学院2年サラサ編 第七十七章 魔物討伐訓練⑥ 霧の中の救出
~ルーメンの視点~
森の別区画で、俺たちは予定通り訓練を進めていた。ゴブリン、オーク……想定内の魔物ばかりだ。連携を確認し、無理をせず、規定範囲で戻る。それが本来の流れだった。
だが、不意に胸の奥がざわついた。
空気が変わったわけではない。音が消えたわけでもない。けれど、森全体を覆う魔力の流れに、わずかな歪みが生じている。
淀み。それも、意図的な集中。
「……おかしい」
思わず足が止まる。
エアリスが振り向いた。
「どうしたの?」
俺は目を閉じ、感覚を研ぎ澄ます。森の中に漂う魔力は、通常なら均一に拡散している。だが今、ある一点だけが重く沈んでいる。霧のように絡みつく、人工的な濃度。
自然現象ではない。
「向こうで異常が起きてる」
短く告げると、エアリスの表情が変わる。
「魔物?」
「それ以上かもしれない。魔力が集まりすぎてる」
規定上、中央付近への接近は禁止されている。だが、その手前で何かが起きている可能性はある。
俺の中で判断は早かった。
「エアリス、こっちは任せていいか」
問いというより確認だった。
エアリスは即座に頷く。
「行って。私がまとめる」
迷いのない声だった。
俺は方向を定め、一気に駆け出す。木々の間を縫い、枝を避け、地面の起伏を踏み越える。進むほどに、湿った気配が濃くなる。
やがて、白い壁のような霧が見えた。
森の一角だけが、異様に霞んでいる。
自然の霧なら、風に流れる。だがこれは違う。留まり、囲い込み、外界を遮断するような密度。
中に、生徒がいる。
無闇に吹き飛ばせば、巻き込む。
俺は大きな魔術を使わないと決め、小さく風を起こした。霧を破壊するのではなく、押し分ける程度の出力で、視界だけを確保する。
白の中へ、踏み込む。
足元は見えるが、遠方は霞む。魔力の濃度は確実に高い。
その中心に、異常がある。
俺は呼吸を整え、さらに奥へ進んだ。
まだ、誰の姿も見えない。
だが、確かにここで何かが起きている。
霧の中に踏み込んだ瞬間、視界は一気に奪われた。腕を伸ばせば白に溶け、数歩先の木の幹さえ輪郭が曖昧になる。だが魔力の流れだけは隠せない。濃淡の揺らぎが、森の奥でいくつもぶつかり合っている。
戦闘は、まだ続いている。
前方で羽音が震えた。次の瞬間、横から小さな影が突っ込んでくる。キラービーだ。風で軌道をずらし、地面に叩き落とす。だが一匹ではない。二匹、三匹と霧の中から現れる。
一体ずつ処理する。
距離を取り、石塊を一つ射出する。ストーンランチャーは小さく、狙いを絞る。霧の中では広範囲の殲滅は危険だ。味方がいる。位置を把握できないまま一掃などできない。
左から、重い足音。オークだ。視界に入った瞬間、肩口を狙って石を放つ。直撃はしないが、体勢を崩す。その隙にもう一撃。膝を砕き、倒す。
だが背後からゴブリンが迫る。振り返りざまに風の刃を走らせる。喉元を裂き、倒す。
霧の中で、戦いは断続的に襲ってくる。
一気に片付けられる数ではない。
波のように、間を置いて現れる。
その合間に、かすかなうめき声が混じった。
右前方。
足元を確認しながら進む。霧の濃さがわずかに薄い場所がある。倒れた人影が見えた。
ディラドだ。
体を丸め、杖を手放している。首筋と腕に複数の刺し傷。皮膚は青白く、唇が震えている。毒が回っている。
近づこうとした瞬間、足元の落ち葉が動いた。ポイズネススパイダーが霧の下から這い出してくる。即座に石を叩き込み、押し潰す。だがさらに奥から、もう一体。
距離を詰められる前に風で弾き、木の幹に叩きつける。
ようやくディラドの側に膝をつく。
「しっかりしろ」
返事はない。呼吸は浅く、毒の浸透が早い。すぐにリザレクションヒーリングを施す。神位の癒しが体内を巡り、毒を中和し、損傷した組織を修復していく。紫色が薄れ、呼吸がわずかに深くなる。
完全回復まではいかない。だが命の危機は脱した。
その瞬間、背後で枝が折れる音がした。
振り返る。霧の向こうに、複数の影。ゴブリンが三体、ゆっくりと近づいてくる。
ディラドを庇う位置に立ち、石を一発ずつ放つ。
一体、倒れる。二体目、肩を砕く。三体目は接近してくる。距離が詰まり、風で弾き飛ばす。
霧の中では、戦いは終わらない。倒しても、また次が現れる。
ディラドをすぐに運び出すことはできない。周囲の安全を確保しなければ、背を向けた瞬間に襲われる。
俺は彼を木の根元へ引きずり、防御のための風の層を薄く展開する。完全な遮断ではない。ただ、数秒の猶予を稼ぐ程度のものだ。
「ここで待て。動くな」
意識は戻りかけているが、返事はない。
霧の奥で、さらに強い魔力の揺らぎがある。
残りの三人は、まだ奥だ。
俺は深く息を吸い、再び白の中へ足を踏み出した。
ディラドを木の根元に寄せ、最低限の防護を施したあと、俺は再び霧の奥へ進んだ。足を踏み出すたびに、湿った空気が肌にまとわりつく。視界は相変わらず悪いが、魔力の濃淡がわずかに道標になる。乱れた気配が、まだ二つ、前方にある。
右側から低い唸り声が響いた。次の瞬間、巨大な影が霧を押し分けて現れる。ハイオークだ。腕を振り上げ、こちらへ突進してくる。正面から受ければ衝撃は大きい。横に跳び、足元へ石を撃ち込む。膝を砕かれた巨体が崩れ落ちる。倒れたところへもう一撃。動きが止まる。
だが、霧の中は静まらない。背後でゴブリンが跳びかかる。振り向きざまに風の刃で弾き飛ばし、木に叩きつける。数は減っているが、まだ散発的に襲ってくる。
魔力の揺らぎが強まる方向へ進むと、地面に大きな影が横たわっていた。
ラティスだ。
仰向けに倒れ、頭部から血が滲んでいる。呼吸はあるが浅い。近くには折れた枝と、地面をえぐった跡。強打されたのは間違いない。頭蓋骨が砕けかけている。
近づこうとした瞬間、足元からキラービーが飛び出す。針が光る。即座に石で叩き落とす。さらにもう一匹、低空から迫る。風で軌道を逸らし、幹にぶつける。完全に止まるまで目を離さない。
周囲を確認し、ラティスの側に膝をつく。
「聞こえるか」
返答はない。瞼がわずかに震えるだけだ。
リザレクションヒーリングを施す。神位の癒しが、頭部の損傷へと集中する。ひび割れた骨が再生し、内部の出血が収束していく。血の色が薄まり、呼吸が安定する。
だが完全に目を覚ますまでには至らない。衝撃が大きすぎた。
霧の中で、再び足音が複数近づいてくる。今度はオーク二体。距離は近い。ラティスを抱えたままでは動きが制限される。
一体目に石を放つ。肩口に直撃し、体勢を崩す。二体目が横から迫る。風で押し返し、木に叩きつける。その隙に一体目へ追撃。膝を砕き、倒す。残る一体は距離を詰めてくるが、足元を狙い、転倒させる。倒れた瞬間、喉元へ石を撃ち込み、沈黙させる。
息を整え、ラティスを近くの木陰へ引きずる。ディラドの位置とは別方向だが、少なくともこの一帯は制圧した。
まだ終わらない。
霧の奥に、もう一つの乱れた魔力がある。
毒の気配が濃い。
霧の中を進むと、空気の質がわずかに変わった。甘ったるい匂いが混じる。毒だ。ポイズネススパイダーの糸が張り巡らされている証拠でもある。足元に注意しながら、一歩ずつ前へ出る。視界は悪いが、魔力の揺らぎが一方向に集まっている。
かすかな呼吸音が聞こえた。
霧を払うように小さく風を流すと、木と木の間に白い塊が浮かび上がる。糸だ。幾重にも絡みつき、その中心に人影がある。
ノエル。
全身を毒糸に巻き取られ、身動きが取れない。糸は腕にも首にも絡み、じわじわと締め付けている。皮膚の色が悪い。毒が回り始めている。
近づいた瞬間、背後の枝からスパイダーが飛びかかってきた。横へ逸らし、地面に叩き落とす。さらにもう一匹、霧の上から降りる。石で貫き、動きを止める。周囲にまだ複数の気配。だがまずは拘束を解く。
糸を一本ずつ断ち切る。焦って一気に裂けば、毒が飛散する。慎重に、確実に。絡みが緩むと、ノエルの身体が崩れ落ちそうになる。支えながら最後の糸を断つ。
「……っ」
わずかに呻き声が漏れるが、意識は朦朧としている。
すぐにリザレクションヒーリングを施す。毒を中和し、体内に回った成分を分解する。青白かった唇に色が戻る。呼吸が深くなる。
だが回復の途中で、霧の向こうから羽音が迫る。キラービーの群れだ。数は多くないが、ここで足止めされるわけにはいかない。
風を横に流し、飛行を乱す。軌道を崩された個体を石で落とす。二体、三体と処理するが、残りは霧の中へ散っていく。追わない。今は時間が惜しい。
ノエルを木陰へ運ぶ。ラティスとは別の方向だが、少なくともここは一時的に静かだ。回復は完了している。意識も戻るはずだが、戦闘に戻せる状態ではない。
霧はまだ濃い。足元で枝が折れる音がした。低く、速い動き。未知の気配が混じっている。ここから先は、さらに慎重に進む必要がある。
俺は呼吸を整え、霧の深部へと足を踏み入れた。
霧の奥で、微かに揺れる魔力を捉えた。
他の三人とは違う、澄んだ魔力の波形。弱っているが、確かに残っている。
サラサだ。
俺は周囲を警戒しながら、一歩ずつ前へ進む。視界は相変わらず悪い。だが、魔力の感覚だけは嘘をつかない。
足元に何かが倒れている。
霧を払い、確認する。
サラサは仰向けに倒れていた。後頭部には打撃の痕。ローブの肩口には裂け目があり、そこから毒の痕跡が滲んでいる。だが、キラービーの針痕とは違う。刺突ではなく、引き裂くような傷。
どの魔物だ。
この霧の中で接近し、背後から打撃を与え、さらに毒を与える存在。
今は分析している時間はない。
脈は弱い。呼吸は浅い。瀕死だ。
俺は迷わず、サラサの背に手を当てる。
リザレクションヒーリング。
神位の癒しが、静かに流れ込む。破壊された組織を修復し、毒素を中和し、途切れかけた命の糸を結び直す。
サラサの体が小さく震えた。
魔力が戻る。脈が安定する。
意識までは戻らないが、命の危機は脱した。
よかった。
だが、周囲の霧は消えていない。
むしろ、ここだけ濃い。
まるで、この場所を中心にして広がっているかのように。
霧が、ゆっくりと渦を巻く。これは偶然ではない。発生源が近い。
サラサをこのままにしておくわけにはいかない。俺は彼女を抱え、比較的霧の薄い方向へ数歩移動し、木の根元に横たえる。四人が固まれる位置に集める。
魔力は安定している。しばらくは大丈夫だ。
だが、この霧を止めなければ、再び包囲される。
俺は立ち上がり、濃度の最も高い方向へ視線を向けた。
霧の奥で、何かが動いている。
正体は分からない。
だが、確実にそこにいる。
俺は、静かに前へ踏み出した。




