学院2年サラサ編 第七十七章 魔物討伐訓練④ 霧の中の異変
白い世界の中で、四人は互いの姿だけを頼りに立ち尽くしていた。
霧はそれ以上濃くなる様子はない。だが薄くもならない。一定の濃度を保ったまま、周囲を覆い隠している。
サラサは一度、深く息を吸った。
「落ち着いてください。まずは位置を確認します」
そう言って、足元の地面に視線を落とす。先ほどまで踏み固めてきた落ち葉の感触を辿れば、戻る方向が分かるはずだった。
だが、踏み跡はすでに曖昧だった。霧とともに湿気が増し、落ち葉が均され、地面の質感が変わっている。
「……おかしい」
小さく呟く。
ノエルが眉をひそめた。
「さっきの位置、覚えてる?」
「中央の大木はあちらにありました」
サラサは腕を伸ばす。だが、指差した先には白しかない。
ラティスが舌打ちする。
「だったら反対に進めばいいだろ」
「待って」
サラサは即座に制止した。
「中央を避けて外周へ戻る判断は正しいですが、今は基準がありません。闇雲に動けば、逆に中央へ近づく可能性もあります」
ディラドが震える声で言う。
「じゃ、じゃあどうするの……?」
その問いに、誰もすぐには答えられなかった。
霧の中では、音も距離も歪む。自分の足音すら、どこから響いているのか曖昧になる。
ノエルがゆっくりと回転し、周囲を見渡す。
「これ、普通の霧じゃないよね?」
「ええ」
サラサははっきりと頷いた。
「自然発生なら、こんな急激に広がりません」
森の地形を知る教師たちが中央付近を立入禁止にしている理由。その一端が、頭をよぎる。
ラティスが声を荒げる。
「だったら中心を突っ切って出るか? どうせ見えないなら同じだ」
「それは規則違反です」
サラサの声は揺れない。
「中央は危険区域。教師の監視外です。訓練の範囲を超えます」
「でもこのまま立ってても何も変わらないだろ!」
ラティスの焦燥が滲む。
サラサは数瞬だけ目を閉じ、思考を整理する。霧は一定。風は弱い。音が消えている。
そして……魔力の流れ。
彼女は静かに周囲の魔力を探る。
微弱だが、偏りがある。
「……中心を避けて、斜めに移動します」
「分かるのか?」
「確信はありません。ですが、魔力の密度がわずかに薄い方向があります」
それが正しいかどうかは分からない。だが、何もしないよりは動いた方がいい。
「四人で固まって進みます。私が先頭、ラティスは後方、ノエルは右、ディラドは私の後ろ。距離を離さないでください」
陣形を決め、ゆっくりと足を踏み出す。
霧は依然として視界を奪い続ける。
数歩進んだだけで、背後の景色は完全に消えた。
方向感覚が、徐々に狂っていく。
足場は平坦だったはずなのに、わずかな傾斜すら判断できない。
ノエルが小さく呟く。
「ねえ……これ、本当に外周に向かってる?」
答えは誰にも分からない。
それでも、止まれば不安は増幅するだけだ。
四人は、白い森の中を、手探りで進み続けた。
白く閉ざされた森の中を、四人は慎重に進んでいた。
足音を極力立てないように、呼吸を揃え、一定の間隔を保つ。霧は視界を奪うだけでなく、距離感までも狂わせていく。自分のすぐ隣にいるはずの仲間の気配すら、どこか遠く感じられた。
その時だった。
……カサッ。
微かな音が、霧の向こうから響いた。
四人の足が同時に止まる。
「……聞こえた?」
ノエルが小声で言う。
今度は、別の方向から。
……ザリ……ザリ……
落ち葉を踏むような音。
ラティスが低く呟く。
「魔物か?」
「分かりません」
サラサは短く答え、耳を澄ませる。
音は一つではない。複数だ。距離も一定ではない。近いものもあれば、やや遠いものもある。
さらに、上からも。
……ブン……ブン……
羽音。
ディラドの呼吸が乱れる。
「こ、これ……人じゃないよね?」
ラティスが即座に否定する。
「人の足音じゃない。軽すぎるのもあるし、重いのも混じってる」
重い音。
……ドス、ドス……
地面を踏みしめる鈍い振動。
四人の視線が自然と交わる。
霧で見えない。
だが、確実に囲まれつつある。
サラサの声が、低く鋭くなる。
「四方を警戒。背中合わせに」
迷いのない指示だった。
四人は即座に動く。中心に立つサラサを軸に、外側を向いて円を作る。杖と魔力を構え、視界の限界へ集中する。
音は止まらない。
むしろ、増えている。
前方、後方、左右、そして頭上。
カサカサと這う音。
地を踏み鳴らす音。
羽ばたく音。
それらが重なり、霧の中で反響する。
ディラドが震える声で言う。
「多くない……?」
ノエルが息を詰める。
「数が……」
サラサは冷静に状況を整理する。
「まだ距離はあります。慌てて撃たないでください。魔力を無駄にしないこと」
だが、音は確実に近づいている。
……ガサッ。
すぐ前の霧が、わずかに揺れた。
ラティスの喉が鳴る。
「来るぞ」
霧の向こうで、何かが動く影。
一つではない。複数。
四人を取り囲むように、足音と羽音が迫ってくる。
サラサの声が、鋭く響いた。
「最大級に警戒してください。合図で一斉に撃ちます」
霧の中で、何かが息を潜める気配がする。
森は、完全に牙を剥こうとしていた。
霧の向こうで、無数の気配が蠢いている。
足音。擦れる音。羽ばたき。
それらが、四方から同時に近づいてくる。包囲されている。
サラサは瞬時に状況を判断した。ここで小出しに応戦しても、位置を把握できないまま押し込まれるだけだ。まずは外に知らせる必要がある。
「私が救難信号を上げます。構えていてください」
短く告げる。
ラティスが低く答える。「早くやれ」
ノエルは霧の中を睨みつけたまま、「来たら撃つわ」と応じる。ディラドは顔色を失いながらも、必死に杖を握り直した。
サラサは上を見上げる。
霧で空は見えない。それでも位置は把握している。救難信号として森の上空へ抜ける高さまで届けばいい。
魔力を練る。胸の奥から熱が立ち上る。冷静さを保ちながら、出力を一気に引き上げる。攻撃用ではなく、遠くまで視認できる光量を優先する。
「ファイヤーボール」
放たれた炎球は、通常のそれよりもはるかに大きかった。
赤橙の塊が一直線に上昇し、霧を突き破る。白い層を焼き裂きながら空へと昇り、やがて上空で炸裂した。
轟音。強烈な閃光が霧の内側まで照らし出す。
一瞬だけ、森の内部が赤く染まった。
その光に浮かび上がったのは、無数の影だった。
低い影。大きな影。地面を這うもの。羽ばたくもの。
数が多い。
だが、まだ姿ははっきりとは見えない。霧がすぐに光を飲み込み、再び白が支配する。
「来る……!」
ノエルが息を呑む。
足音が、一斉に加速した。
枝が折れる音。土を踏み荒らす音。羽の振動。
音だけが迫ってくる。
サラサは杖を握り直した。
「全員、最大警戒。合図で一斉に上位を放ってください」
まだ敵は霧の向こうにいる。
まだ姿は完全には見えていない。
だが、次の瞬間には……接触する。
四人は背中を預け合い、外側へ視線を固定する。
救援信号は確かに放たれた。
届いているかどうかは分からない。
だが、届くまで持ちこたえるしかない。
霧の中で、森が不自然な静寂を破ろうとしていた。




