学院2年サラサ編 第七十八章 サラサパーティー3人の異常⑤ 召集とサラサの証言
学院の中庭にいた俺のもとへ、血相を変えた伝令が駆け込んできたのは、昼を少し過ぎた頃だった。
「ルーメン・プラム・ブロッサム殿ですね」
名を呼ばれた瞬間、ただ事ではないと分かった。伝令の制服はイレンティア大聖堂のものだ。息は上がり、額には汗が浮かんでいる。
「大神官様より、至急の召集です」
周囲にいた生徒たちがざわめく。大神官からの直接召集など、そうあるものではない。
「……何があった?」
思わず問い返すが、伝令は首を振った。
「詳しい事情は現地で、とのことです。ただし……学院の緊急事態と」
その一言で、胸の奥が冷えた。
学院の緊急事態。
昨日の討伐訓練が、脳裏をよぎる。
サラサたち四人は確かに瀕死だったが、リジェレネイトヒーリングは施した。命に別状はないはずだ。教師たちも到着し、引き渡している。
だが、大神官が動くほどの事態とは……。
「分かりました。すぐに伺います」
俺は迷わなかった。
エアリスが駆け寄ってくる。
「ルーメン、どうしたの?」
「大聖堂から召集だ。学院の緊急事態らしい」
エアリスの表情が一瞬で引き締まる。
「……昨日の?」
「多分ね」
それ以上は言わない。まだ何も確定していない。
「気をつけてね」
「すぐ戻る」
短く答え、俺は学院を飛び出した。
イレンティア大聖堂までの道は何度も通っている。だが今日の足取りは重い。急いでいるはずなのに、頭の中では様々な可能性が巡る。
神位の癒しが効かない。
もし本当にそうなら、普通の負傷や毒ではない。
森で見た霧。魔物の群れ。そして、あの小さな個体。
嫌な予感が、胸の奥に沈む。
石畳を蹴り、大聖堂の白い壁が視界に入る。門前にはすでに神官が待機していた。
「お待ちしておりました、ルーメン殿」
門が開かれる。
中へ足を踏み入れた瞬間、空気の重さが違うと分かった。緊張が張り詰め、静寂が異様に深い。
広間の奥、土魔術で作られた強靭な囲い。その向こうから、鈍い衝撃音が響いている。
大神官が振り向いた。
「来たか、ルーメン」
その眼差しは真剣そのものだ。
「状況は深刻だ。神位の癒し魔術も効果がない」
囲いの向こうで、何かが壁を叩く音が再び響く。
俺はゆっくりと息を吸った。
「詳しく、聞かせてください」
初めて、大神官から直接呼ばれた。
それが意味する重さを、はっきりと理解しながら。
大神官の隣には、学院から同行してきた魔術師教師と剣術教師が立っていた。どちらも疲労の色が濃く、昨夜ほとんど眠っていないことが見て取れる。
「ルーメン」
魔術師教師が口を開く。
「君が救出してくれた四人だが……医務室での経過観察中は、特に異常は見られなかった」
「意識は戻っていたんですか?」
「いや。意識はまだ朦朧としていたが、呼吸も安定し、魔力も落ち着いていた。少なくとも、我々の感覚ではそう判断した」
剣術教師が拳を握る。
「夜まではな」
その一言に、空気が重く沈む。
「最初に異変を起こしたのはラティスだ」
教師の視線が、囲いの中へ向く。
土の壁越しにも伝わる衝撃音。重く、鈍い。人の拳とは思えない。
「突然立ち上がり、医務室の備品を破壊し始めた。制止を振り切り、壁を叩き、扉を蹴り飛ばそうとした。人間離れした力だった」
「魔術は?」
「使っていない。ただ、純粋な腕力だ。それが異様だった」
魔術師教師が続ける。
「ノエルはその直後だ。口元から糸のようなものを吐き出し始めた。毒性が確認された。医務室の床や壁に張り巡らせ、生徒や教師に向けて放とうとした」
「糸……」
森での戦闘が脳裏をかすめる。
だが、教師の報告はそこまでだ。
「ディラドも同様だ。爪が硬質化し、刺突のような攻撃を繰り返した。誰かれ構わずだ」
剣術教師が歯を食いしばる。
「三人とも、呼びかけには一切応じない。名前を呼んでも反応しない。視線も合わない。ただ……攻撃性だけが前に出ている」
「癒し魔術は?」
「学院内の癒し魔術師が複数で施した。だが、まったく効果が見られない。外傷はないのに、暴走が止まらない」
魔術師教師は悔しそうに目を伏せた。
「魔力の異変も感じ取れない。少なくとも、我々には」
その言葉に、わずかな引っかかりを覚える。
感じ取れない。
だが、それは“ない”という意味ではない。
「サラサは?」
俺が問うと、教師は顔を上げた。
「サラサには同様の兆候は見られない。意識も明瞭だ。ただし、念のため同行させた」
「発症は夜なんですね」
「ああ。医務室を出て寮に戻った後だ」
剣術教師が低く呟く。
「なぜ夜だったのかも分からん」
情報は多いようで、決定的なものはない。
暴れる。糸を吐く。爪が変質する。
だが、それがなぜ起きているのか、教師たちには分からない。
「……分かりました」
俺は囲いの方へ視線を向けた。
土の壁が揺れる。内側からの衝撃だ。
「まずは、直接確認します」
教師たちが小さく頷く。
表面的な情報は出揃っている。
だが本質は、まだ誰にも見えていない。
俺はゆっくりと囲いへ近づいた。
囲いから少し離れた場所に、サラサは静かに立っていた。姿勢は崩れていない。背筋は真っ直ぐで、両手もきちんと前で重ねられている。
だが、その指先にわずかな震えがあることに、俺は気づいた。気丈に振る舞ってはいるが、あの森での出来事は、まだ彼女の中で終わっていない。
俺が歩み寄ると、サラサはすぐに一礼した。
「ルーメンさん。あの日、助けていただいたのは貴方だったのですね。きちんとお礼も申し上げられず、申し訳ありませんでした。本当に、ありがとうございました」
声は落ち着いている。だが、その奥には張り詰めた糸のような緊張があった。
「礼はいいよ。それより、あの日のことを詳しく教えてほしい」
そう言うと、彼女は小さく息を整え、記憶を辿るようにゆっくりと語り始めた。
「あの日、私たちは森の中央付近まで進んでいました。大木が視認できる位置です。規則ではそこから先は進まないことになっていましたので、私は引き返そうと提案しました」
そこまでは、訓練としては順調だったのだろう。
「四人で後ろを振り向いた、その直後です。背後に濃い霧が発生していることに気づきました」
彼女の視線が、遠い森を見るように揺れる。
「最初は地面を這うように広がっていました。森で霧が出ること自体は珍しくありません。ですが……あの霧は、あまりにも早く、あまりにも均一に広がりました」
足元から、膝へ。膝から腰へ。
「振り向いて数呼吸の間に、視界が奪われました。中央の大木も見えなくなり、来たはずの方向も分からなくなりました。左右も、前も、すべてが白くなっていきました」
方向感覚が失われる恐怖は、言葉にしにくいものだ。
「私は一度、全員を止めました。無闇に動けば位置を見失うと思ったからです。そして、救難信号としてファイヤーボールを空に放ちました」
特大の炎が、霧を突き抜けて上空へ昇ったはずだ。
「炎の光で、周囲の影が一瞬だけ浮かびました。その瞬間、私たちは囲まれていることを知りました」
魔物の影。複数の気配。足音、羽音、擦れる音。
「霧が濃すぎて、正確な数は分かりません。ですが、少数ではありませんでした。ゴブリンやオークだけではない、もっと数が多く、統制のない群れでした」
声がわずかに震える。
「私は上位魔術の一斉攻撃を指示しました。最初は押し返せていたと思います。しかし、霧のせいで視界が利かず、距離感も曖昧で……」
仲間の位置さえ、はっきり把握できない状況だったのだろう。
「ディラドがキラービーに刺されました。すぐにブライトヒーリングを施しましたが、彼は恐怖で動けなくなりました。ノエルはポイズネススパイダーの毒糸に絡め取られ、ラティスはハイオークに殴られて……」
言葉が詰まる。
「私は二度目の救難信号として、再びファイヤーボールを打ち上げました」
あの霧の中で、空に炎を上げることがどれほど心細かったか。
「その後、霧の中に、さらに濃い部分があることに気づきました。発生源ではないかと考え、攻撃を試みましたが……」
彼女は一瞬、目を閉じる。
「かわされました。そして、後ろから衝撃を受けたのを覚えています。何にやられたのかは、分かりません。次に気づいた時は、医務室でした」
そこまで言って、サラサは唇を噛んだ。
「医務室で四人で話しました。ラティスは『ハイオークにやられた』と。ノエルは『ポイズネススパイダーだ』と。ディラドは『キラービーだった』と。それぞれ、自分を襲った魔物を口にしました」
自分が何に敗れたのか、それを確認することで、恐怖を整理しようとしたのかもしれない。
「私は、特に異常は感じませんでした。三人も、会話は成立していました。もう出ても大丈夫だろう、という判断で、各自寮へ戻りました」
その判断が、間違いだったのではないかという後悔が、声に滲む。
「三人が暴れ出したのは、その夜です」
学院内が騒然となった光景を思い出しているのだろう。彼女の肩が小さく揺れた。
「私は何も起きませんでした。ですが……リーダーでありながら、三人を守れず、まとめることもできず、あのような状態にしてしまったのは、私の責任ではないかと」
その瞳には、はっきりとした自責の念があった。
「今も、霧の中の音が耳に残っています。足音と、羽音と、擦れる音。視界が白く閉ざされて、仲間が次々と倒れていく光景が……夢に出てくるのです」
声がかすかに震える。
「本当に、申し訳ない気持ちでいっぱいです」
俺はしばらく黙ってから、静かに言った。
「君のせいじゃない」
サラサがゆっくりと顔を上げる。
「あの状況は異常だった。君は規則通り引き返そうとした。救難信号も出した。判断は間違っていない」
彼女の瞳が揺れる。
「だいたいの流れは分かった。ありがとう」
そう告げると、サラサは深く、静かに頭を下げた。
霧、群れ、各自が受けた魔物の攻撃、そして夜の発症。
証言は揃った。だが、まだ何かが足りない。
俺は囲いの中で暴れる三人へ視線を向けた。
サラサの言葉が途切れたあと、しばらくその場には沈黙が落ちた。囲いの内側から聞こえてくる鈍い衝撃音だけが、現実を思い出させる。土魔術で作られた強靭な壁が揺れるたび、空気がわずかに震えた。
サラサはまだ俯いたままだった。自分の中で何度も何度もあの場面を繰り返し、もし違う判断をしていたら、と考えているのだろう。責任感が強い者ほど、自分を責める。
「サラサ」
俺は、彼女の名を静かに呼んだ。
彼女はすぐに顔を上げる。涙はこぼれていない。だが、その瞳の奥に溜まったものは、はっきりと見えた。
「一つだけ、はっきりさせておく」
声は強くもなく、弱くもなく、ただ真っ直ぐに。
「君は規則を守ろうとした。中央へ進まなかった。引き返す判断をした。救難信号も二度出している」
事実を、順番に並べる。
「それはリーダーとして正しい行動だ」
サラサの喉が小さく動いた。
「三人が夜にああなったことと、君の判断は直結しない」
あえて、断定する。
「現場での敗北と、その後の異常は別だ。そこを混同すると、全部が自分の責任に見えてしまう」
彼女は黙って聞いている。反論しない。ただ、必死に言葉を受け止めている。
「君が倒れたのは、最後だ」
霧の発生源と思しき一点に向かったのも、仲間を守るためだったはずだ。
「守ろうとして倒れた者に、失敗の烙印を押す理由はない」
サラサの肩が、ほんのわずかに緩んだ。
「……ですが」
小さく、かすれた声。
「リーダーであれば、全員を無事に戻すべきでした」
「理想はな」
俺は否定も肯定もしない。
「だが、理想と現実は違う。あの霧は、訓練の想定を超えていた」
そこまで言って、言葉を止める。今は原因を断定する段階ではない。
「君がやるべきだったことは、ほぼ全てやっている。足りなかったのは、君の能力じゃない」
俺は囲いの向こうを一瞥する。
「状況の方だ」
サラサはしばらく何も言わなかった。やがて、ゆっくりと息を吐き出す。
「……ありがとうございます」
その声は、先ほどよりも少しだけ安定していた。
「ですが、三人が元に戻るまでは、私は安心できません」
「それでいい」
責任感は、折るものではない。向ける方向を誤らせないだけでいい。
「自分を責める時間があるなら、今後どうするかを考えた方がいい」
サラサの目が、わずかに強さを取り戻す。
「はい」
短い返事。だが、その中に覚悟が戻りつつある。
俺は頷き、視線を囲いの内側へ向けた。暴れ続ける三人。言葉が通じない様子。神位の癒し魔術すら効果がないという事実。
証言は整理できた。
霧。群れ。各自が倒された魔物。そして、夜になってからの異常。
まだ断言はできない。だが、ただの負傷の後遺症ではないことだけは明らかだ。
「もう少し、直接見てみる」
俺はそう言って、囲いの方へ歩き出した。
サラサはその場に残り、静かに三人を見つめている。その視線には、恐怖だけではなく、仲間を取り戻したいという強い意志が宿っていた。




