学院2年サラサ編 第七十七章 魔物討伐訓練⑤ 霧の中の崩壊
霧の奥から、最初に姿を現したのは小柄な影だった。
赤黒い肌、歪んだ牙、濁った目。
「ゴブリン……!」
ラティスが吐き捨てる。
一体ではない。二体でもない。
霧を裂くように、群れが押し寄せてくる。低い唸り声を上げながら、短剣や棍棒を振りかざして突進してくる。
「前方、来るわよ!」
ノエルの声と同時に、さらに大きな影が現れた。
オーク。
筋肉質な巨体が霧をかき分ける。その後ろには、さらに一回り大きい個体……ハイオークの姿も見える。
「数が多すぎる……!」
ディラドの声が震える。
だが、それだけではない。
地面を這う黒い影が広がる。長い脚が絡み合うように動く。
「ポイズネススパイダー!」
ノエルが叫ぶ。
さらに、頭上から甲高い羽音が重なった。霧を裂いて飛び込んでくる影。
「キラービーまで……?」
ラティスの声に、余裕は消えていた。
四方。完全に囲まれている。
ゴブリンの群れが前方から突進し、オークとハイオークがその背後を押し上げる。横からは巨大な蜘蛛が迫り、上空ではキラービーが円を描いている。
四人に対して、この数。
訓練の規模を明らかに超えている。
「一斉に上位魔術を!」
サラサが叫ぶ。
ラティスは即座に魔力を練り上げる。「わかってらぁ!」
ノエルも歯を食いしばる。「任せて!」
ディラドも遅れながら魔力を集める。「が、頑張ります……!」
次の瞬間、四方へ魔術が放たれた。
炎、水、風、土。
上位魔術が霧の中を裂き、最前列のゴブリンたちを吹き飛ばす。オークの一部もよろめき、蜘蛛の脚が断ち切られる。
だが……。倒れた魔物の隙間を埋めるように、後続が現れる。
霧が視界を奪い、正確な数が把握できない。
撃っても撃っても、影が減った実感がない。
「まだ来るぞ!」
ラティスが叫ぶ。
「切りがない……!」
ノエルの声も焦りを帯びる。
サラサは冷静を保とうとするが、胸の奥で警鐘が鳴る。
これは、偶然の遭遇ではない。
魔物が“集まっている”。
しかも、異種混在の群れだ。
ゴブリン、オーク、ハイオーク、ポイズネススパイダー、キラービー。
通常、同じ領域にここまで統制なく集まることはない。
何かに引き寄せられているかのように。
だが、考える余裕はない。
ゴブリンの一体が距離を詰め、棍棒を振り上げる。
ラティスがそれを焼き払う。
蜘蛛が横から跳びかかり、ノエルが風刃で切り裂く。
その間にも、上空からキラービーが急降下してくる。
数が、圧倒的に多い。
「距離を詰められる前に削って!」
サラサが指示を飛ばす。
四人は背中を預け合いながら、必死に外側へ魔術を放ち続ける。
だが、包囲の輪はじわじわと縮んでいた。
霧の内側で、魔物の群れがうねる。
訓練という言葉は、すでに意味を失っていた。
魔物の波は止まらない。
四人は背中を預け合いながら、外周へ向けて上位魔術を撃ち続けていた。炎が霧を赤く染め、水刃が空気を裂き、風が群れを押し返し、土が足止めをする。それでも、包囲の圧はじわじわと迫ってくる。
「上だ!」
ラティスの声が響いた。
頭上から急降下してくる黒い影。キラービーだ。数匹ではない。霧の向こうで羽音が重なり合い、位置を掴みにくい。
ディラドは慌てて杖を掲げたが、詠唱が一瞬遅れた。
その刹那。
鋭い衝撃が腕を貫いた。
「っ……!」
短い悲鳴。
毒針が、ディラドの上腕に突き刺さっている。すぐに抜き取ろうとするが、手が震えてうまく力が入らない。
「ディラド!」
サラサが即座に距離を詰める。
キラービーが再び旋回しようとする瞬間、水刃が走り、その一匹を切り落とす。同時に、サラサはディラドの腕を掴み、魔力を流し込んだ。
ブライトヒーリング。
暖かな光が広がり、傷口を塞ぎ、体内に回り始めた毒を打ち消していく。皮膚の色が戻り、荒れていた呼吸が徐々に整う。
「もう大丈夫です。深くは入っていません」
サラサは落ち着いた声で告げる。
だが、ディラドの目は焦点が定まらない。
「……こ、こわ……」
小さな声。
彼の視界には、まだ無数の羽音が響いている。刺された感覚が、身体に焼き付いて離れない。
「立てますか?」
サラサが問いかけるが、ディラドは答えない。
両膝が崩れ落ち、地面に手をつく。次の瞬間、頭を抱え込むように丸まり、そのまま動かなくなった。
「ディラド!」
ノエルが叫ぶ。
だが、再びゴブリンが距離を詰めてくる。オークが大きく踏み込む。蜘蛛が脚を広げて跳ねる。
「下がれ!」
ラティスが前へ出て火球を叩き込む。数体を焼き払うが、空いた隙間を別の個体が埋める。
サラサは一瞬だけ目を閉じた。
ディラドを抱えて離脱する余裕はない。だが、ここに置き去りにすることもできない。
「私が守ります」
短く告げ、ディラドの前に立つ。
水の刃を連続で放ち、近づく魔物を削る。風を足元へ流し込み、接近速度を鈍らせる。
しかし、戦線は明らかに苦しい。
ラティスとノエルが前面を支えているが、数が減らない。霧の奥から新たな影が押し寄せる。
キラービーが再び急降下する。
ノエルが風で撃ち落とすが、視界が悪く、死角が生まれる。
ディラドはまだ動けない。
彼の呼吸は荒く、手は震え、目は恐怖で固まっている。
「しっかりしてください!」
サラサが声をかけるが、返事はない。
群れは、さらに近づく。
包囲の輪が、一段狭まった。
霧の中で、状況は一気に傾いた。
サラサがディラドを庇う位置に立ち、水刃と風圧で正面を押し返す。その横でラティスとノエルが攻撃を重ねているが、群れの圧は明らかに増していた。数が減らないどころか、どこから湧いてくるのか分からない。
その時だった。
「ノエル、右!」
ラティスの声。
だが、声よりも早く、白い何かが霧の中から飛び出した。
粘着質な糸。
ポイズネススパイダーの毒糸だ。
ノエルは反射的に風を起こそうとしたが、霧のせいで距離感を誤る。糸は彼女の腕と胴を絡め取り、一瞬で締め上げた。
「っ……!」
体勢が崩れる。
足元に絡みついた糸がさらに巻き付き、身動きが取れなくなる。毒が皮膚からじわじわと染み込んでいく。
「ノエル!」
ラティスがそちらへ踏み出す。
その一瞬、正面の警戒が緩んだ。
霧の向こうから、巨大な影が突進してくる。
ハイオーク。
棍棒のような腕が振り下ろされた。
鈍い衝撃音。
ラティスの身体が宙に浮き、そのまま勢いよく地面に叩きつけられる。
「……っ」
声にならない吐息。
頭部を強く打ち、動かない。霧に赤が滲む。
サラサの心臓が跳ね上がる。
「ラティス!」
だが、近づけない。前方からはゴブリンとオークが押し寄せ、上空ではキラービーが旋回している。
ディラドが再び短い悲鳴を上げた。
別のキラービーが毒針を突き立てる。今度は首筋だ。
「……ぁ……」
言葉が途切れる。
サラサは歯を食いしばり、魔力を引き上げる。
「ラティスを守って! ノエル、意識を保って!」
だが、ノエルは糸に絡め取られたまま、必死に風を起こそうとしているものの、毒が回り始めているのか、魔力の流れが鈍い。
ラティスは動かない。
ディラドは震えながら地面に伏したまま。
包囲は狭まる。
霧の中から、さらに羽音と足音が重なって聞こえてくる。
サラサは空を見上げた。
「ファイヤーボール!」
声と同時に、巨大な炎球が上空へと放たれる。特大の火球が霧を赤く照らし、森の上空で炸裂した。
救援信号だ。
一度目よりも、さらに強い願いを込めて。
だが、援軍が来るまで持ちこたえられるかは分からない。
炎の残光が消えると同時に、霧の白が再び世界を覆った。
三人は倒れ、一人は守るために立つ。
その均衡が、今にも崩れようとしていた。
炎の残光が消え、再び白が支配する。
サラサは荒くなる呼吸を押さえ込み、周囲の魔力の流れを探った。視界は利かない。だが、魔力は嘘をつかない。濃霧そのものが不自然だとすれば、どこかに核があるはずだ。
「……違う」
空気の揺らぎの中に、わずかな偏りを感じる。
霧の中で、ひときわ濃い場所がある。
魔物の群れとは別の、芯のような存在。そこだけ魔力が歪み、白を生み出しているように見える。
「そこ……」
サラサは一歩踏み出した。
正面のオークを水刃で切り裂き、接近してきたゴブリンを風で薙ぎ払う。キラービーの針をかわしながら、わずかに視界が開けた方向へ魔力を集中させる。
「ウインドスラスト!」
一点に向けて放った風圧が、霧を押しのける。
一瞬だけ、白が裂けた。
その奥に、動く影がある。
小さい。
ゴブリンよりも小型。獣のようでもあり、虫のようでもある。形が定まらず、霧と同化するように蠢いている。
「……見つけた」
未知の魔物。
少なくとも、教本で見たことはない。
サラサは迷わなかった。
「ウインドカッター!」
風刃を連続で放つ。白を裂きながら、その小さな影へと切り込む。
さらに間髪入れず、
「ウォータースライス!」
水刃が追撃する。
だが、影は霧の中へ滑り込むように逃れた。霧が濃くなり、再び視界が閉ざされる。
背後で、何かが倒れる音がした。
振り向けば、ノエルの身体が糸に絡め取られたまま、完全に動きを止めている。毒が回りきったのか、意識が薄い。
ラティスは地面に横たわったまま反応がない。
ディラドも震えながら、ほとんど身動きできていない。
「……まだ、終われません」
サラサは自分に言い聞かせるように呟いた。
リーダーが崩れれば、全員が終わる。
魔力をさらに引き上げる。霧の核へ向けて、もう一度大きな一撃を叩き込むしかない。
「逃がしません」
霧の濃い一点に狙いを定め、両手を広げる。
次に放つのは、広範囲を巻き込む水の嵐だ。
サラサの周囲に、水の魔力が渦を巻き始めた。
サラサの周囲に集束した水の魔力が、一気に解き放たれる。
「ウォーターストーム!」
渦巻く水流が霧の一点へと叩きつけられた。圧縮された水の奔流が白を押し裂き、地面を抉り、木々を揺らす。視界が一瞬だけ開け、霧の奥に潜んでいた小さな影が露わになる。
確かにそこにいた。
虫のように小さく、しかし周囲の霧と魔物の動きを支配している存在。
だが……。水流が直撃する直前、その影は信じがたい速度で横へ跳ねた。霧が巻き上がり、再び視界が閉ざされる。
「かわした……?」
一瞬の驚き。その刹那だった。
背後から、重い衝撃が後頭部を打ち抜いた。
視界が弾ける。
「っ……!」
地面が近づく。膝が崩れ、体勢が乱れる。
振り向く間もなく、腕に鋭い痛みが走った。キラービーの毒針が深く突き刺さる。毒が血流に乗って広がる感覚が、冷たい恐怖と共に身体を侵す。
視界が滲む。音が遠ざかる。
それでも、サラサは倒れながら必死に意識を繋ぎ止めようとした。
「……みんな……」
ラティスは動かない。ノエルも、ディラドも、霧の中で倒れている。
自分が最後の一人だと理解した瞬間、胸の奥に焦燥が走る。
救援信号は二度放った。教師が気づいてくれればいい。そう願うしかない。
だが、霧は濃いままだ。
魔物の足音が近づいてくる。
サラサは最後の力で杖を握ろうとするが、指先に力が入らない。毒が深く回り、思考が鈍る。
白い霧が、ゆっくりと視界を覆っていく。
自分の身体が地面に横たわる感覚だけが、ぼんやりと残る。
「……ごめんなさい……」
誰に向けた謝罪かも分からないまま、意識は途切れた。
霧の中に、四人の魔術パーティーは完全に崩れ落ちた。




