学院2年サラサ編 第七十八章 サラサパーティー3人の異常② ミスティムーア
小瓶に収められた小さな死骸を、リリィはしばらく無言で見つめていた。封印用の薄布を重ね、さらに簡易結界を施す。念の入れようが、普段の標本とは明らかに違う。研究対象というより、警戒対象に近い扱いだった。
やがて、彼女はゆっくりと口を開いた。
「……これは、ミスティムーアですね」
その名前を聞いた瞬間、俺は無意識に眉を寄せた。聞いたことがない。少なくとも、学院の授業や、父さんとの森での訓練の中では出てきていない名だ。
「ミスティムーア?」
俺が問い返すと、リリィは頷く。
「極々稀にしか確認されない魔物です。文献も少ないし、実物が残された例はほとんどない。……だからこそ、あなたが持ち帰ったこと自体が異例なのです」
小瓶の中で、虫のようなその小さな体は、まるで乾いた枯葉の欠片のように静かに横たわっている。あれほど森を覆っていた濃霧の中心にいたとは、到底思えないほどの存在感の薄さ。
「濃い霧は、“魔霧”と呼ばれているます」
リリィは淡々と説明を続ける。その声は落ち着いているが、内容は軽くない。
「普通の霧とは違う。魔力を帯びた霧で、周囲の魔物を引き寄せる効果があるとされています。森の奥や、人の出入りが少ない場所で発生した場合、局地的に魔物が異常集結することがあります」
俺は、あの光景を思い出す。ゴブリンの群れ、オークとハイオーク、ポイズネススパイダー、キラービー。種類も習性も違う魔物たちが、一斉に一点へ向かってきた。あれは偶然ではない。
「魔霧が発生すると、魔物は本能的に引き寄せられます。理由ははっきりしていないですけど、餌と誤認しているのか、縄張りを守ろうとしているのか……とにかく、通常よりも攻撃的になりやすいとも言われています」
「……だから、あんな数が」
俺の呟きに、リリィは静かに頷いた。
「ええ。本来なら、森の外周であれほどの混成群れが同時に現れることはありません。上位魔術で対処できる範囲に収まるはずの訓練場が、一時的に危険域に変わります。それがミスティムーアの厄介なところです」
俺は小瓶を見つめたまま、ゆっくりと息を吐いた。
「でも、こんなに小さい」
それが正直な感想だった。羽虫と大差ない大きさだ。森を覆う霧を生み出し、魔物を集める力を持つには、あまりにも頼りなく見える。
リリィはわずかに口元を引き締めた。
「小さいからこそ、厄介なのですよ。見つけにくい。捕まえにくい。倒すのも難しい。霧の中で輪郭が曖昧になる個体もいると記録されていまく。だから、確認例が少ないのです」
俺は思い出す。霧の最も濃い一点。視界がほとんど利かない中で、わずかに感じた強い魔力の集中。あの場所を囲い込まなければ、逃げられていたかもしれない。
「ルーメン、あなたはどうやってこれを倒したのですか?」
リリィの問いに、俺は当時の流れを思い返す。
「霧の中心だと思った場所を、まず囲った。逃げられないように。……ウインドストームで周囲を抑えて、その上からサンダーストームを合わせた。霧の中で、小さい影が弾かれるのが見えました」
正確には、弾かれたというより、霧の中から“落ちてきた”ように見えた。虫の羽音にも似た、かすかな震え。その瞬間だけ、霧の密度が揺らいだ。
「落ちたところを確認したら、これだった。……珍しかったし、原因が分からないままにするのも嫌だったから、拾ってきました」
最後の言葉は、少しだけ自嘲が混じる。好奇心か、責任感か、自分でもはっきりしない。
リリィは、はっきりと首を振った。
「だめだったか、なんて考える必要はありません。むしろ逆です。あなたが持ち帰ってくれたことで、初めて実物を前に研究できます。文献だけでは限界があるものです」
リリィの視線が、小瓶の中の死骸へと戻る。その瞳には、研究者としての純粋な興味と、学院を守る立場としての責任が同時に宿っていた。
「ほとんど何も分かっていない魔物なのです。魔霧の範囲、持続時間、個体差、発生条件……不明な点ばかり。今回の件が偶発的なものなのか、それとも何らかの誘因があったのか、それも調べる必要があります」
誘因。その言葉に、俺は一瞬だけ引っかかった。
「自然発生じゃない可能性もあるのですか?」
リリィはすぐには答えなかった。代わりに、小瓶の周囲に簡易的な魔力測定具を配置し始める。淡い光が、瓶の周囲を囲む。
「今は断定できません。でも、学院の訓練範囲に現れたという事実は重いです。偶然にしては、出来過ぎています」
その言い方は、感情を抑えたものだったが、内側の警戒は明らかだった。
俺は胸の奥に残るざわつきを押さえ込む。あの森は、父さんと訓練した場所だ。リリィとも、何度か入ったことがある。危険はあるが、管理できる範囲の森だった。その均衡が崩れた。
「ルーメン」
リリィがこちらを見る。
「あなたは、現場で魔霧の中にいました。肌で感じたはずです。霧そのものに、異質な魔力の揺らぎはありましたか?」
俺は目を閉じ、あの感覚を探る。湿った空気。視界を奪う白。足音と羽音に紛れる、焦りの呼吸。
「……ありました。普通の霧みたいに冷たいだけじゃない。魔力が混ざっていました。薄く、でも確実に。霧そのものが、生きてるみたいだった」
言葉にすると、ぞっとする。霧が生きているわけがない。それでも、包囲された感覚は、自然現象のそれではなかった。
リリィは小さく頷いた。
「やはりね。魔霧は、ただの視界妨害ではない、魔物を呼び寄せ、場を支配します。だからこそ、発生源の特定と除去が重要なのです」
小瓶の中のミスティムーアは、微動だにしない。ただの死骸だ。けれど、それが生きていた時、森の様相を一変させた。
「ルーメン、危険なところから持ち帰ってくれてありがとうございます」
リリィの声は、今度は柔らかかった。研究者としての感謝だけでなく、個人的な信頼が込められている。
俺は肩をすくめる。
「リリィの役に立てたなら、それでいいですよ。あのまま森に残しておくのも気持ち悪かったので」
本音でもあった。あの霧の中心を、そのまま放置することはできなかった。
リリィは軽く笑みを浮かべ、それからすぐに真顔に戻る。
「すぐに簡易解析を始めるます。外殻の構造、残留魔力、魔霧との関連。分かることは少ないかもしれないけれど、手掛かりにはなります」
彼女は器具を整え、ノートを広げる。その動きは速く、迷いがない。もう完全に研究モードだ。
俺は少しだけその場に立ち尽くし、小瓶の中の小さな影を見つめた。
こんな小さな存在が、森の均衡を崩し、多くの魔物を呼び寄せた。だとすれば……あの森は、まだ安全とは言えない。
だが、その不安は、今は胸の奥に押し込める。
リリィが研究を始める。その背中を見ながら、俺は静かに思った。
少なくとも、霧の正体は見えた。問題は、これが一度きりなのか、それとも……。その答えは、まだ出ていない。
リリィは小さな魔物の亡骸を、まるで壊れ物を扱うかのように丁寧に両手で受け取った。机の上に柔らかな布を敷き、その上にそっと置く。その動作一つ一つが慎重で、目の色は完全に研究者のそれだった。
「ウインドストームとサンダーストームを組み合わせて落としたのですね」
穏やかな声でそう言いながら、リリィは虫眼鏡のような魔導具を取り出す。
「はい。霧の中心部に強い魔力を感じましたので、囲い込んでから雷撃を合わせました。落ちてきたのが見えましたので……珍しい個体かもしれないと思って拾ってきました」
自分でも、なぜ持ち帰ったのかを改めて考える。戦闘中はただ“原因を残したくなかった”という気持ちだったのかもしれない。しかし今こうして冷静に見ると、その判断は間違っていなかったようだ。
「とても良い判断です」
リリィははっきりと言った。
「ミスティムーアは極めて出現例が少なく、生態もほとんど分かっておりません。魔霧を発生させることだけは記録がありますが、持ち帰られた個体の研究例はほぼ存在しません」
魔導具の先端が、魔物の薄い翅に触れる。淡い魔力が反応するが、すでに生命の気配はない。
「この個体はかなり小型です。しかし、魔力の密度は高いですね。恐らく周囲に魔霧を展開し、魔物を引き寄せる役割を担っていたのでしょう」
「やはり、あの霧は偶然ではなかったんですね」
「はい。自然霧ではありません。魔霧は魔力を帯びています。ですので、魔物が活性化し、集まりやすくなります」
リリィの声は終始落ち着いている。だが、その瞳の奥には確かな高揚があった。未知に触れている者の静かな興奮だ。
「ルーメン、危険な状況だったはずです。それでもこの個体を持ち帰ってくださったこと、本当にありがとうございます」
「いえ……俺はただ、原因を残したくなかっただけです」
少し照れくさくなり、視線を逸らす。
「それでも、結果として大変貴重な資料になります」
リリィはそう言って、小型の封印容器を取り出した。魔力を遮断する特殊加工が施された透明な箱だ。
「まずは魔力反応を詳細に測定します。その後、魔霧生成の構造を調べたいと思います」
作業の準備を整えながら、リリィは続ける。
「この魔物が訓練区域に現れたのは偶然か、それとも何らかの要因があったのか。それも含めて検証する必要がありますね」
その言葉を聞きながら、俺は森の光景を思い返していた。濃霧、全方位からの魔物の足音、そして倒れていた四人。
あの状況は、訓練の範囲を明らかに逸脱していた。
「ルーメン」
リリィが柔らかく声をかける。
「今日はもう休まれますか? 討伐後は魔力も消耗しているはずです」
「そうですね……今日は大丈夫です。そこまで消耗していません」
実際、戦闘自体は長引いていない。ただ、あの霧の異様さが胸に引っかかっているだけだ。
「何か気になることがありますか?」
「いえ……ただ、あの森は本来、そこまで危険な場所ではありません。ミスティムーアが偶然出たとしても……少し、出来すぎている気がします」
リリィは小さく頷いた。
「その違和感は大切です。研究を進めれば、何か見えてくるかもしれません」
封印容器の蓋が静かに閉じられる。魔力遮断の結界が淡く光り、魔物の気配は完全に遮断された。
「こちらは私が責任を持って管理します。どうかご安心ください」
丁寧に一礼するその姿は、いつも通りのリリィだった。
研究室の中は静かだ。外ではいつもの学院の夜が流れている。危機も混乱も、まだここには届いていない。
この時点では、すべてが平穏だった。
少なくとも、俺はそう思っていた。




