学院2年サラサ編 第七十八章 サラサパーティー3人の異常① リリィへの報告
第七十八章 サラサパーティー3人の異常
学院から離れた空気は、どこか落ち着いていた。あれほどの濃霧の中で、次々と魔物が押し寄せ、瀕死の生徒たちを抱え、息つく暇もなく救い続けたあの時間が、まるで夢だったみたいに、今は遠い。
けれど、手の中に残る感触だけは嘘をつかなかった。布に包んだ小さな重み。乾いた、軽い、虫のような……それでいて、あの異常の中心にいたもの。
俺はリリィの研究室の扉の前で、一度だけ呼吸を整えた。ここに来るまでに、何度も考えた。持ち帰ってよかったのか。勝手に触れていいものだったのか。けれど、あの霧が自然のものではないと感じた瞬間から、俺の中で結論は出ていた。
放っておけば、また誰かが巻き込まれる。あの森の規則……中央の大木付近に近づくな、手前で引き返せ……それがある理由が、ただの形式じゃないと、今日の出来事が証明してしまった。
扉を開けるとると、すぐに中から声が返ってくる。
「おかえりなさい、ルーメン」
入ると、リリィは机の上の資料から顔を上げた。いつも通りの落ち着いた目。しかし、その奥にある鋭さは隠せない。
俺の表情や、服に残った森の匂い、靴底の土の色……そういうものから、ただ事じゃないと一瞬で判断されるのが分かった。
「ルーメン。……その様子だと、訓練で何かあったのね」
俺は頷き、机の前まで進んで、慎重に包みを置いた。布の結び目を解く手つきは、自然と慎重になる。小さいからこそ、油断が怖い。強い魔力を感じるわけではないのに、あの霧の中で、確かに“中心”にいたものだという確信だけが残っている。
「リリィ、これを見てほしい。今日の魔物討伐訓練で……濃い霧が発生してた」
言葉にした瞬間、喉の奥が少しだけ重くなる。俺の頭の中には、霧の中で聞いた足音や羽音、悲鳴になりかけた声がまだ残っている。訓練のはずだった。上位魔術で十分対応できるはずの森で、あんな異常が起きるはずがなかった。
「霧は、森の外周から中心へ進んだ頃に突然出た。流れ方もおかしかった。風で流される霧じゃなくて……囲むみたいに、四方から押し寄せる感じだった」
布をめくると、中には小さな死骸がある。乾いていて、指先ほどの大きさしかない。羽や脚の形は虫に似ているが、学院の森にいる普通の虫とは決定的に違う。
体の表面が、煤のように薄く黒ずんでいる部分と、霧の粒みたいに淡く白い部分が混ざっていて、光の当たり方で輪郭が揺らぐように見える。
俺はそれを指で直接触れないように、布越しに位置を整えながら、リリィの反応を待った。
彼女は立ち上がり、机の端から身を乗り出して、その小さなものを見つめた。瞬きが一度だけ遅れる。驚いた時に出る、あの僅かな間。
「……それを、あなたが持ち帰ってきたの?」
問いは短い。けれど、その短さが逆に、驚きの深さを示している気がした。俺は頷く。
「霧が一番濃い場所があって、そこだけ……他と違ってた。そこに、強い魔力が集まってる感覚があった。霧の発生源はそこだと思った」
俺は言葉を選びながら説明する。まだ、確信として断言しすぎたくない。けれど、現場での感覚は、嘘をついていなかった。
「その一点を抑えたあと、霧は薄くなった。完全に消えたわけじゃないけど、囲い込むような圧が消えた。だから……これが、その発生源の魔物だったんじゃないかと思う」
リリィの視線が、死骸から俺の顔へ移る。普段なら穏やかに笑うところだが、今は違う。研究者の目だ。状況の危険性を、瞬時に組み立てている。
「濃い霧が、訓練中に。しかも、あなたが“発生源”と感じた存在がいた……」
彼女は小さく呟くように繰り返し、もう一度死骸へ視線を戻した。指先がわずかに動く。
触れたい衝動を抑え、まずは観察を優先しているのが分かる。リリィは、扱うべきものと、今触れてはいけないものの区別を、恐ろしいほど正確にする。
「……ルーメン。これ、どこで拾ったの」
「霧が一番濃い場所。森の中央に近かった。でも、規則で禁止されてる大木のすぐ近くまでは行ってない。手前の範囲で、異常が起きてた」
言いながら、胸の奥に引っかかる。規則で禁止されている場所に“近づいていない”はずなのに、その手前でこれだ。なら、禁止されている場所には、何がある。俺の知らない何が、まだ眠っている。
リリィはしばらく無言で死骸を見つめていた。研究室の静けさが、逆に不気味に感じる。窓の外の風音が遠く、紙の匂いと薬草の匂いだけが漂う。
ここは安全な場所だ。そう信じたいのに、机の上の小さな死骸が、その安心をじわじわ削ってくる。
「……なるほど」
リリィが息を吐き、視線を上げた。その表情には、驚きと、別の何かが混ざっていた。警戒。確信に近い予感。そして、わずかな苛立ち。
こんなものが学院の訓練範囲に現れたこと自体が、異常だという苛立ちだ。
「あなたが気づいて、ここに持ってきたのは正しい判断ですよ」
その言葉に、俺はほんの少しだけ肩の力が抜けた。持ち帰ったことが勝手だったのでは、という迷いが、わずかに軽くなる。だが、それと同時に、リリィが“正しい判断”と言い切る重さも感じる。
正しい、ということは……それだけ危険で、重要なものだということだ。
リリィは机の引き出しを開け、細い器具と、透明な小瓶、封印用の布を取り出し始めた。手つきが速い。迷いがない。研究者としての習慣が、いつも以上に鋭く表に出ている。
「この霧の性質、発生の仕方、魔力の感触……覚えている範囲で、あとで細かく教えてください。些細なことでもいいです。あなたが“囲まれた”と感じた方向性、音の消え方、肌に感じた冷たさ――全部」
「分かりました」
返事をした瞬間、俺は気づく。これは、ただの訓練のトラブルじゃない。
リリィの声の温度が、それを物語っている。彼女は、珍しいものを見つけて喜んでいるだけではない。学院の外で起きた異常が、学院の中にまで影を落とす可能性を、もう見ている。
リリィは小瓶を開け、死骸に触れないように器具で慎重に位置を変えようとした。その寸前、彼女の手が一瞬止まる。視線が、死骸の輪郭の揺らぎに吸い寄せられるように留まった。
「……こんなに小さいのに」
ぽつりと漏れた言葉は、驚きそのものだった。俺も、同じことを思っていた。こんな小さな存在が、森全体を覆うほどの濃霧を生み、魔物を集め、訓練を壊滅させるほどの異常を呼び込んだのなら……大きさと危険は、必ずしも比例しない。
「リリィ。俺は……訓練の森は、上位魔術で十分だと思ってた。あの日の異常は、特別だったって」
言葉にすると、自分の判断の甘さが胸に刺さる。今日の被害を思うと、なおさらだ。
リリィは俺の方を見て、静かに首を振った。
「あなたの判断が間違っていたわけじゃありません。普通なら、そういう森ですよ。だからこそ、今日の“濃霧”が問題なのです。そこに“普通じゃないもの”が混ざったのです」
普通じゃないもの。そう言われると、背中が冷える。俺は死骸を見つめたまま、口の中が乾くのを感じた。
「……とにかく。これが何なのか、まず確かめたい。俺の感覚が正しければ、原因はこれだ」
「ええ」
リリィは短く答え、今度こそ器具で死骸を小瓶へ移そうとする。その動きは、慎重で、丁寧で、同時に急いでいた。研究室の静けさの中で、小瓶の口がわずかに鳴る音がやけに大きく響く。
それを見ながら、俺は自分の胸の奥に残る違和感を抱えたままだった。霧の発生源がこれだとしても、今日の森で起きたことの全てが説明できるのか。魔物が集まったのは、霧の効果だとして。なら、あの生徒たちの“その後”は……。
その答えは、まだここにはない。けれど、少なくとも、糸口は手の中にある。そう思いたい。
リリィの瞳は、もう完全に研究のそれになっていた。小さな死骸を瓶に収め、封をする。たったそれだけの動作なのに、まるで危険な呪いを閉じ込める儀式みたいに見える。
「……ルーメン」
封を終えたリリィが、静かに俺を呼んだ。
「あなたがこれを持ってきたことで、分かることが増えます。だから……ありがとうございます。まずは、ここから始めましょう」
俺は頷いた。平穏に見える研究室の空気の中で、確かに何かが動き始めた感覚がした。




