物化が進むだけです」
静かな宣告だった。
理論としては理解できる。魔力構造が変質を始めれば、それは侵食であり、崩壊だ。癒しは“回復”であって、“構造の再定義”ではない。
俺は言葉を失う。三人の顔が浮かぶ。
ラティスの悔しさ。ノエルの苛立ち。ディラドの怯え。
あの三人が、戻らない?
それが理論上の答えだというのか。
研究室の静寂が重くなる。
だが、その重さの中で、俺の頭の奥にひとつの違和感が灯る。
昨日、確かに……一晩だけとはいえ、戻っていた。
完全ではないにせよ、魔物のような魔力は消え、魔力暴走は収まり、行動も止まった。
理論では“戻らない”はずの状態が、俺の前では起きていた。
研究室の空気は、先ほどまでの理論的な静けさとは違う緊張を帯びていた。
「元には戻らない」
リリィの言葉は明確だった。魔物化は不可逆。神位の癒し魔術でも覆せない。途中段階でも同じ。
それが、この世界で確立された常識。
だが、俺の中には、どうしても引っかかる事実があった。
昨日、あの三人は確かに魔物のような行動をしていた。魔力も異質に変質し、暴走状態だった。だが、ハーモニック・リコンストラクションを施した後、魔物のような魔力は消え、魔力暴走も正常化した。
一晩だけとはいえ、戻った。
完全ではないかもしれない。だが、“不可逆”と言い切るには矛盾している。
「……なるほど」
俺は無意識に呟いていた。
「だからハーモニック・リコンストラクションでも、一晩だけでも元に戻ったのか」
声は小さかったはずだ。
だが、リリィの耳は鋭い。ぴたり、と動きが止まる。
そして、勢いよくこちらを振り向いた。
「ルーメン、調律魔術で一時的にでも、元に戻したのですか!?」
その瞳が見開かれる。驚きと、研究者としての興奮が一気に混ざった表情だった。
俺は一瞬、言うべきか迷った。だが、隠すことではない。
「あ、はい」
素直に答える。
「暴れている三人にハーモニック・リコンストラクションを施しました。魔物のような魔力は消えて、魔力暴走も収まりました。その後は意識を失いましたが、翌朝までは正常でした」
言いながら、自分でもその意味を噛み締める。
“翌朝までは”。
一晩という限定的な時間だが、それでも“元に戻った”。
リリィは数歩近づいてきた。
「それは……」
一度言葉を切り、深く息を吸う。
「それは世紀の大発見かもしれません」
研究室の空気が震える。
「一時的にでも元に戻したということは、魔物化は完全固定ではない可能性があります。進行を止められる、あるいは巻き戻せる余地があるということです」
理論が高速で組み立てられていくのが分かる。
「続けて施術すれば、魔物化を防げる可能性があります」
静かながら、確信を帯びた声だった。
俺はその言葉を反芻する。
防げる可能性。
「……そうなんですか?」
完全否定だった理論の中に、初めて差し込んだ光。
「わかりました。毎日様子を見に行きます」
三人を救える可能性があるなら、やるしかない。
リリィはゆっくりと頷いた。
「魔霧は、魔力の弱い人間ほど影響を受けやすいようです。継続的な調律で魔力構造を安定させ続ければ、魔物化の進行を抑え込めるかもしれません」
魔霧。魔物化。魔力の弱さ。
断片が繋がっていく。
そして同時に、胸の奥に小さな疑問が浮かぶ。
俺も、あの森でかなり魔霧を浴びた。
霧の中を歩き、魔物の群れを相手にし、中心部近くまで踏み込んだ。
なのに、俺には症状が出ていない。なぜだ?
魔力量の差か。適性の問題か。
それとも……まだ、発症していないだけなのか。
背筋を、冷たいものが走る。
研究室の窓の外は、いつも通りの朝の光だ。
だが俺の中には、静かに芽生えた不安があった。
俺は、本当に大丈夫なのだろうか。
研究室を出たあとも、リリィの言葉が頭から離れなかった。
魔霧は、魔力の弱い人間ほど魔物化しやすい。
そして、ハーモニック・リコンストラクションで一時的に戻せる可能性がある。
理論としては筋が通る。だが、それは裏を返せば、魔霧を浴びた人間は誰しも影響を受け得るということだ。
俺は、あの霧の中にいた。
四人を救出するために、中心部付近まで踏み込み、濃霧の中を進み、霧の発生源と思われる魔物を仕留めた。魔霧は確実に浴びている。
それなのに、俺には何も起きていない。
歩きながら、自分の魔力を静かに探る。
流れは安定している。暴走の兆候もない。魔物のような異質な魔力も感じない。
「……本当に?」
思わず小さく呟く。
症状が出ていないだけかもしれない。三人も最初は正常だった。夜になって発症した。
もし、遅れて発症するのだとしたら。
自分の中で、何かが静かに変質していたら。
考えすぎだ、と頭では分かっている。だが、魔物化という言葉は重い。人間が魔物に近づくという現象は、この世界の理の外にあるようでいて、実際には魔霧という媒介によって起こり得る。
理屈が分かっても、安心はできない。
自分は魔力が強いから大丈夫だ、と言い切るのは簡単だ。だが、魔霧がどの程度の時間、どの濃度で影響を及ぼすのか、まだ分かっていない。
もし、自分に何か起きたら。
その時、俺を止められる者はいるのか。
リリィか。大神官か。それとも……。
思考がそこまで進んだところで、俺は軽く首を振った。
今考えるべきことは、三人のことだ。
再発を止められるかどうか。ハーモニックを継続することで、魔物化を抑え込めるかどうか。
自分の不安に沈んでいる場合ではない。




