学院2年サラサ編 第七十八章 サラサパーティー3人の異常⑥ 囲いの中の様子
囲いの手前で立ち止まると、大神官が静かにこちらへ歩み寄ってきた。白い法衣の裾が床を擦る音だけが、張り詰めた空気の中でやけに鮮明に響く。
「ルーメン、状況は把握できたか?」
その声には焦りを抑え込んだ硬さがあった。長く大聖堂を預かってきた人物の声音だ。動揺を表に出さない訓練を積んでいる。
「聞いたように、状況は見ての通りだ」
囲いの中では、ラティスが壁を拳で叩きつけている。常人ではあり得ない力だ。土魔術で強化された壁が鈍く震え、砂塵がぱらりと落ちる。
「神位の癒し魔術を施したが、まるで効かぬ。聖水も同様だ。体内からの浄化も試みた。だが、変化はない」
大神官は低く続ける。
「言葉も通じぬ。目も合わぬ。理性が剥がれ落ちたようだ。まるで……」
そこで一瞬、言葉を選ぶ。
「まるで魔物のようだ」
その表現は、誇張ではなかった。ノエルは囲いの内側で低く唸りながら、口元から糸のようなものを吐き出している。ディラドも、腕を振るうたびに空気を裂く音がする。三人とも、以前の面影をほとんど感じさせない。
「神位でも効かない、ということは」
俺は静かに問いかける。
「肉体的損傷ではない、という判断ですか」
「そうだ」
大神官は頷いた。
「傷は塞がっている。毒も浄化されているはずだ。だが、行動は止まらぬ。意志が戻らぬ。癒し魔術は“壊れたもの”を元に戻す術だ。だが、壊れているのかどうかさえ分からぬ」
その言葉は重い。
癒しが効かないということは、癒す対象が特定できないということだ。
「暴れだしたのは夜半だと聞きました」
「そうだ。医務室で安静にしていたが、急にだ。最初は錯乱かと思ったが、様子が違う。力が異様に増していた」
大神官は囲いを見つめる。
「教師陣総出で制圧した。だが、制圧はできても、正気には戻らぬ」
彼の声は、責任を感じている者のものだった。大聖堂は最後の砦だ。そこでも解決できない事態は、異常の中でも異常だ。
「ルーメン、お前はどう見る」
問いは短い。だが、信頼を含んでいる。
俺はすぐに答えない。囲いの中の三人を改めて観察する。力の出し方、動きの質、視線の焦点。単なる狂乱とは違う、どこか統一感のない暴れ方。
「まだ断定はできません」
正直に言う。
「ですが、通常の負傷の延長ではないのは確かです」
大神官は小さく頷く。
「原因に心当たりはあるか」
俺は一瞬だけ、森の霧を思い出す。だが、口には出さない。まだ繋げるには材料が足りない。
「まずは、近くで確認します」
そう告げると、大神官は道を開けた。
「囲いの強度は保ってある。だが、無理はするな」
「分かっています」
囲いの手前まで進むと、内側から衝撃が伝わる。土の壁が微かに震え、その向こうでラティスが低く唸っている。
神位でも戻らない。
その事実が、空気をさらに重くしていた。
俺は深く息を吸い、意識を静かに整えた。
ここからは、観察だ。
土魔術で築かれた強靭な囲いの前に立つと、内側から鈍い衝撃が伝わってきた。拳が壁を打ちつける音だ。乾いた音ではない。骨と肉の重みを伴った、生々しい衝突音だった。
「ぐ……あぁぁっ!」
低く、喉の奥から絞り出すような声。理性のある人間の発声とは違う。言葉にならない唸り声が、囲いの中で反響している。
ラティスだった。
彼は壁に向かって拳を叩きつけ、蹴りを放ち、時には頭から突っ込むような動きさえ見せていた。普通なら自分の体が先に壊れる。しかし、彼は痛みを感じていないかのように、ただ衝動のままに暴れている。
腕の振り方が異様に重い。
一撃ごとに土の壁がわずかに軋み、魔術的に補強された表面に細かな亀裂が走る。教師陣が「人間離れしている」と言った意味が、見れば分かる。
ラティスの筋肉が、不自然なほどに膨張して見えた。皮膚の下で血管が浮き上がり、呼吸は荒く、目は焦点が合っていない。
「ラティス」
囲い越しに呼びかける。
反応はない。
いや、一瞬だけ視線がこちらに向いた。だが、そこに“認識”はなかった。敵を探す獣のような目だ。次の瞬間には、また壁へと拳を振るっている。
彼の動きには、統制がない。だが、ただの暴走とも違う。力任せに殴るだけではなく、踏み込みの重心移動がどこか洗練されている。まるで、自分より大きな存在の動きをなぞるように。
思い出すのは、森でサラサが語った言葉だ。
……ラティスはハイオークにやられた、と。
だが、俺はその連想をそこで止める。推測はまだ早い。
ラティスは突然、壁から離れ、囲いの中央に立った。そして両腕を広げるようにして、空気を掴む動作を繰り返す。何かを握り潰すかのような仕草だ。
「……力……」
かすれた声が漏れた。
言葉と呼べるものはそれだけだった。だが、その単語には執着が滲んでいる。強さを求める彼らしいと言えば、そうなのかもしれない。しかし、それは今の彼の意思なのかどうかは分からない。
再び壁へと突進する。
衝撃。囲いが大きく揺れ、周囲にいた教師が身構える。
「このままでは壁が持たぬかもしれん」
小声で誰かが言う。
だが、ラティスの攻撃は一定ではない。波のように強弱がある。力が溢れ出しているというより、制御できない何かに振り回されているようだった。
俺は目を細め、距離を保ったまま観察を続ける。
暴れているのは肉体だ。
だが、その奥にあるものは何だ。
理性は完全に消えているのか。それとも、どこかで閉じ込められているのか。
ラティスは突然、天井を見上げるように顔を上げた。口を大きく開き、声にならない叫びを上げる。その姿は、痛みに苦しむというより、内側から何かを吐き出そうとしているようにも見えた。
その瞬間、俺はわずかな違和感を覚える。
暴れ方が、単純な錯乱ではない。
だが、確証はない。
ラティスは再び地面を踏みしめ、壁へ向かって拳を振るった。
囲いの中で、彼だけが異様な存在感を放っている。
ラティスから視線を外し、隣の囲いへと歩を進める。そこには、まったく異なる種類の異常があった。
囲いの内側は、白く粘つく糸で覆われている。
天井から床へ、床から壁へ、幾重にも張り巡らされたそれは、明らかに自然のものではない。魔術で編まれた網でもない。もっと生々しく、湿った質感を持っている。
中央に立つノエルの口元から、細い糸が垂れていた。
「……ッ……」
彼女は荒い呼吸を繰り返しながら、断続的に口を開く。すると、そこから粘性のある糸が吐き出され、空中で絡み合い、壁へと張りつく。
教師の一人が、距離を保ったまま風魔術でそれを焼き払おうとする。しかし、糸はすぐに新たに吐き出され、囲いの内側は再び白く染まる。
ノエルの瞳もまた、焦点が合っていない。だがラティスとは違い、動きは鋭い。素早く視線を巡らせ、何かを探すように首を動かす。
「近づくな……」
小さな声が漏れた。
それは警告なのか、拒絶なのか。
次の瞬間、彼女は囲いの壁に向かって糸を射出する。粘糸は壁に絡みつき、引き絞られるように張力を帯びる。その動作は、偶発的というより、本能に従ったもののようだった。
サラサの証言が脳裏をよぎる。
……ノエルはポイズネススパイダーにやられた、と。
だが、ここで結論づけることはしない。
ノエルは急に体を縮めるように丸め、両手を床につく。背中が弓なりに反り、次の瞬間には素早く位置を変える。囲いの中を、一定のリズムで移動している。
獲物を待つかのように。
彼女の呼吸は速く、規則的ではない。だが、暴走しているだけではない何かがある。一定の行動様式が見える。
「ノエル」
呼びかける。
一瞬だけ視線がこちらに向く。だが、それは俺を“認識”した視線ではなかった。存在を感知しただけの反応だ。
そして、再び糸を吐き出す。
囲いの外にいる生徒たちは、息を呑んでその様子を見ている。恐怖と混乱が空気に漂う。
俺は次の囲いへ移る。
ディラドは、床に膝をついたまま、うずくまっていた。
一見すると静かだ。だが、その両手に異変がある。
爪が異様に伸び、黒ずんでいる。光を反射しない、不気味な質感だ。指先は鋭く尖り、まるで毒針のように変質している。
「……来るな……」
震える声。
だが、その言葉とは裏腹に、次の瞬間、彼は突発的に囲いの壁へと爪を振るった。土の表面が削れ、黒い跡が残る。
毒だ。教師の一人が顔色を変える。
ディラドは再びうずくまり、両手で頭を抱える。次の瞬間には、突発的に立ち上がり、空中を引っ掻くような動作を繰り返す。
規則性はない。
恐怖と攻撃衝動が、交互に表れている。
サラサは「ディラドはキラービーに刺された」と言っていた。だが、今目の前にある現象は単純な毒症状ではない。肉体の一部が、明らかに異質な変化を見せている。
三人に共通しているのは、理性の断絶。
そして、行動様式がそれぞれ異なること。
ラティスは圧倒的な腕力。
ノエルは粘糸。
ディラドは毒爪。
だが、俺はまだ結論を出さない。
ただ一つ、確かなのは……。
これは、単なる精神錯乱ではない。
囲いの中で、三つの異なる異常がうごめいている。




