学院2年サラサ編 第七十八章 サラサパーティー3人の異常③ 3人の異変
森での異常事態は、教師陣にとっても想定外だった。訓練は本来、規則の範囲で危険を避け、上位魔術で十分に対処できる相手を想定して組まれている。
ところが現実には、濃い霧が発生し、魔物が異様な数で集まり、四人が瀕死に追い込まれた。学院が用意した「安全な訓練」の枠を、あの森はあっさり踏み越えたのだ。
それでも、四人は助かった。少なくとも医務室で見た限り、命は繋がっている。皮膚の裂傷も、骨の損傷も、毒による侵食も……表面上は治癒が終わっている。
呼吸は整い、脈も安定し、顔色も極端に悪くはない。泣き叫ぶ者もいない。ただ消耗しきった身体が、深い眠りに落ちているように見えた。
教師たちは迷った。イレンティア大聖堂へすぐに搬送すべきか、それとも学院内で経過観察にするか。大聖堂へ運べば安心は得られる。
しかし、緊急搬送となれば夜間の手配も必要になり、学院側としてはそれ相応の根拠が求められる。目に見える外傷が既に回復している以上、「今すぐ運ばなければ死ぬ」という判断材料が薄い。それが、逆に判断を鈍らせた。
「一晩、学院で様子を見よう」
結論は、そこへ落ち着いた。医務室に四人を寝かせ、癒し魔術師が状態を確認し、教師が交代で監視につく。
もし夜のうちに容体が急変したら、その時点で大聖堂へ。そういう段取りだ。言い換えれば、“今は危機を脱した”という前提を置いたまま、夜を迎えるということでもある。
医務室の中は、静かだった。灯りは落とされ、寝台の横に椅子が置かれ、当直の教師が控える。廊下の足音も遠ざかり、学院全体が眠りへ向かっていく。昼の騒ぎが嘘のような静寂が戻り、教師たちの肩からも、少しずつ力が抜けていった。
だが、その静けさは「安心」ではなかった。理由の分からない濃霧、集まってきた魔物の群れ、そして四人が受けた傷の重さ。治癒が終わっているように見えても、何かが残っていないと言い切れる材料はない。
特に、森で何が起きていたのかを四人自身が十分に語れていない以上、見落としている危険があるかもしれない。教師の胸の奥には、言葉にならない引っかかりが残っていた。
それでも夜は来る。灯りが消え、見回りの交代が始まり、医務室の扉が静かに閉まる。学院は“様子見”という選択をしたまま、確かめきれない不安を抱えて、夜の時間へ踏み込んでいった。
夜が更け、学院の廊下が完全に静まり返った頃だった。医務室の空気は重く、規則正しく並ぶ寝台の上で四人はそれぞれ横たわっている。灯りは最小限に落とされ、当直の教師が椅子に腰掛けて様子を見守っていた。
呼吸は安定している。外傷は回復している。少なくとも、目に見える異常はない……そう判断されていた。
最初に異変が起きたのは、ラティスだった。
寝台が、軋んだ。
教師が顔を上げる。ラティスの身体が、ゆっくりと起き上がっていた。目は開いている。しかし焦点が合っていない。眠ったまま歩く者のように、どこか虚ろだ。
「ラティス?」
呼びかけに反応はない。
次の瞬間だった。寝台の木枠が、音を立てて砕けた。
拳が振り下ろされただけで、分厚い板が割れたのだ。
教師は思わず立ち上がる。あり得ない力だった。訓練で鍛えた学院生の腕力ではない。筋肉の膨張もない。
ただ、純粋に「力」だけが跳ね上がっている。
ラティスは何も言わない。代わりに、周囲を見回す。その動きは鈍重ではない。むしろ獲物を探すような鋭さがあった。
近くの棚へ手を伸ばす。
次の瞬間、棚ごと持ち上げた。
「止まれ!」
教師が叫び、魔術の詠唱に入るより早く、棚は壁に叩きつけられていた。石壁がひび割れ、木片が飛び散る。
医務室の静寂が、一瞬で破壊された。
騒ぎを聞きつけ、別の教師が駆け込む。
「何が起きている!」
「分からん、突然だ!」
ラティスは叫ばない。笑わない。ただ、目に入る物を破壊する。
椅子、机、器具。まるで“敵”を見つけて叩き潰すかのように、躊躇なく拳を振るう。
だがそこに理性はない。
「ラティス、落ち着け!」
声は届かない。
振り上げた拳が石柱に叩き込まれ、柱の角が砕け落ちる。
教師の一人が防御魔術を展開するが、衝撃は想定を超えている。まるで大型の魔物と正面からぶつかったかのような威力だった。
「これは……!」
誰かが息を呑む。
訓練でハイオークに殴られたと報告していた。それが頭をよぎる。
しかし、これは単なる恐慌ではない。身体能力そのものが変質している。
ラティスは振り返り、教師へと向き直った。
その瞳に、人の理性はなかった。
次の一歩で床石が割れ、跳躍と同時に拳が振り下ろされる。
教師は防御結界を重ね、かろうじて受け止めるが、衝撃で後方へ吹き飛ばされた。
「取り押さえろ!」
廊下からさらに教師が集まる。
剣術教師が正面から踏み込み、腕を絡め取ろうとする。しかし、ねじ伏せたはずの腕が逆に振り払われる。骨が軋む音が響く。
ラティスは声を発しない。ただ破壊する。
壁が崩れ、医務室の一角が粉塵に包まれる。夜の学院に、異様な破壊音が鳴り響いた。
この時点で、まだ他の三人は動いていない。
ラティスの暴走が医務室を半壊させかけているその最中、もう一つの異変が静かに、しかし確実に始まっていた。
「……っ、なに……これ……」
かすれた声が、背後から漏れる。
ノエルだった。
寝台に横たわっていたはずの彼女が、上半身を起こし、喉元を押さえている。
苦しそうに息を詰まらせ、胸を上下させる。その様子に、近くにいた教師が駆け寄ろうとした。
次の瞬間。ノエルの口元から、白いものが伸びた。
細く、粘り気を帯びた糸。
それは床に落ちることなく、空中に張りつき、ぴんと張ったまま固定される。
「糸……?」
教師の足が止まる。
ノエルは自分の口から何が出ているのか理解していないようだった。だが次の呼吸で、再び糸が吐き出される。今度は二本、三本。粘性を持つそれは、瞬く間に床から壁へ、天井へと広がっていく。
「離れろ!」
教師が叫ぶ。だが遅い。
近くにあった机が、糸に絡め取られた。粘着性が異常に強い。力任せに引いてもびくともしない。
ノエルは苦しげに息を吐きながら、さらに糸を吐き続ける。
その瞳もまた、焦点が定まっていない。自分が何をしているのか分かっていない様子だった。
「や、やめ……」
誰に向けた言葉なのか分からない声が、喉の奥から漏れる。
だが身体は止まらない。
糸が一本、教師の足首に絡みつく。瞬時に締め上げられ、体勢が崩れる。
「くっ……!」
糸はただの拘束ではない。触れた箇所が、じわりと黒ずむ。毒だ。
「毒を持っている!」
別の教師が叫ぶ。
ノエルは立ち上がった。足元に糸が絡みついているにもかかわらず、まるでそれを意に介さない。
口元から次々と糸を吐き出し、部屋の空間そのものを網で覆っていく。
「これはまずい、医務室から出すな!」
教師たちが防御魔術を展開し、糸を焼き切ろうとする。しかし、焼いても焼いても、次々と新しい糸が張られる。
ラティスの暴力が「力」だとすれば、ノエルの異変は「侵食」だった。
糸が柱を絡め取り、窓枠を覆い、逃げ場を奪っていく。医務室は、瞬く間に巨大な蜘蛛の巣の内部と化した。
ノエルの呼吸は荒い。涙が浮かんでいる。だが表情は硬直している。
「……や……」
かすれた声が、再び漏れる。
それは助けを求める声にも聞こえた。
だが次の瞬間、糸がさらに勢いを増す。
教師の一人が腕を取られ、天井へと引き上げられかける。即座に別の教師が剣で糸を断ち切るが、切れた糸は再び絡みつく。
「ラティスを抑えろ! ノエルも同時に制圧する!」
混乱は一気に拡大した。
医務室の一室で、二人が同時に異常を発現している。
混乱は、そこで終わらなかった。
医務室の隅、壁際に置かれた寝台で、ディラドが小刻みに震えていた。先ほどまで毒に怯え、意識も朦朧としていた少年だ。
ラティスの暴走とノエルの異変に気圧されるように、身を縮めていたはずだった。
「……やだ……やだ……」
か細い声が漏れる。
両手で頭を抱え、膝を抱き込むように丸くなっていたその姿が、次第に崩れていく。指先が、ぎこちなく床を掻いた。
異変は、爪から始まった。
指先の爪が、黒ずむ。
いや、色が変わったのではない。形が変わっている。
教師の一人が目を凝らす。
「……爪が、伸びている?」
細く鋭く、針のように尖る。
人間の爪の範囲を逸脱したそれは、明らかに異質だった。光を反射し、硬質な輝きを帯びている。
ディラドは自分の手を見つめ、理解できないというように震えた。
「な、なに……これ……」
次の瞬間、彼の身体が弾けるように跳ねた。
床を蹴り、壁へと飛びかかる。
「っ!?」
教師が反応するより早く、ディラドの手が振るわれた。毒針のように変化した爪が、石壁を抉る。ぱらぱらと石片が落ちる。
力は、ラティスほどではない。だがその動きは異様に速く、鋭い。
「止めろ!」
剣術教師が踏み込む。
しかしディラドは後退せず、逆に前へ出た。細い腕からは想像できない勢いで、爪を振るう。
教師の腕に掠る。
「くっ……!」
瞬時に防御魔術が展開されるが、掠った箇所がじわりと変色する。
「毒だ!」
叫びが重なる。
ラティスの暴力、ノエルの毒糸、そしてディラドの毒爪。
三人三様の異変が、同時に医務室を襲っている。
ディラドの目は、恐怖と混乱に満ちていた。怒りではない。むしろ怯えだ。だが身体はそれとは裏腹に、攻撃を繰り返す。
「や、やめて……近づかないで……」
叫びながら、爪を振るう。
それは防衛なのか、攻撃なのか、自分でも制御できていないようだった。
床に跳ね、天井近くの梁に飛びつく。まるで軽量の魔物のような跳躍力。
そこから再び飛び降り、教師に向かって突進する。
「三人同時は危険だ! 一気に囲え!」
魔術教師が叫ぶ。
だがまだ囲いは作られていない。暴走の最中に下手に土魔術を展開すれば、内部の教師が巻き込まれる可能性がある。
ラティスが壁を叩き壊し、ノエルが糸を張り巡らせ、ディラドが毒爪で切り裂く。
医務室はもはや治療の場ではなく、制圧戦の場と化していた。
教師陣は覚悟を決める。
「……仕方ない。全員、後退しろ。強制的に抑え込む」
ディラドが再び飛びかかった瞬間、複数の拘束魔術が同時に展開された。光の鎖が絡みつき、足元を固める。
それでも彼は暴れる。爪で鎖を削り、歯を食いしばる。
「嫌だ……嫌だ……」
その言葉が、かえって痛ましい。
彼は戦いたくて暴れているのではない。ただ、何かに追い詰められているようだった。
だが現実として、三人はすでに学院内で暴力を振るっている。
これ以上の被害は許されない。




